皆さん、既にお気づきのとおり、私は「日本人にはあわない」というタイプの議論については、ほとんど脊髄反射的に「いや、それは合理性や限定合理性の枠組みで説明がつく話で、日本人だから、という話を持ち出す必要はないんじゃないの?」という反応をしてしまう人間なんですが、じゃあ、「日本的」なものを否定しているかというと、全然そんなわけではなかったりします。
というより、こちら(NY)に来て、「いや、日本は本当にいい国だ」とか「日本人はいいよ」と思ったりすることが多々あります。(もちろん、逆に「アメリカ人いいね」と思うこともあるのですが、比率的には圧倒的に前者です)
結局、経済合理性という意味ではかわんなくても、その現れ方とかディティールというのは、やっぱり民族とか文化で違いが出てくるし、人と人とが実際に触れ合う部分では、そこが大きいんですよね。
・・・なんてことを、にょぷろさんの日本女子たるもの・・・かくあるべきか?を読んで思い出しました。
正直、日本人でありながら、パート1で昇進の話を持ちかけられたときのエミコさんの反応は読みきれなかったのですが・・・(これがジェンダーということなのか、それとも単に私が鈍いだけなのかはおいといて)、パート2での反応を読めば、やはり日本人としては「ああ、なるほど」と思うし、「内心万歳だよ」とは思わないですよね、やっぱり。(「なんのこっちゃ?」と思う方はにょぷろさんの記事を読んでみてくださいね^^)
こういう文化の差は、(当たり前ですけど)厳然としてあるんだと思うし、そういうのは、やっぱり大切にしなきゃいけないと思うんですよね。
例えば、エミコさんにとって、仕事への誇りは給料や地位でははかれない、もっと、内面的なものなんですよね、多分。そういう内面化されている誇りを持って仕事している文化に、いきなり能力給みたいな形を入れればどうなるかというと・・・やっぱり、うまくいかないんですよね。きっと。
究極的には、この「内面化された価値」の効用が給与や地位とよりもその人にとって高い効用を持っているという形で、「合理性」の話に落としていくことは可能だと思うのですが、そこまで深く考えないのに単に能力給を持ってこようとしてもだめですよね・・・
そうした内面化された価値と外形的なインセンティブを、どうやったら結び付けられるのかを考えてはじめて、西洋的な合理性を日本に持ち込むということが言えるということなのかも知れません。
何か、まとまりのない話ですが・・・ところで、パート2で「マイクはどうすべきか」というところの答えは何だったんでしょうね?
(追記)
あ、でも北田選手の発言も、それはそれで分かるので、こういうメンタリティが排除されるわけでもないと思うんですよね