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「法」への幻想 (3)

<前回までのエントリー> 

 

今回は、こんな記事の紹介からです。

第2次大戦中に中国から強制連行され、長野県内の水力発電所建設現場で過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者3人と死亡した元労働者4人の遺族 が国と建設会社4社に約1億4000万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が10日、長野地裁であった。辻次郎裁判長は原告の請求をいずれも棄却した。原 告側は控訴する方針。
・・・判決言い渡し後、辻裁判長は「個人的な感想」と前置きした上で、「我々の上の世代は本当にひどいことをしたという印象を受けた。一人の人間として救済しな ければと思ったが、判例を覆すにはきちんとした理論が立てられないとやむを得ない。この問題は裁判以外の手段で解決できたらと思う」と述べた。

判決言い渡しの後に「個人的な感想」を述べることの当否には、いろいろな考えがあり得ると思いますが、辻裁判長の言葉は、実際に「法」を扱う者が直面する葛藤を表現しているような気がします。


もう一つ、昨年、尊厳死に関連して政治を巻き込んでアメリカで大変な話題となったTerry Schiavoさんの事件におけるフロリダ州最高裁判所の決定文の一節を紹介しましょう。(訳は多少意訳が入っています)

We recognize that the tragic circumstances underlying this case make it difficult to put emotions aside and focus solely on the legal issue presented. We are not insensitive to the struggle that all members of Theresa's family have endured since she fell unconscious in 1990. However, we are a nation of laws and we must govern our decisions by the rule of law and not by our own emotions.Our hearts can fully comprehend the grief so fully demonstrated by Theresa's family members on this record. But our hearts are not the law. What is in the Constitution always must prevail over emotion. Our oaths as judges require that this principle is our polestar, and it alone.
(我々は本件の背後にある悲しむべき状況のために、感情を脇に置いて、目の前に呈示された法的問題のみに注意を向けることが難しいことを認識している。我々はテレサが1990年に意識を失って以来、その家族が耐えてきた葛藤に鈍感なわけでもない。しかしながら、ここは法の国であり、我々は、我々自身の感情ではなく、法の定めるところに従い決定を下さなければならない。我々の心はテレサの家族によって示された悲しみを深く理解することが出来る。しかし、我々の心は法ではない。憲法に定められたことは、常に我々の感情に優先する。我々が裁判官として宣誓した以上、それこそが、そして、それのみが我々の道標でなければならないのである。)

というわけで、今日のところは、日米の裁判官の言葉を紹介して終わりということで。

Posted by 47th : | 10:42 PM

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