私が問題にしているのは、小泉純一郎個人のエモーションの純良さやその憂国の至情ではない。
どのような政治的効果をめざして、どのような政治的文脈の中でその行為を選択したのかについての「説明」だけを求めたのである。
もちろん、ある政治的行為を選んだ理由を決して説明しないということも一つの政治的行為である。そこまで含んでの政治的効果を狙っているということもありうる。
その場合は、「説明がなされない政治的行為」はなぜ説明がなされなかったのかについて考えなければならない。
それをずっと考えてきたのだけれど、小泉首相が東アジアとの外交関係を有利に展開するためにどのような深慮遠謀があったのか、ついに私にはわからないまま彼はその任期を終えようとしている。
ネットにあふれる小泉批判・賛美論の中で、もっとも納得感があったテキストはこれだと思うので引用するが、本題はむしろ以下の部分。
私は為政者が「ナショナリストのようにふるまう」ことはマヌーヴァーとしてしばしば有用であることを認める。
けれども為政者が「ナショナリストである」を喜ばない。
それは、ナショナリズムがほとんどの場合、知性の活動を低下させるからである。
若い人たちがナショナリズムに親和的になる理由の過半は、ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ないからである。
(中略)固有名詞や数値に詳しいのは(政治学者や社会学者の場合もそうだが)、スキームがもう出来上がっている人間の特徴である。
「容れ物」の外郭が固定されると、人間はトリヴィアルな情報をいくらでも詰め込むことができる。
どのような新しいデータが入力されても、スキームそのものが変化する可能性がないという見通しが立ったときに人間は異様に記憶力がよくなるのである。
(中略)つまり、自分が現在その枠組みに基づいて世界を見ている枠組みそのものの有効性・妥当性を疑わせる情報を受容できないという無能力が、トリヴィアルな情報をためこみ、それを即時に取り出す卓抜な能力とトレードオフされているのである。
(中略)もう一度繰り返すが、「ナショナリストのようにふるまうこと」はしばしば高度の知的緊張を要求する。だが、「ナショナリストであること」は特段の知的負荷を課さない。
特段の知的負荷を課さない知的活動を優先的に選択する知性は「あまり知性的ではない」と私は判断することにしている。
私は「マヌーヴァーとしてナショナリストのようにふるまう為政者」の狡知を愛するが、「本気でナショナリストである為政者」の知的怠惰は評価しない。
これを読んで「そうだよね」と思いながら、頭の中に浮かんだのは、ついさっき感じたBeckerとPosnerへの失望感のことだった。


















