Alito Is Confirmed for Supreme Court in 58-42 Vote (New York Times)
明日に備えてやらなければならないことが結構あるのでクリップだけですが、 Alito判事が米国の連邦最高裁判所判事(Justice)として承認されました。
まだ55歳の若さですので、先だって主任判事に就任したRobertsと共に、今後20年以上アメリカの司法界をリードしていくことになるのでしょうね・・・今のところは、それ以上の感慨はありませんが、数年後にふと、この時がアメリカの一つのターニング・ポイントだったと思い返す日が来るのかも知れません・・・
Posted by 47th : | 13:15 | コメント (3) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | 時事
ジニ係数から分かることと分からないこと(1)
最近、日本でも所得格差の広がりが問題ということで、ジニ係数がしばしば話題にのぼっているようです。ジニ係数というのは、一般にある社会の不平等さ(inequality)を測定する基準といわれています。
別に私もそんな昔から知っていたわけでもなく、こっちに来てから開発とかに興味を持っている中で知るようになった概念なので大したことが言えるわけ ではありませんが、開発関係の実証研究を見ていく上では無視できない基準ですので、ジニ係数のインプリケーションをちょっと考えてみたいと思います。(なお以下の記述のうちジニ係数に関する一般的な説明については、もっぱらRay, Development Economics (1998)に依拠しています)
ジニ係数はいくつが望ましいのか?
さて、最近のブログの記事で山口浩さんが世銀の統計を、bewaadさんがOECDの統計をベースに日本社会の位置付けについて考察を加えていらっしゃいます。ソースによって数字が若干違うのですが、そもそもジニ係数というのは、どのぐらいが望ましいのでしょう?
そもそもジニ係数というのは、大ざっぱにいうと全ての国民の所得が平等だとした場合の所得分布と実際の所得分布の状況の差を表す指標です。つまり、ジニ係数0(ゼロ)は完全な結果平等社会を意味します。
これは、匿名性の原則(Anonymity principles)といい、誰が所得を生み出したかは問われないという性質のもたらす帰結です。つまり、アリとキリギリスだけの社会において、アリが稼いだ100万円をアリ自身が保持するのも、アリから100万円をとりあげてキリギリスに渡してしまうのも、不平等さという意味では全く同じということです。
別の言い方をするとジニ係数で図られる「不平等さ」(inequality)は、分配の「公正さ」(fairness)とは何ら関係がないということです。一生懸命働いた者も、そうでない者にも、全く同じ所得が分配される社会は「平等」ですが、「公正」とはいえないかもしれません。
この意味で、ジニ係数は、単に社会における所得配分の状態を単一の指標で比較するための基準というだけであって、その数値の高低そのものには、規範的な意味はないということになります。
Posted by 47th : | 00:49 | コメント (5) | トラックバック (4) | 関連エントリー (0) | Law & Development
エンロンはいつでも起きる (Enron Happens)
[ 2006年01月30日 ]
・・・という刺激的なタイトルのHENRY T. C. HU(テキサス大学教授(会社法・証券取引法))がNew York Timesに寄稿した論説の紹介。
別にライブドア事件を念頭において書かれたのではなく、こちらではエンロンの元CEOケネス・レイらに対する刑事事件のトライアルが始まったと言うところで、折しもエンロン回顧ムードが高まりつつあります。
そんな中Hu教授は、こんな書き出しで論説を始めます。(以下日本語訳は適当に意訳もあり)
エンロンがまた起きることは「あり得る」か?あり得るだろう。では、それは我々のコーポレート・ガバナンスのシステムが詐欺的な行為を抑止するのに十分でないかだろうか?いや、必ずしもそういうわけではないのだ。
(CAN Enron happen again? Yes. Does this mean our corporate governance system isn't doing enough to deter fraud? Not necessarily. )
そして、次のように述べて一定の詐欺的行為の存在は社会にとって望ましい状態であると述べます。
確かに株主の利益は唯一の指標とはなり得ない。会社による詐欺的行為は株主のみならず、とりわけ市場に対する一般的な信頼を傷つける。サーベンス・オクスレー法や他の手段を通じて政府が株主にとって最適な水準よりも、より厳しい水準の抑止措置を求めることは筋が通っている。
それでも、会社の取締役に必要以上の時間を見回りに費やすようにしむけることには現実的なコストが生じる。詐欺的行為を重視しすぎることは、経営陣の選任・監督、報酬システムをの設計、戦略的なアドバイスの提供といった株主の利益にとって重要な活動に注がれるべき労力を別の方向にそらすことになる。そして、結局のところは、詐欺的行為のコントロールに対する注意を少なくして、より経営陣の監督に意識を向けることが、単に会社の業績を上げるだけでなく、詐欺的行為を減らすこともあり得るのだ。
(Obviously, shareholder welfare cannot be the sole touchstone. Corporate fraud hurts not only the shareholders but also, among other things, general market confidence. Through the Sarbanes-Oxley Act and other means, it makes sense for government to require more in terms of deterring fraud than may necessarily be optimal for shareholders.
Still, there are real costs associated with forcing corporate directors to spend too much time playing sentry. Focusing on fraud diverts directors from activities like choosing and monitoring management, devising compensation systems and offering strategic advice — all things that are important to shareholder welfare. And as it turns out, concentrating less on fraud control and more on overseeing management may not only enhance corporate performance but can sometimes also reduce fraud.)
ここに見られる、「一定の悪はむしろ社会的に望ましい」というドライな発想は、たぶん、アメリカでも一般うけはしない発想だと思うのですが、ドライなだけに真実をついているという面があると個人的には思っています。察しの言い方は既にお気づきのとおり、私は、かなりの部分でこういう基本的な発想をしております。
実は、Becker-Posnerの例の臓器売買の話についても、私はあんまりアレルギーは感じないところで・・・ただ、臓器に関しては、生態適合性みたいに価格シグナルの中に織り込めない情報が資源配分の効率性においてキーとなる(高い価格がつけられても、適合性が不足して臓器が廃棄されれば損失が生じる)というところと、予算制約線による制約が簡単にヒットしそうなので、初期資源の配賦の公正の問題を避けて通ることはできないんじゃないの?(逆にいえば、貧富の差の小さい社会なら別にいいかも・・・)・・・という、極めてドライな理由により、Beckerのポジションに必ずしも賛同していないだけだったりします。まあ、これは蛇足ですが・・・
(本当は全文をご紹介したいんですが、著作権が怖いんで・・・ただ、WSJと違って、NYTは基本的なサブスクリプションは無料なのでご安心下さい(過去記事は有料ですが))
Posted by 47th : | 17:52 | コメント (6) | トラックバック (3) | 関連エントリー (1) | Corporate Governance : Compliance
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (おまけ)
今日の授業のゲスト・スピーカーWilliam Easterly教授の話から興味深かった点をいくつかメモがわりに。
経済成長と分配問題
前に書いたようにEasterlyの基本的な立場は、一人当たりGDP(GNP)の成長であり、余り国内の分配のあり方には立ち入らないというものでしたが、やはり質疑の中でもここに相当焦点が当たりました。
Easterlyによれば、経済成長にかかわらず、国内の所得分配のあり方は長期的に見てもほとんど変化しないので、やはり経済成長が重要とのこと。
ここまでは著作に書いているところからも予想できた答えです。ただ、他方で、Easterlyは経済成長の鍵である技術発展のためには政府の積極的な関与が必要であるということも言っており、さらに経済成長においては歴史的な経緯を無視できないと強調していることから、私の中では、勝手に技術発展を促すという程度においては既存の所得の再分配に肯定的なのではないかと思っていました。
歴史的産物としての不平等と資源再分配
この点について、歴史的な経緯から所有権の配分がいびつになっているような国においては、例えば日本における戦後の農地解放のように国家権力による資源の再分配が必要ではないかという問いがでてきたのに対して、Easterlyは言葉を選びながらも、その点に政府が介入することは人々の予測可能性を奪ったり、再分配の過程そのものにおいて新たな歪みが生じたりといった可能性もあり望ましくないと説きます。
彼は、技術の発展や経済成長自体が自然と社会の資源分配のあり方を是正するといいます。例えば、技術の発展により生産における土地の重要性が低くなれば、歴史的経緯からつくりだされた土地所有権の不公正の問題は長期的にみれば是正されると・・・
民主主義と経済発展
もう一つ意外だったのは、彼の著作を見る限りは、Easterlyはセンとは違って経済発展と政治的なあり方をダイレクトに結びつけないように思ったのですが、今日の話の中では、かなり強い調子で民主主義は経済発展にとって望ましいという見方を展開していました。
ポイントは、民主主義は国民に対するアカウンタビリティを増し、また、極端な政府が誕生するのを防ぐというものです。もっとも、単に民主主義というだけではだめで、彼は少数者の保護がなされているかどうかが必要であって、単なる多数決主義であってはいけないとも言います。
個人的には、単なる多数決主義と少数者保護を有する民主主義というのを、きれいに区別できるか若干疑問もあるところです・・・などと思っていたら、パレスチナのハマス勝利に絡めて例のごとくBeckerとPosnerが極めてプラグマティックな民主主義に対する見方を示しているところが、何かタイミング的にはまっていて一人でうけてました。
アカウンタビリティとモニタリング
最後に(実際の順序としては最初に話していたのですが)、Easterlyの話で最も印象深かったのが、開発分野におけるアカウンタビリティの不足とモニタリングの難しさです。
開発における成果を適切に評価するための物差しがないことと、援助国や援助機関のアカウンタビリティの欠如が、経済成長をもたらさない援助をもたらしている・・・そのために、これまでに3.2兆ドルの援助が費やされながら、未だにたった4ドルの清潔な布団?(自信なし)があれば防げるマラリヤによって死亡する子供が後を絶たないという状況が起きている、と。
著作からは神経質な学者肌の人を想像していたのですが、実際は中学校の国語の先生(分かるかなぁ)という感じの親しみを感じさせる人で、学生の質問にジョークを交えながらも、真摯に応えていたのが印象的でした。
Posted by 47th : | 15:02 | コメント (9) | トラックバック (2) | 関連エントリー (0) | Law & Development
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (4)
前回はファイナンシング・ギャップ・モデルに対するEasterlyの批判を簡単に紹介しました。
このうち余剰労働力の仮定に関する批判は、実はEasterly独自のものではなく、モデルの開発者であるHarrod自身が既に50年前に認めており、その後もSolowなどの経済学者によって問題点が指摘されてきました。
にもかかわらず、ファイナンシング・ギャップ・モデルが生き残ってきたのは何故でしょう?
ここはちょっと自信がないのですが、仮に労働力余剰が存在しないとすれば、資本的生産要素(設備投資等)の投入量に対して生産量は徐々に少なくなっていかなくてはならないはずです。ということは、経済成長に関していえば、当初は生産量が伸びるものの、ある程度の成長を見せると、それが鈍化するという現象が見られるはずです・・・が、実際の経済発展においては、しばしば、成長は鈍化するのではなく、初期の成長が更なる成長をもたらす現象、つまり、ファイナンシング・ギャップ・モデルと整合的な現象が観察されるというところにあるようです(自分でデータを見たわけではないので自信なし)。
(また、生産量が逓減するとすれば、成長が促進すると投資に対するリターンも少なくなっていくため、投資は自ずから成長段階が低いところに向かうはずです(この現象をConvergenceと呼びます)。しかし、現実には国際間更には一つの国内の地域間でも、このようなConvergenceは容易に起きていないことも、上のような生産量逓減モデルと現実とが対応していないことを示唆しているといわれます。)
この現象を説明するための、一つの理論は「投資」の対象として、物的資本だけでなく人的資本(human capital)の存在を仮定することです。細かいところは勉強中なのですが、物的資本だけなら逓減が見られるとしても、人的資本の開発の余地があれば、合わせてみれば生産量の逓減は見られないということのようです。
もう一つは、技術(technology)の発展を仮定することです。つまり、新しい技術がコンスタントに発明されれば、必ずしも生産量は逓減しません。
厳密にいうとEastelryの立場は、上の2つの何れとも若干異なるようですが、大きな枠組みでいえば、①技術発展が成長の要因であること、②人的資本の蓄積が重要な要因を占めるという点では共通しています。
技術発展と成長
Easterlyは技術発展と成長の関係について、以上のような特徴を指摘します。
Posted by 47th : | 01:43 | コメント (0) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Law & Development
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (3)
[ 2006年01月28日 ]
Easterlyの拠って立つところの「開発」=「一人当たりGDP(GNP)の発展」というアイディアを前回紹介しました。
疑問が残らないわけではないのですが、まずはEasterlyの設定した「開発」概念をベースに、その方法論としての彼の立場を考えてきましょう。
ファイナンシング・ギャップ・モデル
Easterlyは、従来の開発援助において用いられてきた基礎的なモデルであるファイナンシング・ギャップ・モデル(あるいは考案者の名をとってHarrod=Domar Modelとも呼ばれる)を批判します。
ファイナンシング・ギャップ・モデルの直観的意味合いは極めてシンプルです。つまり、国民総生産は(a)現在の「消費」と(b)将来の生産能力増加のための「投資」に分けられる(Y=C+I)が、発展途上国では元々の所得水準が低いために所得の多くが現在の消費に用いられてしまい、十分な投資を行うことができない。こうした目標とする経済成長率にとって必要な水準の投資と実際の投資額(但し、モデルにおいては、貯蓄と投資が一致することを前提に貯蓄率が用いられる)とのギャップ(ファイナンシング・ギャップ)を埋めることが、開発援助の意義であるというものです。
例えば、ある国において生産量を1単位増やすのに必要な資本への投資額が3であることが知られているとします(これをcapital-output ratioといいます)。この場合に、目標とするGDP成長率が8%とすれば、必要な対GDP投資率は24%(8%×3)となります。このとき、この国の対GDP貯蓄率が10%だとすれば、対GDP比で14%の投資が不足している(フィナンシング・ギャップがある)ということになります。
そこで、この対GDP14%に相当する額の援助をすれば、目標成長率が達成できる・・・ファイナンシング・ギャップ・モデルのエッセンスは、このような極めてシンプルなものです。
・・・素人からみても、「えっ、そんなにシンプルなんですか?」とクビを傾げたくなるわけですが、Easterlyは、このファイナンシング・ギャップ・モデルに対して、次のような批判を加えます。
資本投資額と経済成長の相関関係?
まず、Easterlyは、ファイナンシング・ギャップ・モデルの根本的な前提である資本への投資額と経済成長率が一定比率の正の相関関係を有するという仮定を攻撃します。
ファイナンシング・ギャップ・モデルは、設備投資に対して資本が投入されれば、一定比率で生産量が増えると仮定していますが、通常は、生産設備への投資を増やしていった場合、限界生産量(一単位の生産要素を投入したときに増加する生産量)は当初は増加しますが(規模の経済性)、以降は少しずつ低下していくことが知られています(限界生産量逓減則)。ファイナンシング・ギャップ・モデルでは、その限界を克服するために、発展途上国においては余剰労働力が豊富にあり、企業の生産能力の制約条件は生産設備の不足(資本投資)だけであると仮定します。
しかし、発展途上国においては、余剰労働力が豊富にあると仮定するよりは、その生産要素の初期配分のあり方(労働力と設備の割合)に応じた生産技術が既に用いられていると仮定する方が自然です。そうだとすると、生産性の制約条件が資本的要素だけであって余剰労働力は遍在しているという仮定は現実的ではない・・・これがEasterlyの批判の一つめの理由です。
Posted by 47th : | 23:03 | コメント (2) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Law & Development
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (2)
さて、一応、私なりの「開発」理論への興味のバックグランドを話したところで、本題に入っていこうと思います。なお、以下に書いていくことは、あくまで現時点で私が理解している範囲内のことなので、誤りなどあるかも知れないことにご留意下さい。
「開発」の概念
経済理論について考える前に、まず規定しておかなくてはいけないのは、「開発」という概念の枠組みです。
まず、この時点で私がこれまでやってきた世界とは違う世界が広がります。私のなじみの深い世界では、基本的には貨幣価値を基準としたパレート・テスト(各人の満足度(効用)は貨幣的価値ではかれることを前提に他の誰かの満足度を低下させることなく、ある人の満足度を向上させることができるかを考える)という枠組みで考えればよく、貨幣にどうやっても換算できない満足度を考えるのは限界的なケースに限られ(それでも換算する人もいるが(笑))、最終的に実現した分配が「公正かどうか」というところには余り深く踏み込まずにすむわけです。
ただ、Easterlyに関していえば、彼の基本的なスタンスは、比較的私にもなじみ深いものです。
平均としてみれば、全体的な経済発展は富める者と貧しい者のどちらも豊かにする。
この考え方のもとであれば、基本的には「開発」とは一人あたりGNP(GDP)の最大化という目標を達成するための手段ということになります。
「開発」=「経済発展」?
この「開発」=「経済発展」という見方に対して、最も有名で有力な反論はノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センによる「人間的自由」(human freedom)あるいは「ケイパビリティ」(capability)の向上と見る見方でしょう。
センは、その著作"Development As Freedom"の冒頭でこう述べます。
ここで主張しようとすることは、「開発」は、人間が享受できる真実の自由を拡大していくプロセスとして見ることが可能だというものだ。
彼は、GNPの成長や所得の増加は自由の向上に対する一手段に過ぎないとして、「開発」には圧政からの開放や民主主義の定着といった政治的環境の変更や市民的権利の付与も重要だと説きます。
トリックル・ダウン
もう一つのポイントは、たとえ経済的な豊かさのみを考えるとしても、GNP(GDP)の向上が貧困の解決に役立つのかという問題です。開発経済学の世界では「トリックル・ダウン」(trickle down)として知られている問題ですが、Easterlyが基礎としているのは、Dollar and Kraayによる実証研究(Growth is Good for the Poor, 7 J.Econ. Growth 195 (2002))です。恥ずかしながら原文は未見ですが、世銀の行っている生活水準指標調査(LSMS)のデータを用いたクロス・セクション分析の結果、平均所得と貧困層(下位20%)の所得増加はほぼ1対1で対応している、つまり、国家全体の1%の経済成長は貧困層の所得を1%増加するという結果を得たものであり、「トリックル・ダウン」の存在を肯定する研究であるといわれています。
というわけで
こういう状況を踏まえて、Eastelyの用いている「開発」という概念について、現時点での印象をまとめておきます。
- 視点の違い
まず、「開発」を考える上でセンの問いかけが無視できないことは、確かだと思います。
ただ、「援助」というフレームワークの中での限られた資源(援助額)の効率的な分配を考える上では、ひとまず経済発展に重点を置くというアプローチも合理性があるような気はします。
私にとってなじみの深い会社法的な視点から言えば、まずは企業全体としての価値を高めることが、間接的にステークスホルダー間での成果の分配に関する合意の形成を促すという範囲で、企業価値の全体的向上を一義的な目標に据え、そのために効率的な制度設計(例えばresidual claimantである株主にコントロールを与える)を考えるというアプローチに近いというところでしょうか。
その意味では、「開発」の中でも「開発援助」のあり方を考える上では、Easterlyのように経済発展にフォーカスを与えるアプローチも有用というのが、今の時点での私の印象です。 - トリックル・ダウンはどこまで信頼できるか?
むしろ、私にとって気になるのは、こちらの方です。
トリックル・ダウンを信じれば、分配の公正性の問題には立ち入らずにすむわけですが、今の段階では、私自身は、そこまでトリックル・ダウンを信頼する材料を持っていません。
まず、センが指摘しているように、貧富格差の問題は経済の成長段階よりも後退段階において、より深刻な形(飢饉等)であらわれる可能性があることを考える必要があります。経済の成長段階において成長の成果が分配されることは、後退段階においてその不利益の分配が比例的であることを直接には保証しないように思われます。この意味では、センのように政治的権利のあり方に踏み込むかどうかはともかくとして、分配のあり方を無視することはできないように思われます。
もう一つは、アメリカを含めて現に先進国において所得分配の問題が先鋭化しつつある中で、開発段階において、それを度外視することができるのかということに素朴な疑問を覚えるからです。更に素朴なところでいえば、ペルーで見たような国内における所得分配の明らかな差を視界の外におくことに抵抗を覚えます。
ただ、具体的にどういう具体にこの部分を織り込んでいくのかは、正直、まだ見えていないところです(ジニ係数を指標として用いることについても、まだしっくりこないところがあるんで・・・
Posted by 47th : | 14:23 | コメント (7) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Law & Development
「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (1)
Law & Developmentの授業で開発経済学の雄William Easterlyがゲストで来ることになっています。
まだ、始まって3週間なのにElusive Quest for Growthを全て読んだ上で、質問とかを考えておけというのは、結構きついアサインメントですが、開発経済学の分野では非常に高名な人の話を直接聞ける機会もそうはないということで、楽しみにしています。(ちなみにamazon.comで見てみると日本語版も出ているようです)
というわけで、それに備えて、私の理解している範囲でEasterlyの主張の要点と疑問点を書き留めておこうと思います。
ライブドア絡みで伸びているアクセスを一気に冷ましそうなネタですが、海の彼方でいつまでもうじうじ言っていてもしょうがないんで、学生の本業に戻りましょう。
そもそも何故「開発」(Development)なのか?
そもそも、生粋のビジネス・ロイヤーの私が何でまだ「法と開発」なんていう分野を勉強することにしたのか・・・初回の授業に出たときも、一緒の授業の日本人から「何で?」と面と向かってきかれてしまったわけですが、何でなんでしょうね?
まず、単純にいって、今なお約10億人の人々が1日1ドル以下の生活をしているという現実があります。だから、どうしたというところもあるんですが、昨年ペルーを旅したときに、リマの高級レストランにいる人々と、車窓から見えたやせこけた牛の姿とのギャップから受けたショックというか、「もやもや」がどうしても気になっているということだと思います。
次に、日本にとっても、OECDなどの政府ルートや対外直接投資やプロジェクト・ファイナンスによる民間ルートによる発展途上国に対する投資は、ますます重要性を高めていくわけです。おそらく、私がかかわるとすれば、JVや現地企業のM&Aが多いのでしょうが、これまで自分が扱ってきた世界とどう違うのかというのを知っておくのは、今後の仕事の役に立つかも知れません・・・というのは、希望的観測で、そんなペイする仕事につながる見込みは少ないんですけどね^^;
実は、一番の理由は、「開発」に関する理論が、日本における法とか弁護士の役割を教えてくれるんではないかという点だったりします・・・といっても、あんまりピンと来ないかも知れません。
例えば、GDPの成長は、国の発展にとってどういう意味を持つのでしょう?アメリカの一人頭GDPは勿論世界最高水準です。にもかかわらず、アメリカには貧困が決して珍しいことではありません。Katrinaは、そうした貧富の差を残酷な形で浮かび上がらせましたが、世界最高の治療技術を持つ国で基本的な医療の恩恵を受けることすらできない人々が多数存在する・・・ある研究によれば、アメリカの黒人の年齢ごとの生存率はインドの貧困地域よりも低いという調査も出ています(SEN[1999]p.22)。
アメリカの後を追っている日本は、この先どうなるんだろう?アメリカ特有の人種問題に帰することのできる話なのか、それとも経済成長を果たした国がどこかで直面しなければならない共通の問題なんだろうか?
・・・これまた一弁護士ごときが悩むような話ではないのかも知れませんが、それでもやっぱり気になります。
そして、もっと身近な問題としていえば、資本市場の米国化が日本をどう変えていくのか?米国的な資本市場は日本的な価値観を壊すだけであり、本当の意味で日本人を幸せにするものではないのか?
もちろん、私はよくある外資脅威論は苦手なんですが、でも、アメリカと同じにすれば幸せになれるというほど楽観的でもなく・・・文化や歴史の違う国が起源の違う制度とバランスよく融合していくためには、それなりの知恵が必要なんですが、それが最も端的に表れる場面の一つが開発の場面ではないか、と・・・ひょっとしたら、ずっと悩んでいる会社法における分配の公正の問題について何かヒントが得られるんじゃないか・・・そんなことも期待していたりしないわけでもありません。
まあ、いろいろ理屈はこねましたが、とりあえず、ちょっとかじり始めただけですが、非常に「面白い」話が満載です。今までの世界と勝手が違うんで、とまどうところもあるんですが、それもまた楽しということで^^
さて、というわけで、(いつもどおり)長い前置きが終わったところで、次回から本題です。乞うご期待!(・・・って、ライブドア・ネタやれっていう読者の方が多いんでしょうが。悲しいかな、私は天の邪鬼なんで、マスコミと逆に盛り上がると人の期待を外れることをやりたくなるんですよね・・・)
Posted by 47th : | 00:06 | コメント (15) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Law & Development
坊主にくけりゃ袈裟まで・・・
[ 2006年01月26日 ]
今週前半ブログに力を入れすぎたせいで、つけが回ってきています。
コメントやTBへの対応が、遅れると思いますが、どうかご容赦を。
昨日の記事のVaboさんのコメントを拝見して、ちょっと考えが変わったので、筆が滑らない範囲で、実際に企業法務をやっている弁護士の目からみて、面白い記事をクリップしてみようかな、と。リンク切れがあるかも知れないので、ご賞味はお早めに(また新しい記事があれば追加するかもしれません。あと適宜不適切な表現は手直ししてますんで^^;)
(追記)なお、以下の記事についての論評は、「違法」という文脈や検察の捜査の正当性を支えるものとしては「?」があるという趣旨で書いているものです。その点をおいて、紹介されている取引をみれば「怪しさ満点」の会社であったという雰囲気はよく分かります。ただ、「怪しい」と「違法」は全然別の話ということで・・・
- ライブドア子会社、休眠会社買収…株交換受け皿狙う (YOMIURI ONLINE)
有限会社から株式会社への組織変更は手続的なしばりや増資のためにキャッシュが必要な場合には、手頃な休眠会社が見つかれば、それと合併させてしまう方が楽なんですよね。別にそれ自体は、何ら違法でもないし、とびぬけて変なスキームではありません。 - ライブドア、アダルト関連会社に休眠会社売る (Yahoo News-読売新聞)
これも休眠会社ネタ。もちろん、休眠会社を売ること自体が犯罪なら、私もお縄(笑)・・・アダルト関連会社に休眠会社を売ることも適法・・・ここには違法の「い」の字もありません。
ただ、ちょっと気になるのは、報道のとおり、休眠会社に3000-4000万円の値がついたところ。組織再編税制を考えると、繰越欠損を使うのも簡単ではないんで、休眠会社の相場は、まあ上の記事でも出ているぐらいのお値段のあたりで、それからすると随分と奮発しているという感は否めません。
ネタとしては悪くないと思いますが、つっこむならこの対価の決め方の部分でしょうね。繰り返しになりますが、休眠会社を売ることそのものは違法でもないし、相手がアダルト関連会社でも悪くはないと思います。 - ライブドア、無価値企業「健全」と仮装 (YOMIURI ONLINE)
このタイトルの付け方も凄いですね。債務超過会社と株式交換はできないというのは、その通りですが、その場合の対処法として株式交換前に増資をして債務超過を解消しておくというのは、むしろ資産の評価換えや時価評価(のれんを勘案)を使って実質債務超過ではないという形をとるよりも、はるかに「安全」あるいは「保守的」な方法だとされているんですが・・・書き方一つで犯罪みたいに見えるんだから、不思議ですねぇ・・・
(もちろん、その結果達成された株式交換が偽計取引の一環だということの一つの「事情」として、価値のないものを無理矢理買ったといいたいのかも知れませんが、BSやあるいは清算価値で債務超過かどうかとのれん(営業権)を勘案した企業価値がないことは全く別の話で、買収側が売主に対して交渉上「価値はほとんどないんですが」と言うこともあり得ない話ではないわけです・・・本当に実質的に値段がつかなかったのであれば売主がスキームに協力するはずはないので、交渉の中で言われた「価値はない」という(ブラフかもしれない)言動ではなく、最終的に(実質的に)売主にいくら支払われたのかがポイントのはずですよね)
ちょっと気になったのは、利益還流の仕組み(01/23)(asahi.net)。同じ取引の図だと思うんですが、ファンドと個人株主の間でLD株式の売買がなされていますが、このタイミングは何か気になるところです。 - ライブドア粉飾、連結決算外を装う 子会社利益で黒字化 (asahi.net)
「ライブドアが支配する同組合が全株式を保有するロイヤル社とキューズ社は、子会社化の公表前の時点ですでにライブドアの連結決算対象の子会社になっていた。」・・・これこそが、今回、最も争点となり得るところで、もし、こういう形でファンドの連結を考えなくてはいけないとしたら、実務に大きな影響を及ぼすところなんですが・・・その一番の争点が既に決着がついたことになった上で、「粉飾」だったというのは、ちょっと論理的には説得力がありません。
この手の論理は結構多く見られるんですが・・・私は検察ですら、現在のファンドの実務を大きく覆すような大胆な論理はとらないんじゃないかと・・・それ故に中心罪状は証取法158条であって、個々の取引は違法であっても「全体として」というロジックをとりたがっているんではないかという、(希望的)観測を持っているところです - 投資組合に届け出義務、立ち入りも可能に…金融庁検討 (Yahoo News-読売新聞)
あと、面白いので、これもついでに。ここに書いていること自体は、別に面白いことが書いているわけではありません。発想法としてもある意味非常に健全です・・・ただ、実際に起きることは何かというと・・・皆カリブに旅立つだけではないかと・・・それとも鎖国?
(要するに、国内でファンドの規制を厳しくしたとしても、それによる手続コストが増えれば、ケイマンなどのカリブ諸国にファンドやSPCにシフトするだけではないかという意味です。従来、海外にシフトしていたビークルを国内に呼び戻すべくいろいろな法改正や施策がなされてきたのですが、その動きがまた戻るかも知れない、と・・・金融の世界は本当にボーダーレスになりつつあるんで、国内の規制を厳しくするだけでは、自己満足で終わってしまうんですよね・・・ただ、これは別に新聞記事が悪いという話ではなく、金融庁の規制の方向性自体の問題です(最終的に株式分割と同じで市場秩序に委ねるという形になる可能性もあるでしょうし)) - ライブドア、分割当日に関連会社株売却・約34億円の収入 (NIKKEI NET)- 1/26 18:30追加
これが本当ならライブドア「くさいぞ」と思って中身を見ると、要は、①子会社株式が株式分割で株価上昇、②子会社株式を一部売却して利益を得た・・・これが、「子会社の業績がよかったので株価が上昇した際に子会社株式の一部を売却して利益をあげた」という話なら、まさか非難されないんでしょうから、結局は、「株式分割で株価があがった」という部分を問題としていることになっちゃいますよね・・・うーん
ただ、株式分割で株価が上がることそれ自体は、何ら違法じゃないんで、一時的に需給が逼迫する間に、意図的に買い注文を出して株価をつりあげるといった行為(これは明らかな相場操縦ですが)とか子会社にインサイダー情報があって、それを株主としての権利行使に際して知った(か、まあ普通は一次情報受領者でいくんでしょうけど)とかいう事情がない限りは、原因が何であれ、市場で形成された株価で子会社株式を売却して利益を上げることは違法でもなんでもありません・・・この株式分割が違法であるかのような表現もよく見るんですが・・・検察ですら、おそらく問題としているのは、株式分割そのものではなく、一連のスキームのはず(まあ、この辺りはneon98さんのエントリーでも見ていただいた方が宜しいかと)
それよりも個人的な疑問としては、もし報道されていることが事実だとすれば、売る物をどうやって入手したのか(予め保振に預託していた?)という点と、どうやって市場の需給バランスを崩さずに売り抜けたのかが気になるんですが・・・
あと、株価つり上げが主眼 近鉄球団・ニッポン放送買収名乗り (asahi.net)もあげておきます。これも、球団やニッポン放送の買収に名乗りをあげたこと自体は違法でも何でもなく、それによってLDの知名度があがって株価があがったのも違法ではありません・・・ここでは「株価『つり上げ』」自体が悪いものであるかのように思われているんですよね・・・少なくとも、捜索差押えや堀江氏の身柄拘束の根拠となったのは、株価を上げる試みそのものではなく、その手段が法的に許されないもの(違法)であったかどうかだということは忘れないようにしたいところです。 - 高知競馬のホリエモンが出走中止に 堀江氏の逮捕受け (asahi.com)-1/26 19:45追加
だんだん本来の趣旨から離れている気がしないでもないんですが、将来自分で見直したときに、「ああ、そういうこともあったね」と思い出せるように。松木調教師は「馬は健康なので、次走に向けて馬主と相談したい。本当に馬には罪はないのですから」と話している。
同感です。
とりあえず、今日のところは、こんなところで・・・ふむ。何か、こういう具合にブログのネタを提供してくれていると思うと、そんなにカリカリしなくていいかもという気になってくるのが不思議なところです。
Posted by 47th : | 14:38 | コメント (34) | トラックバック (10) | 関連エントリー (0) | 時事
やめとこう
[ 2006年01月25日 ]
さっき、余りにも新聞記事の内容に呆れてしまったので、脊髄反射でエントリーをしてしまいましたが・・・
これをやりだしたら、本当にきりがなくなるんでやめておきます。そういうことで。
ただ、今回の件に限らないわけですが、流される情報の吟味は大切ということで・・・少なくとも、その情報自体として最低限論理が通っているかどうかが一つのメルクマールになるんではないかと思います・・・といった辺りで筆が滑る前に止めておきます。
Posted by 47th : | 14:49 | コメント (12) | トラックバック (2) | 関連エントリー (0) |
クイズ:もしあなたが○○だったら(P大統領編)
さて、ここしばらくの特番モードはひとまず終わりにして、通常営業再開ということで。
春学期にとっているBehavioral Law & Economics(行動経済学を使って法的制度を考察するコース)の内容から、かるーい気持ちで出題したクイズ解説第2弾です。
"24"をもじったシチュエーションで問題をつくったところ、想定外の事態に陥ったのがP大統領編です。
まず、最初に私が期待していた「結果」(ストーリー)をお話しておきましょう。
実はこれがやりたかった
元々、2つの事例でやりたかったのは、フレーミング(framing)の違いによって、同じ内容でも選択が変わってしまうという問題でした。
600人の死亡が予想される伝染病に対する次の2つの対策のセットを見てください。
Positive Form
- プログラムAが採択されれば200人が助かる。
- プログラムBが採択されれば、1/3の確率で600人が助かり、2/3の確率で誰も助からない。
Negative Form
- プログラムAが採択されれば400人が死亡する。
- プログラムBが採択されれば、2/3の確率で全員が死亡し、1/3の確率で誰も死亡しない。
Positive FormとNegative FormのプログラムA、Bは全く同じことを言っているということを確認してください。
また、プログラムAとBはいずれも「助かる人間」の期待値は200人で、違うのはリスク(プログラムBの方がリスクが高い)という点も確認しておきましょう。(「助かる人間の数」以外を効用の指標に使うアイディアについては後で触れます)
プログラムAとBの何れを選ぶかは、最終的にリスクに対する意思決定者の態度に依存するというのが通常の説明でしょう。つまり、安全志向(リスク回避的)の人はAを選び、ギャンブラー(リスク愛好的)な人はBを選ぶというものです。
ところが、実際に、2つのグループに対して、この選択を実施すると、Positive Formの場合はプログラムAを選ぶ割合が高く、Negative Formの場合はプログラムBを選ぶ割合が高いことが報告されています。(実験手法の詳細は原文が手に入らなかったので分からないのですが、20年以上のpeer reviewにさらされている論文ですから、とりあえず実験手法や統計手法に問題はないと仮定しておきます)
両者の違いは、Positive Formが「助かる数」を問題としているのに対して、Negative Formが「死亡する数」を問題としているということを除けば全く同じです(この問題の立て方を「フレーミング」といいます)。
こうしたフレーミングの違いにより結果が異なるということは、例えば、陪審員に対する諮問の仕方によって、結果が異なる可能性があるということを意味するとされる・・・ということを、やりたかったわけですが、皆さんから頂いた回答を拝見すると、質問1と3における回答の選択は一貫していて、そうした差がうまく出ませんでした。
・・・というわけで、以下、敗軍の将として、その原因を分析してみましょう。
Posted by 47th : | 00:23 | コメント (9) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Law & Economics
「正義」のコスト:コメント・TBありがとうございました
[ 2006年01月24日 ]
(末尾に追記あり)
昨日のエントリーに対して、予想以上に多くの方々からコメントとトラックバックを頂き、本当にありがとうございました。
このまま私自身は何かを付け加えない方が美しいかなとも思いつつ、皆さんからのコメントやエントリーを拝見していて、思い浮かんだことを書きとどめておきたい欲望には逆らえません。蛇足の類になりますが、ご海容を。
なんで今更?
たぶん、昨日書いたことというのは、分かっている人々にとっては、自明のことで「何を今更」というぐらいのことなんでしょうね。でも、私にとっては、漸くそのことが分かったのが昨日だったんですよ。
ちょっと時間を遡ってみると、最初、検察がライブドアに強制捜査に入ったという時点での、私の心持ちは、どちらかといえば検察よりでした。別にライブドアだからだったからということではなく、法律やルールはあっても、実際には執行されることは稀という現状を変えていく・・・それこそ昨年の時間外取引について、早々と違法ではないという立場をとった当局に物足りなさを感じていた身としては、証券市場における法の支配を実現するという「強い意志」は歓迎すべきものでした。
多分、この時点では、私は、くさっても(失礼!)時価総額8000億の企業、検察にやられっぱなしでは終わらないだろう・・・一般的にみれば「屁理屈」と言われるかもしれないけど、何らかの合理的な説明や正当化を持ち出してくるんだろう・・・「最終的に」検察にとりこぼしはないだろうけど、検察の当初の意図したところに持っていけるかは、ライブドアの弁護側の腕次第だろう・・・たぶん、どこか楽観的にそう思っていたってことですね。
ところが、1週間が過ぎる間に、ライブドアの心臓である堀江氏の身柄拘束、そして監理ポスト入り・・・ことここに至って、ようやく、私はこれが「人ごとじゃない」ということに気付き、国家権力の大きさに気づいたんだと思います。
憲法や刑事訴訟法を勉強し、修習で実務に携わっていたときにも、「国家権力の謙抑性」というコンセプトは頭にあったわけですが、おそらく、どこかに「一個人の力は弱いから」という暗黙の前提があって、それはビジネス・ロイヤーである自分とは少し遠い世界・・・むしろ、ビジネス・ロイヤーである自分にしてみれば、企業が問題に直面したときに国家権力との関係をうまく保ちながらソフトランディングさせるのが腕の見せどころ・・・
けれど、そんな「かけひき」とか「腕」が入り込む余地は特捜とライブドアとの関係にあったのか?
ライブドアの弁護士の腕の悪さが、今回のような事態を引き起こしたのか?
・・・自分なら違うと信じたいところですが、できることといえば全面降伏の上でちょっとした温情にすがるぐらいしかないんじゃないかと思ったときに、「自分ごと」として、国家権力の大きさが身に染みたってところです。
というわけで、遅ればせながら、「国家権力は大きい。縄をつけなきゃいかん」というありきたりなことを、大見得切って言ってみたりしたわけです。
Posted by 47th : | 16:34 | コメント (29) | トラックバック (12) | 関連エントリー (1) | 時事
「正義」のコスト
[ 2006年01月23日 ]
日本では堀江氏とライブドア幹部の逮捕について、どういう受け止められ方をしているのか、今ひとつよく分からないのですが、私個人的には、実に暗澹たる、というか、やりきれない気持ちで今回のニュースを聞いています。
特に暗澹たる気持ちになったのが、このasahi.comの記事です。
東京地検の伊藤鉄男次席検事は、「証券取引の公正を害する重大な法律違反があることが証拠上明らかになった。ライブドアグループの存立の中心のところで違反をしている。全容解明に全力を尽くす」と話している。
「証券取引の公正を害する重大な法律違反」とは、そして「ライブドアグループの存立の中心のところで(の)違反」とは、結局、何だったのでしょう?
適正手続きを定めた日本国憲法31条の下では、「構成要件は何か?」あるいは「実行行為は何か?」という、犯罪認定でいえば、いろはの「い」にあたる問いすら明らかにならないままに、国家権力が個人の自由を奪うことができるということなのか?・・・そして、その個人の活動の自由を制約のみならず、数十万人の株主のいる会社の経済活動を実質的に麻痺させてしまうことが可能ということなのか?・・・もし、そうだとしたら、我々ビジネスの世界に生きる人間にできることは、ひたすら「検察の目にとまらないよう、お怒りを買わないよう」に、いつもお上の目を気にしながら歩くことぐらいしかできないのではないだろうか?・・・
私は、職業柄、この種の事案では、いつも「もし自分が代理していたら」ということを考えます。
この件でも、任意捜査の段階、強制捜査の段階、それぞれにおいてどういう形で依頼者を守ることができるだろうということを考えながら見ていました。特に、断片的ながら、アメリカで捜査機関からの捜査が入った場合の手続についてもかかわる機会があったので、それとの比較を考えていたのですが、今回のような日本の捜査のやり方の下では、ほとんど「防御」の余地はないことに気付き・・・そして、暗澹たる気持ちになっていきました。
まず、何よりも、「何に対して防御をすべきか?」ということすら分からないのに、どうやって防御をすればいいのでしょう?
証取法158条という罪状こそあれ、具体的に何をどういう形で違法としているのかは分からないまま、毎日のように、新しい「疑惑」が報道されていく・・・いったい、何を調査して、何に対して防御すればいいのか、幹部の身柄拘束に至った今でも、検察が問題としている具体的な構成要件、実行行為の内容は明らかにならない・・・時間がたてば経つほど評判へのダメージは拡大していく・・・けれども、検察が当初ほのめかした内容について見解を発表しても、すぐにうわさや報道は「それだけではない」といい、そのうわさや報道にも対応しなくてはいけない・・・これで効果的な内部調査をしろといわれても・・・
そして、内部で事実関係を確認しようにも、今回のようにいきなり強制捜索がなされ、一切合切の書類が差し押さえられてしまえば、何も対応のしようがありません。アメリカであれば、弁護士の最初の仕事は、こうした書類の提出に関する範囲や手続について捜査機関との合意です。日常業務への影響や被疑者側の防御の権利を図りつつ、捜査の便宜や証拠隠滅を防ぐための手順について、捜査機関と弁護士が合意をし、その合意に従って、捜査機関側への書類の提出手続が内部調査と並行して粛々と進められていきます。
・・・けれども、嵐のように一切合切の書類の原本が持ち去られてしまうとすれば、内部調査はもちろん日常業務すら全うすることはできません。もし押さえられた書類のうち、容疑とは関係ないけど、日常業務には欠かせない文書があったとしたらどうでしょう?・・・それによって生じた機会喪失は「疑われるようなことをしてしまった会社が甘受すべきコスト」なのでしょうか?
そして、おそらく何よりも違うのは、アメリカでは、嫌疑をかけられた側が、「防御」のために弁護士をはじめとした専門家と対策を練ることは「最低限の権利」であり、こうした「防御」活動を妨げてはならないのはむろんのこと、こうした「防御」のためのディスカッションの内容や関連する書面は捜査機関側に提出する必要はありません(秘匿特権"privilege")。もちろん、弁護士と相談したり、関係者間で対策の会議を行うことは、「防御」のための当然の権利です。
・・・もし、こうした対策会議を行うこと自体が「証拠隠滅活動」であるとみなされたり、弁護士との間で相談した文書や内容も捜索差押えの対象となるとしたら、いったい、どうやって嫌疑をかけられた側は「防御」をすればいいのでしょう?
(ただ、内部調査や会社としての防御の責任者は、現経営陣ではなく、少なくとも監査役、更に望ましいのは、外部からの招聘だったとは思いますが・・・)
そもそも、ある会社の中心人物の身柄を押さえるということは、極めて大きなコストを会社にもたらします。もちろん、逃亡のおそれや罪証隠滅のおそれがあれば、それでも、「やむを得ず」身柄を押さえることは必要になるでしょう?
でも、今回の場合、堀江氏が逃亡を図るというおそれは考えがたいところです。「証拠隠滅」?・・・いったい、あれだけの捜索差押えの後に隠滅すべき証拠とは何で、それにはどんな可能性があるのでしょう?・・・また、どうやって、これを「証明」できるのでしょう?
・・・もちろん、そうした「建前」であっても、実際には、およそ「疑わしければ逮捕が可能」というのが運用です。あって、今回の場合に逮捕について準抗告をしても認められる可能性はほとんどないでしょう。
ただ、これが可能ということは、一度嫌疑がかけられれば、嫌疑に関連のある経営陣を刷新しなければ、会社は日常業務すら安心して営むことはできないということです。もちろん、内部調査の進展によっては、一刻も早く新体制を構築することも必要ですが、いずれにせよ上のような事情で内部調査もままならないまま「1週間」で逮捕がなされるという状況では、会社側で対応できることは、ほとんどありません。
そして、「強制捜査が入ったこと」、そして、「逮捕されたこと」自体が、「悪事の動かぬ証拠」であるとばかりに、マスコミや世論が「検察=正義」という構図を広めてしまい、「防御」は「悪あがき」と同視されれば・・・
以上、簡単にまとめれば、一度嫌疑がかけられれば(しかも、嫌疑の内容が具体的にわからなくても!)、もはや会社としては「防御」の余地はないんじゃないかと。
・・・「ライブドアだから仕方ない?」・・・また、空が落ちてくる類の話かどうかになるかも知れませんが、上場会社の経済活動に携わる方々にとっては、少し想像力を働かして、同じ立場に陥る可能性が全くないと言い切れるかどうか・・・そして、もし、ある取引の一つの断片を「誤解」されて捜査が入ったときに、どうやってその「誤解」を解けばいいかを考えてみてはいかがでしょう?
会計士の方と当初意見が対立していたが、最終的にディスカッションを重ねて合意に達した・・・そうした取引について、当初の会計士の方の印象と同じ印象を検察が持ったらどうか?・・・長年監査を担当している会計士の方とですら、長いディスカッションを経なければ理解してもらえなかったことを、検察が隠密の内偵の中で理解に達してくれる可能性がどのぐらいあるのか?・・・そして、もし当初の「印象」に従って、捜査が入ったら・・・全ての関連資料を押収され、関係者の身柄が押さえられた後で、どうやって捜査機関の「誤解」を解くことができるのか?・・・
私にとっては、ライブドアが「最終的に」どれだけのことをやっていたかではなく、「この1週間の間に」ライブドアに起きたことが、とても恐ろしいことのように思えてなりません。
(最後に、しつこいようですが、私はライブドアがやったことがいいことだったと言うつもりはありません。そもそも、それを判断する材料すら手許にはありません。私が暗澹たる気持ちになるのは、判断する材料すらないままに、国家権力が行使され、一つの会社が死刑宣告を受けたのと同じ状況にあることそのものです。その点ご理解いただければ幸いです)
(あと、普段の私の方針とは異なり言及していないブロガーの方の関連エントリーにもTBを打たせていただいます。文化圏の違い等により、ご迷惑な場合は、ご遠慮なく削除下さい。)
(また、賛同・反対を問わず、ライブドアに対する捜査・報道姿勢に関するコメント・TBをお待ちしております。)
関連過去記事一覧
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- なんで「風説の流布」なんだろう?
- ライブドア事件にみる経済事犯リテラシー
- ライブドア本体(単体)粉飾疑惑の気になるところ
- なるほど・・・これが「粉飾」ということですか
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- 株価をつり上げて売り抜けるのはインサイダー取引か?
- 徒然なるままに、ライブドア事件
Posted by 47th : | 14:25 | コメント (54) | トラックバック (69) | 関連エントリー (1) | Corporate Governance : Compliance
DNA鑑定についてのベイズの定理のインプリケーション
[ 2006年01月22日 ]
(1/23追記あり)
ベイズの定理を使うことで、もう一つ興味深い洞察を得ることができるのが、多分、DNA鑑定をはじめとした科学的な証拠の訴訟における意味合いではないかという気がします。
次のような例を考えてみましょう。
ある絶海の孤島で、殺人事件が起きました。
島の人口は1000人。手がかりは、被害者の衣服についていた犯人のものと思われる血痕だけ。
なぜか、その島に滞在していた名探偵の子孫は、大胆な推理で、ある男Xが犯人だと名指ししました。
Xは、必死に否定しますが、名探偵の子孫は、自身満々に、「DNA検査をしてみれば、一致するはずです」と言い放ちました。
そして、DNA鑑定の結果は・・・見事に一致しました。
名探偵の子孫は、自信満々に言い放ちます。
「DNA鑑定の精度は99.9%・・・つまり、1000回に1回しか間違わない。もう、言い逃れはできませんよ」
・・・と、これを先回のベイズの定理を使って検証してみましょう。
まず、真犯人は、1000人の中に一人必ずいるとします。
ということは、Xが真犯人であって、かつ、DNA検査で一致する確率は、0.001×0.999=0.0999(%)です。
次に、Xが真犯人ではないのに、DNA検査が一致してしまう確率は、0.999×0.001=0.0999(%)です。
ということは、DNA検査が一致した場合に、Xが真犯人である確率は・・・計算するまでもありませんね、50%に過ぎません。
これでは、とても刑事事件でいう「合理的な疑いを入れないほどの証明」ということにはならないことは明らかです。
でも、「99.9%の精度のDNA鑑定で鑑定結果が一致した」というと、これはほぼ間違いないだろうというのが普通の感覚ではないでしょうか?これは何故でしょう?
この結果は、「事前確率」において犯人でない確率が極めて高い(99.9%の確率で犯人ではない)ことから生じています。DNA鑑定を有効なものにするためには、この「事前確率」を他の証拠を使って絞り込むことが大切になります。
たとえば、上の例で、村人のうち900人にはアリバイがあったとしましょう。
すると、Xが真犯人である確率は、0.01*0.999/0.01*0.999+0.99*0.001=0.91ということで、確率は一気に90%にあがるわけです。
ところで、上の計算では、真犯人ではないのにDNAが一致する確率を0.1%(100%-99.9%)とおきましたが、実際には、これは必ずしも正しくはありません。例えば、真犯人と一致する確率は99.9%である一方で、関係ない他人と一致する確率は極めて低く、0.01%しかないということも考えられます。
逆に、真犯人に対して99.9%の確率で反応する一方で、真犯人ではない場合にも1%の確率で反応してしまうような場合も、可能性としては考えられます。
私は実際の検査方法について余り知らないので、何ともいえないのですが、直観的には、金属探知機と同じように、確実に真犯人の場合には一致するような検査方法をとろうとすると、感度が敏感になって真犯人でない場合にも反応する確率も高くなるということはありそうです(Type I errorを減らそうとすると、Type II errorがそれだけあがる)・・・つまり、真犯人なら99.9%の確率で反応するが、そうでない場合にも1%の確率で反応してしまうというようなことは、理論的に考えると、十分ありそうな話です。
この場合、ベイズ統計理論による確率は、0.001*0.999/0.001*0.999+0.999*0.01=0.09ということになり、なんと10%にも満たないことになります。このことは、つまり、DNA鑑定の精度を考える上では、単に真犯人の場合に反応が出るという意味での信頼性のデータだけでは不十分であって、真犯人ではない場合にも反応が出る確率がどの程度あるかという意味での信頼性のデータが不可欠ということを意味しています。
私は、DNA鑑定の刑事実務を知らないのですが、この後者の意味での信頼性のデータというのは、どの程度明らかにされているのか、また、前者の意味での信頼性ときちんと区別がなされているのか・・・この辺りはちょっと気になるところです。
(1/23追記)
かつおどりさんのコメントを受けて、一応上の記事の範囲で考えていたことはコメント欄で、もう少し詳しく書いたんですが…確かに、実際のDNA鑑定のプロセスの中で、①被疑者が真犯人で反応が出る確率と②被疑者が真犯人ではないのにもかかわらず反応が出る確率というのは具体的にどうやって導かれるのかということについて、ちょっと気になりだしたので、とりあえず思いついたことを書いてみると…
Posted by 47th : | 17:13 | コメント (4) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Law & Economics
クイズ:あなたが○○だったら(陪審員編)
皆様、軽い思いつきのクイズにお付き合い頂き、まずは厚く御礼申し上げます。
解説編といっても、既に皆さんが色々と書いてくださったように、いろいろな考え方があるんで、答えは一様ではないんですが、ここでご紹介するのは、一つの考え方のモデルということでご了承頂ければと思います。
まずは、P大統領編はひとまずおいて、先に陪審員編をやってみましょう。
設例をながながと書きましたがエッセンスは次の4点です。
- シェアだけを考えれば、問題のタクシーがイエローである確率は85%、グリーンであることは15%
- 証人はタクシーの色は「緑」=グリーンキャブだったと証言
- 証人が正しく色を識別できた確率は80%。つまり、実際のタクシーの色を正確に識別する確率は20%
- これらを総合して、最終的に50%を超える確率で問題のタクシーが緑だった場合のみ、請求を認める。
さて、この設問のポイントは、黄色いタクシーを間違って「緑」と言ってしまう確率がどのぐらいあるかというところです。
直観的・・・というか、ナチュラルな感覚としては、黄色の車だったのに緑と言ってしまう確率は20%しかないのだから、50%基準なら無視できる・・・ということになりそうなのですが、実は、そこには、「そこを通った車が黄色か緑かは二者択一であって、同じ確率」という考え方が滑り込んでいるんですよね。
昔、じゃんけんの期待値について考えたときにもあったのですが、選択肢の数と出現頻度というのは、一致するとは限りません。つまり、じゃんけんでとり得る値がグー:チョキ:パーの3種類だとしても、その出現頻度は、個人の性向によって違うかも知れないということです。
今回の話でも、タクシーの色は黄色か緑かは2者択一ですが、その現場における出現頻度は85:15になっています。
ということは、次の図のような関係が成りたっているということですね。(以下の図はBehavioral Economics の授業で用いられたスライドから転用したものです)
Posted by 47th : | 10:48 | コメント (4) | トラックバック (1) | 関連エントリー (0) | Law & Economics
徒然なるままに、ライブドア事件
[ 2006年01月21日 ]
今朝のNYは明るい陽射しの中、何だか既に春が来てしまったかのような錯覚も覚えるような穏やかさですが、日本はいかがでしょう?
呑気に”24" Season5のことを書いて惰眠をむさぼっている間に、ライブドア強制捜査、株価は下落、東証はシステム・キャパで取引制限、関係者から亡くなった方も出て、当のライブドアは開示注意銘柄へ・・・
私も、授業の予習そっちのけで脊髄反射的なエントリーを連発したわけですが、まあ、こういう記事は、だいたい、①書いている時はアドレナリンが出ているので、うわぁっと書けてしまう、ところが②時間をおくと「書きすぎたなぁ」と悔悟の念がじわじわとおそってくる、でも、③新しい情報や見方に触れると、また何か言いたくなって①に戻る・・・と、学習能力に欠けた行動パターンを繰り返すんですよね。
そういえば、1年前のまさにニッポン放送とライブドアの時もそうだったようなぁ、と、思って、あのとき書いたことを見直したりすると、そのぐらいの時間をおいてブログを見ると、何だか他人が書いたような錯覚を覚えてきて、人ごとのように「へぇ、そんなこと考えてたんだ。ふぅーん」と思ったり・・・気分的には小学校や中学校の時に自分の作文とかを読むようなもんで、これはこれで個人的には面白いものです。
そういう意味で、やはり恥ずかしい内容でも、とりあえずそのときの印象を書いておくというのは、いいのかなという気がします・・・と、前置きが長くなってしまいましたが、とりあえず今の時点で心に浮かんでいることを、簡単に。
証取法158条と捜査手続
依然として情報量は十分ではないんですが、とりあえず今の時点で受けている印象からいうと、検察は、個々の情報開示や怪しげな決算手法の違法性ではなく、それら全体としてファンダメンタルズから乖離した相場を作出した行為を問題視しているような気もし始めてきました。
158条(風説の流布・偽計取引)は、「別件」じゃないのということを一瞬考えたのですが、どうも最近はそうでないような気がしています。にもかかわらず、手続的な点でひっかかるのは、実は別件捜索・差押えの問題ではなく、158条が対象とする犯罪事実の特定性の問題な


















