それでは、また会う日まで

引越が終わったら一段落つくかと思ったら、そんなことはなく、結局、慌ただしいまま部屋の明け渡しも綱渡りで、ブログ論壇考の最後を書く暇もありませんでした。

何だか、尻切れトンボで格好のつかない終わり方ですが、まあ、それもまたブログならではの臨場感ということでお許し下さい。

以前告知しましたように、コメント、TBの受付も停止します。
管理人がいなくても開放しておきたい気持ちはあるのですが、何せスパムが凄まじいので、こちらもお許し下さい。

何だか引越と同じで、今のところは何だかこれといって感慨もないんですが、2年間、私にしては珍しく割合マメにやってきたので、ブログのない寂しさというのはボディブローのように後で効いてくるのかも知れません。

何だか慌ただしくて情緒もへったくれもありませんが、これまでのご愛読本当にありがとうございました。

それでは、またどこかでお目にかかれることを祈って。

ブログ論壇考(5)

前回は書き手のコストという面を見ていったわけですが、では、そのコストの逆側にある書き手のベネフィットって何なんでしょう?

内的ベネフィット

まず、純粋に考えを文章化することや、その時の思いつきを書き留めておくことのベネフィットがありそうです。
これは日記の延長のようなもので、想定読者は自分自身ということになり、必ずしも公開する必要はありません。

コミュニケーション・ベネフィット

ただ、多くの場合、ブログは公開されて不特定多数の人の目に触れることが予定されていたり、人のブログにTBをしたりするわけで、必ずしも内的なものに限られません。

こうした多くの人の目に触れることの一つの意味は、その意見に対してコメントやTBなどの反応を得て、さらにそうしたツールを使って議論が成立することによって、自分自身の考えをより深めるというところにあるように思われます。

注目ベネフィット

もっとも、そうしたコミュニケーションを成立させるためには、必ずしも読者数を増やす必要はなく、むしろ、同程度あるいは自分よりも多くの知識や情報を持っている人や、ロジックを踏まえた議論能力を持っている常連の読者を対象にした方が密度の濃いコミュニケーションが成立する可能性があるような気がします(もっとも、最初にそうした読者をどうやって獲得するかというところの苦労はあり得るわけですが)。

ただ、そうでなくても、「多くの人から注目されている」ということ自体がモチベーションになっている面はあります。多分、心理学的にはもっとちゃんと説明がつくんではないかと思うんですが、カウンターを設置したり、そのカウンターのアクセス数が気になったり、あるいは、ブックマークの数が気になったりということは、ごく普通のことだろうと思います。

もっとも、ちょっと気をつけなくてはいけないのは、この「注目」の部分の比重が高まってしまうと、読者受けのいい記事や注目を集めることが目的化したエントリーを書きたくなってしまうこともあるような気がします。

リアルでのベネフィット 

また、こうした注目は、それによる心理的な満足だけに留まらず、更にリアルの世界でのベネフィットにつながることもあり得ます。
例えば、顧客獲得や、人脈の拡大、出版といった部分でしょうか?
もっとも、この部分が強くなってしまうと、自分の考えを伝えるというよりも、読者をどう獲得するかとか、その読者にどういう影響を与えるかという部分に対する考慮が強くなりすぎる可能性もあります。

コストとの兼ね合い 

これは印象論なんですが、政治家やマーケッティングが目的のブログを除けば、最初は誰しも読者が少ない状態から始めるわけですから、コストは、自分自身の考えをまとめたり、発展させたりといった部分のベネフィットで釣り合っているんじゃないかと思います。
それが、段々と読者を獲得してくると、注目やリアルでのベネフィットを重視するようになってくるのかも知れません。
ただ、そうなってくると、いろいろと鼻につくところも出てきてしまうような気がします。
ブログを長続きさせるコツというのは、結局、このベネフィットとコストの釣り合いをうまくとるところにあって、リアルの世界での環境が変わってしまうと、コスト構造が変わってしまうため、今までのベネフィットの範囲では釣り合いがとれなくなったり、注目やリアルでのベネフィットにシフトしてしまう危険があるというところで、ブログの休止ということになるのかも知れません。

競争とベネフィットの逓減

ところで、お察しの通り、注目やリアルでのベネフィットを求める形でブログを続けることについて、私は明らかにネガティブなところがあります。一つは、カウンターにせよブックマークにせよ、注目の指標としては極めて不正確なものという気がしていて、それが目的化してしまうと非常に危険な気がするところですが、その点は、ちょっと時間がないので軽く触れるに留めて、ここでは、一つそうした注目やリアルでのベネフィットは、ブログの書き手間での競争が進めば、自ずから減少してしまうという点を指摘しておきたいと思います。

非常に簡単な話ですが、まだブログの絶対数が少ない時代には、ちょっとコストをかけてエントリーを継続したり、話題のトピックをフォローしていれば、それだけである程度の注目を集めていくことが可能だったような気がします。
ただ、ブログの書き手が増えてくると、段々そういうことも難しくなってきます。
読み手にとっても、ブログを読む、とりわけ、ある程度論理的な構造の文章を把握して読むということには、それなりの時間や前提知識、ロジック分析能力が必要なわけですから、単純に書き手が増えたから読むブログを増やすというわけではありません。
巡回するブログを減らしたり、あるいは、エントリーを読むのに費やす時間を減らしたりと、対応は様々だと思いますが、ブログの書き手が増えれば、それだけ読み手の注目を集めるのは簡単ではなくなります。

特に、丁寧にロジックをおって考えるタイプのエントリーというのは、読者の方でもそのロジックを丁寧におって、最後にそれが自分にとって役に立つかどうかということを判断しなければいけません。そうすると、読んだ結果、常にタメになるものであればいいのですが、そうでない場合には、その時間は無駄になってしまいます。そうすると、同じ時間を使って、3つ4つ他のブログを見て、その中で「当たり」を見つける方がいいという方向に流れるかも知れません。
そうした意味では、こうして競争が激しくなってくると、丁寧に考えたエントリーで注目を集めるというのはそれだけ難しくなります。しかも、往々にして、丁寧に色々考えた先の結論というのは、それほど爽快感のあるものではありません。上限金利規制なんかでも、色々考えた先の結論というのは、少なくとも金利規制で多重債務者が救われると考える根拠は薄弱というところまでで、現にいる多重債務者対策としては、開示の充実や取立規制の厳格化、社会的なセーフティネットの拡充、景気回復とか、それ自体としては地味なものしかないわけで、結論は、"silver bulletはない”という、全く面白くも何ともなく、政治的にみると全くアピーリングではない結論にしかならないわけです(「○○問題の根は深く、これ一つでという解決策は到底ありません」と延々と街頭演説で話す候補者が票を集めるとは思えませんよね・・・)。

しばしばメディアの大衆への迎合姿勢が批判されることがありますが、少し考えてみると、そうした行動様式が日本における読者獲得競争において有利だから採用されているだけかも知れません。
そうだとすると、ブログの世界における読者獲得競争なら違う結果になると言えるんでしょうか?
扇情的な見出しや、ウケはいいが真実とは異なる構図を設定した上での批判、特定の情報源の情報の信憑性をそれが希少だから(多くの人は知らない(と言われている)から)というだけで受け容れてしまう状況・・・多くの読者を集めるというテクニックという観点からみれば、こうした既存のメディアの方法論というのは、ブログの世界でも有効であるような気がします。

こういうことを考えると、自分の考えや、それを他の人と交換して考えを深めていくという以上に、注目やリアルでのベネフィットをブログに求めて、こうした読者獲得競争に参加していくことには、それほど魅力を感じることができないし、むしろ、そうした読者獲得競争に参加することによって、深く考えることよりも、一見の分かりやすさや扇情に走ってしまうこともあり得るとすれば、私の価値観からはマイナスのような気もします。

また、結局、ブログというのは本来的には参入障壁も低いわけで、放っておけば、そういう意味での超過ベネフィットというのはなくなっていきます。
その超過ベネフィットを維持しようとすれば、差別化や、あるいは、新規参入のハードルを実質的に高めてしまうといった、非常に戦略的な行動が求められることになるわけで・・・そうしたところに入り込んでいくと、誰でも参加できて、自分の考えを伝えることができる、という意味での、ブログのよさというのは薄れていくようにも思えます。

というわけで、色々と書きましたが、ブログにかけるコストを、注目やリアル社会でのベネフィットで回収しようというビジネス(?)モデルというのは、何となく持続可能性に乏しいような気もします。

あるいは、読者拡大を目論まない狭いコミュニティ内部での意見交換ツールと、既存メディアのプチ版としてブックマークやアクセス数を競うブログに二極化していくのかも知れません。

そうだとすると、ブログによって、従来ギルドの中に囲われてきた専門的な知識や情報が、より多くの人によってアクセスできるようになるというのは幻想で、結局、リアルの社会でも従来存在していたアカデミックな言論界と大衆メディアの棲み分けが、ネットに移行してくるだけになるのかも知れません。

今でも図書館にいけば、一般人でも各種学界の専門誌は読めるわけですが、実際にはそれを読み解くためには相当の前提が必要になるわけで、物理的なアクセスが容易であるということと、知的なアクセスが実現することには大きな溝があります。
ブログは、その溝を埋めるかも知れないという期待を持っていたのですが、実は、そうでもないのかも知れない・・・

と、ちょっと悲観的なことも思うわけですが、次回は、そうした状況の中で役割が高まることが期待される通訳能力について考えてみたいと思います。

引越終了と「ハーバードMBA留学記」紹介

何かとばたばたしましたが、何とか引越しも終わりました。

全部で段ボール約40箱。これが多いのか少ないのかよく分かりませんが、うち9箱が本とか仕事関係のファイルでした。これでも段ボール数箱分、捨てたり売ったりしたんですが、減らないもんですね。
実は日本で倉庫に預けている本やファイルも結構あるんで、これが事務所の部屋に入るのか実に不安です。

というわけで、手許に残ったの本は僅か数冊。
帰国のときに読もうと思っているんですが、そのうちの一冊は、岩瀬さんから頂いたハーバードMBA留学記です。実は、まだ1/3ぐらいしか読めていないんですが、このままだとネットがつながるうちにレビューを書けるか不安なので、ちょっと勇み足ですが、ご紹介です。

この本は、岩瀬さんが、ハーバードのMBAに留学していた時に書かれていたハーバード留学記というブログを再編集してまとめたものということで、個々の内容は既にブログで公表されたもので、その意味で当時ブログを読んでいた人には目新しさはない・・・はずなのですが、これが意外なことに、改めてテーマ毎にエントリーがまとめられて紙ベースになると、当時から岩瀬さんが一貫して発信していたメッセージや、その成長の軌跡というのが、よりはっきりした形で伝わってきます。

この辺りは1回当たりの記事の長さに自ずから限界のあるブログに対する紙ベースの出版物の利点かも知れません。

逆に惜しむらくは、当時の彼の記事に付されたコメントやTBを通じたやりとりを追うことができないところや、ハーバード留学記を彩ったボストンの日常を切り取った写真の数々がない点で、この辺りのダイナミズムが失われてしまうのは、紙ベースの弱点かも知れません。

いずれにせよ、ブログ時代の読者も、この本ではじめて岩瀬節に触れることとなる方も、十分に楽しめる本ではないかという気がします。
そういえば、立ち読み代わりに、ブログのエントリーをいくつくか読んで雰囲気を掴めるというのもブログが元になっている本のメリットかも知れませんね。

なお、岩瀬さんは、日本に帰国後ハーバード留学記 その後というブログを始められています。
そちらでも触れられているように、現在は新たに立ち上がったネット生保会社の副社長に就任されて、ばりばりとやっているようです。

そういえば、参加自由の出版記念パーティーもあるようですので、興味を持たれた方はそちらに行って、実物の岩瀬さんを見て、あわよくばサインでももらっておくと、後でプレミアムがつくかも知れませんよ。
それにしても、参加自由型という、この辺りの垣根の低さもブログのいいところかも知れませんね。

ブログ論壇考(4):書き手のコスト~コストの中身(後編)

引越し準備やら何やらで本文の更新が遅くなりましたが、前回の「探す」「調べる」「考える」の他に書き手に必要となるコストの中身について考えてみたいと思います。

「伝える」コスト:デリバリー・コスト 

実際の流れからいうと「書く」作業の方が先なんですが、説明の便宜上、「伝える」コストから考えてみます。

シリーズの最初でも書いたように、元々、ブログが発達する前は、自分の考えを人に伝えるのは決して簡単ではありませんでした。
紙媒体などの既存のチャネルにアクセスする には、それ相応の集客力が求められていましたし、HPなどのネット媒体も開設や運営にはある程度の知識も必要ですし、多くの人に読まれるためには、何だか んだリアルでの集客力が求められる面があったような気がします。

ブログは、そうした意味での「伝える」コストを大幅に下げました。
先行する人気ブログへのTBや、ぶくマの発達、ブログ同士での他のブログ記事の紹介といった相互作用を用いることで、潜在的に多くの読者層にアクセスすることが可能となったわけです。

この面でのコスト削減が、ブログで自分の考えを発信する人が増加した直接的な要因ではないかという気がします。

「書く」コスト:アウトプット・コスト

もっとも、潜在的な受け手の範囲が広がったことと、実際に多くの人に伝わるかは別の問題です。

例えば、私が自分のポイズン・ピル論文の抜粋をそのままブログに載せることは可能ですが、それを読んで理解するためには、ある程度の前提知識が必要で、それがない人にとっては「難しくてよく分からない」で終わってしまうかも知れません。

これに対して、必ずしも前提知識を持っていない人にもメッセージを伝えようと思えば、前提知識の部分から丁寧に解きほぐしたり、図や比喩を使って直観的に理解できるようにしたり、といった工夫が必要になります。

そういう意味では、このブログの初期に多かった、私の企業法務関係のエントリーについては、「考える」ところまでは手持ちの貯金でやっていた部分も多く、コストをかけていたのは、この「書く」部分だったような気がします。
例えば、M&Aとか敵対的買収という話を、余りその分野の知識がない人にも伝えるためにはどうすればいいのか?とか、どこから書き始めればいいのか?、とか、そういう辺りです。

ただ、こういう意味でのコストのかけ方というのは、意外と長続きさせるのが難しい面があるような気がします。
私の場合は、初期に一通り敵対的買収とかM&Aの話を書きましたが、結局、それを続けようとすると、後から後から起きてくるM&A絡みの事件に対して、同じ視点を切り口を代えて語るという「繰り返しモード」というか「マンネリ化」に入っていきかけました。

そこで、ちょっと萎えてしまったというか、モチベーションの低下を感じたときに考えた方向性の一つが、同業者向けにもうちょっとマニアックな議論を誘発する話をすることでした。
これであれば、自分の考えの整理にもなるし、同業界の人たちの考えも聞けるかも知れないわけです・・・ただ、これはこれで、そういう話であれば何もブログでなくても紙媒体でやればいいかなという気がしてくるわけです。

結局、実際に進んだ方向というのは、「マンネリ化」によるモチベーション低下を避けるため、切り口を変えていくことで、具体的には企業法務ネタについてもローエコ的な切り口やファイナンス的な切り口で見てみたり、あるいは、そもそも企業法務ネタを離れて一般的な時事や「開発」ネタに入っていくということでした。

こういうものについては、「書く」ことと「考える」ことが、かなりイコールになってきていたような気がします。
前回の話に戻りますが、こういう自分にとっても新しい切り口のネタというのは、「考える」≒「書く」部分で、それなりにコストがかかるわけで、忙しくなってきたときにそれを上手く確保できるかどうかに不安が出てくるわけです。

つまり、私の場合、手持ちネタに勝負するものについては、それをかみ砕くことだけコストを注ぎ続けられる自信がない(というよりも、過去に既に暇な中でもモチベーションが低下しているので、況やをや、と)。
新ネタについては、仕事と直接関係ないところで「考える」≒「書く」コストにどのぐらい時間を割けるかよく分からない、という部分がありそうです。

もっとも、「考える」≒「書く」だとしても、もうちょっと「書く」部分の労力をセーブして、余り口説くかかずに、基本的には自分向けに書いて、あとは分かる人には分かってもらうという道もありそうです。
ただ、そこで問題になってくるのが、一応「実名」とリンクできる形でやっているところで生じる「副作用」の部分のような気がします。

「副作用」コスト

ブログで自分の考えを外に発信することには、非常にポジティブな要素もありますが、やはり一定の副作用はあります。

誰にでも共通するのは、「自分の考えを否定されることの痛み」です。
自分の考えをブログに書いたところ、それに否定的なコメントやTBがつけられてしまうと萎えてしまうというのは、何となく分かりやすい経験ではないでしょうか?
私の場合は、職業柄、時にはお互いに相手の書いてきた書面や理屈を徹底的にたたき合うことも求められるんで、蛙の面に水みたいなところはあるんですが、それでも「どう返事したらいいのか分からない、でも敵意はメチャクチャ感じる」というコメントやTBがガンガンついたら、「そこまでしてブログやるつもりもないよね」と思ってしまう可能性はあります。

もっとも、リアルの存在とのリンクが切れていれば、その痛みは純粋に内的なものですが、リアルの存在とのリンクがあると、そこへの副作用も出てきます。

私の場合は、弁護士という職業柄、守秘義務や利益相反関係、同僚との人間関係といった辺りが、すぐに出てきますが、会社勤めの人なら会社や上司に知られてしまうリスクというのも考えなくてはいけないはずです。

このブログについていえば、企業法務ネタについても扱ってこれたのは、留学中ということで、リアル存在への副作用のリスクが比較的小さかったという点はあげられるだろうと思います。
ただ、日本で実際に仕事に復帰すると、企業法務関係については、いつどんな形で当事者になるかも分からないので、やはり色々な面から書くのは難しくなります。

あるいは、そこまで直接的にリアルに影響がなくても、やはりリアルの部分に敵意を持たれてしまうと、どこで刺されるか分からない怖さはあります。あるいは、敵意までいかなくても、評判の低下というのもあり得ます。
例えば、少し前のコメント欄で、昔の司法試験合格直後のインタビュー記事が教員・学生間で失笑を買っていたというご指摘もあったんですが、司法試験受験界関係者しか読まないであろう予備校誌に1回だけ載ったインタビューでそれなのですから、平均すると毎日1000人以上の人に2年間にわたって曝しているブログでは、「失笑の輪」が広がっている可能性も相当にあるわけです。

そういうことからすると、リアルの存在とのリンクがあると、いくら思いつきで書いたこととはいっても、余計な誤解は避けたいという気持ちは働くんで、そうすると、なるべく丁寧に誤解されないようにということで、文章は長くなり、「書く」コストは高まっていきます。

そう言う意味で「匿名」に戻るというのは魅力なんですが、やはりこれだけ続けていると、文章とか考え方のクセというのは、読者の人にも知られてしまっていると思うんで、余程意識的にテーマ選びも変えて、文体も変えないと、やはりばれる危険があります。
そういうところに気をつかってまでブログをやるのも疲れそうですし、変なところで変な憶測を呼んでもいけないんで、「匿名」でのブログ復帰はまずないと思っていただいて結構かと思います。

・・・と、何だかまとまりがなくなってきていますが、少なくとも私に関していえば、ブログを続けるために、やはりそれなりにコストをかけてきていた気がします。

仕事に復帰していくことによって、「機会費用」としてのコストが更に高まることが予想される中で、今の形で続けていくことは難しい・・・まあ、これがやはりブログ中断の理由になるわけですが、でも、たとえコストが高まったとしても、それによって得られる利益(ベネフィット)が大きければ、いいはずです。

コストの裏には、常にベネフィットが何かを見ることが必要になるわけで、今度は書き手にとってのベネフィットについて、少し見ていきたいと思います。

ブログ論壇考(3):書き手のコスト~コストの中身(前編)

ブログを書く際の「コスト」の中心が「時間」であり、そのコストは「機会費用」(その時間を使ったら他に何ができるか?)の大きさに左右されるという観点からみたとき、ブログを書くという一連の作業の中にある過程の意味は異なっているようにも見えます。

自分の経験を下にブログを書くという作業のコスト構造をみると、次のような感じで分類できるような気がしています。

「探す」コスト:ファインディング・コスト

端的にいえば、「ネタ探し」の時間です。
新聞(全国紙)のHPやポータル・サイトのヘッドラインをチェックするだけであれば、そんなに時間はかかりませんし、そもそも世の中から取り残されないためには、何れにせよ必要になるコストですから、それ自体は「どうせやらなきゃいけないこと」です。
これに、他の人のブログが入ってくると、少し大変になってきます。もっとも、これも「どうせ必要な情報収集という側面もありますし、RSSリーダーやぶくまを使えば、大部効率的になります。

「調べる」コスト:リサーチ・コスト

次に、書きたいなと思うネタが見つかったときに、前提となる知識や関連する情報を調べるための時間が必要になってきます。
私の場合、このリサーチ・コストは、記事によって大部変わってきます。
中には手持ちの知識だけで何とかなるものもありますし、中には自分が感じたもやもやをもう少し形にするために、文献や教科書に当たらないといけないものもあります。
あるいは、その論点について他の人がブログで何か考えを発信していないかを参考にするために、普段の巡回先に入っていないブログに行ってみたりということもあります。
もっとも、リサーチの部分に力を入れる時というのは、結局、紙媒体の出版物につなげる予定があったり、ロースクールの授業の理解とつなげていたり、あるいは、何れきちんと調べておこうと思っていたことであったり、ということも多いので、イメージほどには追加的なコストがかかるわけではありません。
そもそも、ブログのよさの一つは、このリサーチ・コストを節約して「思いつき」や「印象」レベルでも書けるというところにあるので、リサーチ・コストは、それほど大きな負担ではありません。
私のように一応紙媒体へのアクセスがある場合はなおさらそうですが、そうでない人にとっても、専門論文に必要なレベルの前提知識の習得は不要という点で、リサーチ・コストの負担がネックでブログが書けなくなるというのは、それほど多くはないような気がします。
この「リサーチ・コストの負担が少ない」というのは、ブログのメリットの一つですが、ブログでの意見交換の今後を考えたときには、逆にボトルネックの一つともなり得る気がしますが、それは、また後にして、先に進みましょう。

「考える」コスト:シンキング・コスト

リサーチが終わった後で、そのリサーチ内容をブログにそのまま書く場合は別として、いろいろと調べて知識や情報を得た後で「考えをまとめる」という作業が必要になることがあります。
この内容も二つのパターンがあって、一つはリサーチ・コストと重なる部分もありますが、膨大な情報を自分の中で理解して整理するために必要なコストで、専 門的な論文だと、この部分の労力というのが、かなりの割合を占めることがありますし、ブログでも一つのテーマについていろいろな意見が示されているときに は、それを整理するためのコストというのは、それなりに必要になってきます。
もう一つは、もっと純粋に自分で「考える」時間です。
これは分かりやすいといえば分かりやすいのですが、人間は「自分で考えている」ようにみえて、単にどこかで見た人の考えをそのまま繰り返しているだけと か、水伝絡みでちょっと考察してみたように、「考えている」ように見えて、実は単に自分にとって「都合のいい」あるいは「耳障りのいい」結論に理由をこじ つけているだけということもあります。
そうしたものを排除して、純粋に自分の「考え」をまとめていくことというのは、本当はそれなりに時間がかかるものです。
私の場合、企業法務ネタなんかは仕事や原稿書きの中で一回このプロセスを経ていることが多いので、そういうものは苦労しないのですが、そうしたプロセスを 経ていないものの場合は、道を歩いているときとか、食事をしているときとか使って、そういう頭の中に浮かんだことを自分なりに
整理する時間というのが必要になってきます。

この「考える」時間の確保というのは、結構重要な気がします。
日本で仕事をしているときは、経済学や開発といったことについて考えたいと思っても、なかなか考える時間すらとれないというのが実際でした。食事をしたり 風呂に入っているときでも、今とりかかっている案件の方が大きい比重を占めていることの方が多いわけで、ブログのための「考える」時間のコストというのは 忙しくなると、かなり大きくなります。

かといって「考える」時間を使わないエントリーを書くことが、読者や、何より私自身にとってどれだけの意味があるのか、というと・・・この辺りは、 また改めて検討するつもりですが、何だかんだこのブログを続けられたのは、この「考える」という点(と、次の「書く」という点)にある程度のコストを割い てきたからじゃないかなと思うので、ここにエネルギーを注がない(注げない)「ふぉりあと」の存在意義には?がついてしまいます。

というわけで、ちょっと長くなってきたので、今日はこんなところで。
次回は「書く」コスト、「伝える」コスト、「副作用」コストについて考えたいと思います。

(続く)

ブログ論壇考(2):書き手のコスト~「時間」

ものごとを考えるときにはいろいろなアプローチの仕方がありますが、私の場合は、やはりインセンティブとか、人間が直面しているジレンマを分析するところからアプローチすることで、問題が見えてくることが多いような気がしています。

そこで、まずは、ブログを使って自分の考えを発信しようとするときに、人は何を費やしているのか、そのコストを考えてみましょう。

コストというと、すぐに思い浮かぶのは金銭的なものですが、ブログの場合は金銭的なコストはほとんどかかりません。
代わりに、ブログを使って自分の考えを発信しようとするときには、一定の「時間」がかかります。
これも当たり前のようですが、もう少しだけ「時間」がコストということの意味を考えてみましょう。

「時間」でコストを測ろうとすると、つい時間の「長さ」で考えてしまいそうになりますが、同じ「時間の長さ」でも、その人にとっての価値というのは異なります。

例えば、レポート提出を明日に控えた1時間と、夏休みのまっただ中、友達との約束もない中の1時間が違う価値を持つことはすぐに分かるのではないでしょうか?
これは、その1時間の価値が「他の使い道」で測られているからと考えることができます。
「この1時間があれば、レポートが1頁進む」という1時間と、「他にすることもないしなぁ。暇だなぁ」という1時間では、その時間を使ってできることが違っているから、価値も変わってくる・・・こうした考え方に基づいたコストの考え方を経済学では「機会費用」といいます。

忙しくなったから、ブログをやるのが難しくなる・・・これは、ブログを書くのに必要な絶対的な時間の長さは同じであっても、その時間を使って他にやるべきことができたので、「機会費用」という意味でのコストが大きくなった・・・

・・・と、こんな当たり前のことを説明するためだけに、いちいち「コスト」ということを考える必要はありません。

コストという観点から、「時間」を見たときに、もう一つ重要な性質を考えておきましょう。

書き手が使う時間が例えば、友達にコーヒーを買いにいくのを頼まれたとき、ちょうど自分もコーヒーを買いにいきたいと思っていれば、そんなに億劫ではありません。
「どうせやろうと思っていたこと」であれば、それほど負担にはなりません。

つまり、ブログで用いる時間が、「どうせブログを書かなくてもやろうと思っていたこと」に使う時間であれば、忙しくなったからといって、すぐにブログを書くのが負担になるわけではありません。

例えば、「ニュースを聞いてその意味を考える」という作業は、ブログを書くかどうかに直接かかわらず、日常の中でやっていることです。ましてや、そのニュースが仕事に関連するものであれば、仕事の上でも「考える」ことは仕事の一部として必要になります。

他方で、物理的にブログを「書く」という作業は、ブログをやらない限りは仕事上必要にならないので、コストという観点からは「考える」作業よりも追加的なコストが必要になります。

こうしてみると、ブログを書くという作業の中にある異なる要素には、コストという面から見たときに違う意味がありそうです。

というわけで、次回はブログを書くという作業に必要なコストを、もう少し細かくみてみたいと思います。

ブログ論壇考(1):ブログの力

ブログ論壇考とぶちあげてみたものの、いざ書き始めようと思うと、どこから手をつけていいか迷うんですが、まずは最近のエントリーにfujiさんからもらったコメントを引用してみましょう。

まさにその後者のパターンそれ自体に注目してほしいのです。全世界の人が瞬時に作り上げるその行為自体を。47thさんのブログで私が質問すれば瞬時に答 えが返ってくること。47thさんが問題提起されたことに各方面から瞬時にいろんな意見がコメントされること。リアルな世界なら、まず、47thさんにア ポをいれ何日もまって運よく面談できて相談料を払ったり又は47thさん執筆の本を本屋さんに出かけて購入したりして47thさんのお考えなりがようやく 理解できるかもしれない。それがブログではトラックバックやコメントで47thさんだけじゃなくもっと多くの方のご意見を拝見できる。それもたった1日程 度で。私の様な素人はそれは革命的なことの様に思う・・・

私に会うのに数日前からアポや運が必要という点は否定しておきますが(笑)、fujiさんが仰っているように、面識のない人とコミュニケーションをとったり、ましてや、単なる言葉の交換を超えて、お互いの「考え」や「意見」を交換するというのは、現実社会では容易ではありません。

もう少し巻き戻して考えてみると、このブログを始める前に「私」という人間のことを知ってくれいている人というのは、どれほどいたんでしょう?
あるいは、名前や存在は知っていたとしても、「私」がどんなことを考える人間かを知ってくれている人はどれだけいたんでしょう?
知り合い同士でも、相手が何を考えているかを知ったり、あるテーマについて真剣に意見を交換し合うのは、日本人の気質もあるのでしょうが、実はそれほど容易ではありません。

口説くなりますが、もう一つだけ具体例で考えてみましょう。
fujiさんがコメントの中で触れられているように、個人の存在と考えを多くの人に伝える媒体としては、従来から出版物やメディアというのもありました。
私も留学前にいくつか紙媒体の原稿を書いていましたし、それなりに業界の人には目を通してもらっていました。
ただ、業界以外の人の目に触れる機会がどれほどあったのかは微妙です。
目に触れたとしても、立ち読みや借り読みは別として、それには一定の代金を支払う必要があります。
そうやって「お代」を頂戴しなければいけないわけですから、書き手の側も何を書いてもいいというわけではありません。当然、代金に見合うだけの知識や情報が期待されていますし、その期待に応えるためには、書き手の側でも、下調べに始まってそれに見合う労力を投じなければいけません。
何よりも、書き手がお金をとる形で書けるテーマには自ずから外枠があります。
そして、幸いにも、こうしたいくつものハードルを超えて出版ができたとしても、読み手は、基本的には、それを読むことしかできません。
何か、もやもやしたものや、触発されたことがあっても、そのフィードバックの手段は限られています。
読者カードに感想を書いて送り返すことはできるかも知れません。でも、そのフィードバックが本当に届いたかが確認できたり、ましてや、そのフィードバックに対する書き手からの反応を得ることは稀です。

ブログは、こうした従来あった数々の枷を外し、より多くの人に自分の考えを伝える手段を提供してくれました。
この恩恵を受けているのは、何も自分でブログを開いている人には留まりません。
fujiさんのように、私のブログにコメントを残してくれる人も、そうした足跡の積み重ねの中で、「fujiさん」がどんな考えを持っている人なのか、読者は知るようになりますし、時には、ブログのエントリーを書いた私にではなく、fujiさんに向けて別の人がコメントをし、そこで考えのやりとりが行われることもあります。

ちゃんとした統計をとったわけではないんですが、多分、このブログで瞬間風速的に最も多くの人に読まれたエントリーといえば、堀江氏の逮捕報道の直後に書いた「正義のコスト」だと思うのですが、これには54件のコメントと69件のトラックバックをもらいました。
もちろん、世の中には、こんなものの比ではないぐらい多くのコメント・トラックバックを集めるブログもあるわけですが、炎上の気配も希薄でトラフィック集めのトラックバックもほとんどない形でこれだけの人と考えを交換できたというのは、私自身にも大きな驚きでした。

―ブログは多くの可能性を秘めている―

fujiさんと同じようにそう確信する自分がいる傍で、天の邪鬼な私が冷ややかな視線を投げかけています。

―じゃあ、そんな素晴らしいブログを、帰国するというだけで、何でやめるの?
暇だからやるけど、忙しくなったらやめる。しょせん、そのぐらいのものなんじゃないの?―

いや、守秘義務の問題や営業政策の問題もあるし、そう簡単にも割り切れるもんでもないんだよ―もちろん、それに対する反論はあるのですが、それでも、自分がやめる理由、あるいは、素晴らしい考えを発信しながら様々な理由でブログをやめていった人たちがいる理由にもう少し踏み込んでおかないと、自分がいつかブログを再開するのか、再開するとして、どういう形で何をやりたいのかは見出せない気がします。

というわけで、ある意味語り尽くされている感もあるバラ色のブログの未来については、これだけにして、次回からはその裏側に隠れている衰退への種子を考えてみたいと思います。

(続く)

お別れ&ブログ論壇考連載開始予告

前からちらりちらりとほのめかしてきたとおり、私のお気楽な留学生活も残すところあと2週間ほどとなってしまいました。

「ふぉーりん・あとにー」の「ふぉーりん」は、"foreign"じゃなくて、"falling"だから、帰国しても堕落は続くから「ふぉーりん・あとにー」でいいのだ(バカボンパパ風)、という考え方もあるんですが(※)、まあ、仕事に復帰するのに堕落し続けていることを余りにもおおっぴらに言うのも何なんで、やはり、帰国を機に「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」は区切りをつけようかと思います。

最後のお別れはまた直前にいたしますが、しばらくは帰国関係のドタバタでネット環境が悪くなりますし、コメント・TBをもらっても対応できなかったり、スパムの対処もできないので、最後のお別れ後はコメント・TBを受け付けない設定にする予定です。
余りいないと思いますが、過去記事へのコメント、TB等をお考えの方もいるかも知れないので、一応、コメント・TBはお早めに、ということで注意喚起もかねて予告させていただきます。

で、もう一つは、せっかく2年にわたってブログを続けてきたんで、自分なりにブログをやってきて感じたことなどをまとめてみようかなというお話です。

 「ブログ考」ということかも知れないんですが、日記代わりに書くブログとかそういうものよりは、時事問題なんかについてブログを通じて議論をしたことについて感じたことをメインにしようかと思うので、「ブログ論壇考」ということにしようかと思います。

といっても、私は未だにWeb進化論もWorld is Flatも読んでいない怠け者なんで、ここで書くことなんかは、そうした先行業績で言い尽くされてしまっているおそれも大なんですが、まあ、逆にそういう先入観なしで自分の経験だけを頼りのインプレッションも珍獣的価値はあるかも知れないということでお許し下さい。

ぼんやりしたアイディアは頭にあるんですが、いつもの通り、うまくまとまるかは不明ですので、帰国までに終わるかどうか分かりませんが(笑)、宜しくお願いします。

 

 

あと、蛇足ですが、ネットでの個別情報開示が間違ってました、ということがない限りは、どうやら5月から7月の地獄の3か月間の苦労は繰り返さずに済みそうです^^

最近、妙に武闘派モードだったのも、これが気になっていたからかも知れません。
これで、落ち着いて引越準備ができそうです。

というわけで、帰国前に飲みに誘おうと考えている方は、どうぞ遠慮なく?誘ってください。

では。

 

(※)そもそも、1年目の米国事務所研修が終わった段階で、Foreign Attorneyという肩書きはなくなっているんで、"foreign"の意味なら、とっくに終わっていなきゃいけないわけですし。

パイを誰と分けるのか?

(追記あり & 11/19 修正あり) 

私は経済学の学位も持っていなければ、ましてや、開発関係の勉強は始めたばかりです。

でも、その程度の理解の範囲であっても、色々なことが見えるものです。

おそらく、私よりもより深く知り、より的確に問題を指摘できる方がネット界にはいらっしゃると思うのですが、それでもやはり私なりの言葉で、この考え方に問いを発しておきましょう。

また、経済成長一般が悪だと言った訳でもありません。発展途上国においてはまだ経済成長は必要です。まずパイそのものを大きくしなければ、配り切らないのですから。

しかしパイそのものが充分大きくなった世界においては、パイを大きくするよりも、どうパイを切り分けたかを考える方が重要なのではないですか、ということなのです。(404 Blog Not Found: 経済成長は手段か目的か?

あなたは、そのパイを誰と分けるつもりなのですか?

確かに、経済成長の計測は国を単位に行われることが多いかも知れません。
しかし、そのことは、それぞれの国の経済成長や、その経済成長の分配が、その国に属する人々の間で完結することは意味しません。

例えば、国内の消費市場が未発達の途上国にとって、発展の第一段階は、先進国消費市場へのアクセス(輸出)です。
先進国の消費者の購買力があがれば、途上国もその恩恵にあずかることができるし、逆に、先進国の経済成長が停滞すれば、それは途上国にも波及してしまいます。

ひょっとしたら、「今の日本は途上国に対する責務を果たしながら、それでもパイの拡大を優先する必要がないぐらいにはパイが大きくなっている」という反論があるかも知れません。
そもそも、パイの大きさが十分かどうかという議論をおいたとしても、そんな大きなパイが極東の島国にあるなら、そこはまさに「黄金の国ジパング」です。

途上国の人々は皆ジパングを目指して旅立つでしょう。比喩ではなく、現に多くの人々がそこにあるパイの分け前にあずかるべく日本を目指しています。
もちろん、現行法の下では、多くの場合、それは「不法入国」です。
見つかれば強制送還されますし、見つからなくても、社会的なソーシャルネットの庇護の外で、万が一病気にかかっても医者にかかれるかも分かりません。
それだけのリスクを犯しても、日本を目指すのは、そこに「大きなパイ」があるからです。

アメリカもヨーロッパの先進国(※)も、色々な歴史的経緯もありますし、政治的妥協もありますが、大なり小なり、移民の受け容れという形で、途上国とパイを分け合ってきています。
もちろん、移民問題は、それ自体センシティブな問題であり、「だから日本も移民を受け容れるべきだ」と一足飛びに結論を出すわけではありません。ただ、移民の受け容れをしないのであれば、それに代わるパイの分け方を考える必要があります。
何れにせよ、大きくなったパイを持つものは、それを誰と分け合うか考えなければいけません。

「もう十分大きくなったから、このパイは自分たちだけで分けます。君たちも、ぼくたちをみならって、パイを大きくするんだよ」

日本という国自体、過去の急激な経済成長を遂げた重要な要因として、欧米先進国の消費市場へのアクセスが可能だったことがあげられます(※2)。貿易摩擦という言葉を生み出すほどに、米国の消費市場、言い方をかえれば米国民が増やしたパイへのアクセスによって自らのパイを増やしてきた国が、それを増やした途端にそう言うことができるのでしょうか―

「経済成長」という言葉の使い方一つで向きになる人たちのことを不思議に思う方がいらっしゃるかも知れません。
でも、途上国の貧困と自分たちを結ぶ線の存在への無関心こそが、今なお世界中に蔓延する貧困の前に立ちはだかっている壁だと考え、その無関心をどうにかしたいと願う人間にとっては、やはり見過ごすことはできないのだと思います。

私自身、まだその世界の入口を覗いたに過ぎない身ですが、どれだけの人に届くかは分かりませんが、やはり声はあげておかなくてはいけないと思うわけです。

ましてや、その世界を自分のライフワークの一つと定めた人であれば、なおさらだろうと思います(※3)。

最後に、以前のエントリーも書きましたが、私には弾さんのレトリックを読み解くリテラシーが不足しているので、弾さんの「真意」とは違う趣旨でとらえてしまったのかも知れません。あるいは、弾さんのことであれば、私が以上で書いたようなこともお分かりの上で、そんなことではなく、「その先」のことを言いたかったのかも知れません。

もし、そうであれば、弾さんのエントリーを拝見して、上のような意味にとってしまった者があり、同じように「誤解」してしまう人が他にいるかも知れないということで、そうした人に向けて書いたものだとお考え頂ければ幸いです。

また、この分野については、(いつものことながら、)私はマニアですらない、ただの門前の小僧です。私の理解している範囲で背伸びをしないように書きましたが、それでも基礎的なところで思わぬ間違いをしていれば、ご指摘頂ければ幸いです。

 

(追記) 

コメントで教えて頂いたosacaeconさんの経済成長というエントリーを拝見して、いくつか補足しておいた方がいいと思う点があったので、追記です。

最初に「先進国のパイが大きくなれば、途上国のパイも大きくなる」という仮定は、osakaeconさんが仰るように理論と実証の問題ですが、おそらく従来の開発経済学での経験からいうとかなり疑わしい仮定だろうと思います。
例えば、SachsのThe End of the Povertyでは、イギリス宗主国時代のインドが宗主国の経済成長政策の実現のためにインドの経済成長が抑圧された可能性を指摘しています。
保護貿易的政策の影響や取引費用の問題で先進国のパイ拡大の恩恵が途上国に行き渡るスピードが遅い場合も考えられるでしょうし、先にパイを大きくした国が、その大きさをテコに使って小さな国からパイを奪い取る可能性も考えられます。
(この辺りは、かつて途上国の中の問題として、パイの大きさに関心を向けておけば、配分には神経質にならないでいいという、トリックル・ダウン仮説について、私自身疑問を抱いて、エントリーを書き、コメント欄でも色々と議論させて頂いたことがあります。)
そういう意味では、「我々のパイを大きくすることは途上国のためにもなる」という議論は、「我々のパイ拡大にさえ関心を向けておけば、途上国への分配については心配する必要はない」という逆の形での無関心につながる危険性を持ってしまいます。
これは、このエントリーにおける私の本意とは全く正反対の方向性ですので、そういう誤解を与えてしまった可能性についてはお詫びすると共に、ここで訂正させて頂きます。

(以下は、ややテクニカルな話になるので、興味のない方は読み飛ばして頂いても結構だと思います) 

その上で、osakaeconさんに質問させてもらったのは、では、「先進国のパイが拡大しない状況は途上国のパイ拡大の阻害要因となる」という仮定(いわば「負のトリックル・ダウン」)については、どう考えればいいのだろうということです。
現実としてのトリックル・ダウンが成立しているかどうかについては上記のような疑問が残るとしても、先進国側での輸入障壁の撤廃や取引費用の低下が進めば、トリックル・ダウンはより促進される(従って、先進国が途上国支援として考えなくてはいけないのは保護主義的政策の撤廃である)という前提を、私は暗黙のうちに受け容れていました。
ただ、osakaeconさんのエントリーを拝見して、「先進国の経済成長→途上国の経済成長」という因果の流れが疑わしいのであれば、「先進国の経済停滞→途上国の経済停滞」という流れも、それほど自明ではないのかも知れない・・・あるいは、正のトリックル・ダウンが成立しにくいのに、負のトリックル・ダウンは成立しやすい、というのであれば、その非対称性の要因についてはもう少し自覚的であるべきと気づかされました。

漠然とは、センが飢饉の発生メカニズムについて説明したのと同様に、正の影響は社会の既存権力層がそれを保持しようとするのでトリックル・ダウンを阻害する力が働き、逆に、負の影響(例えば、飢饉における食糧不足問題)は逆に社会の既存権力層はその負の影響を弱者層に押し付けようとするのでトリックル・ダウンが促進する力が働くという説明が可能なのかなとは思うのですが、きちんと詰めて考えたものではなく思いつきレベルの話です。

この点については、osakaeconさんが、わざわざこちらのブログの方にコメントを下さり、私の問題意識にお付き合いして頂けると仰ってくれています(本当にありがとうございます)ので、また、それを勉強させて頂きたいと思います。

というわけで、私がエントリー本文で書いたことの前提には、(まあ素人の火傷というか)やはりまだ眉に唾をつけるべきところが残っている(おそらく他にも)という部分を割り引きつつ、そういう考え方もあるかも知れないということでお読みいただければ幸いです。

   

(※)ヨーロッパの場合には、旧共産圏からの受け容れも含めてですが。 

(※2)もちろん、それのみに要因を帰すことはできません。この辺りは、私自身、まだ色々と勉強中のところです。これまでの雑考については、大野健一「市場移行戦略」大野健一『途上国ニッポンの歩み』の書評をご覧下さい。

(11/18  修正)

以下の部分については、ちょっとした皮肉のつもりで書いたのですが、通りすがりさんに相当な不快感を与えてしまったようです。本筋とは関係ない部分ですし、この部分で議論をするつもりはありませんので、以下は撤回します。

(※3)ちなみに、その無関心に対して、もっとも長く激しく戦ってきた人の一人こそ、弾さんが同一エントリーで文脈こそ違えWikiからその説を引用したアマルティア・センです。アマルティア・センが引用されたのと同じエントリーで、「パイは十分大きくした。あとはどう分けるか」だと言われているのを知ったら、センはどんな気分になるんでしょう?
 

レッドソックスの「ルール違反」?

西部の松坂選手の大リーグ移籍話が盛り上がっているのは、もちろん知っていましたが、私的には、①阪神ファンとして井川の去就の方が気になる、②去年だったらNYで見ることができたが、来年は自分がNYにいないのでアウト、ということで、余り熱心には追ってなかったんですが、西部がポスティング応諾の決断を延ばしている背景に「ルール違反の可能性」があるというニュースを見かけたので、ちょっとぐぐってみたところ、中日スポーツで次のような記事を見つけました。

レッドソックスが松坂に“不正入札”をした疑惑が浮上した。ポスティングシステム(入札制度)でメジャー移籍を目指す西武・松坂大輔投手(26)は、13 日に西武球団が取締役会で最高入札額を受諾する見込み。その後に大リーグ機構から落札した球団名が伝えられて入団交渉がスタートするが、ここにきてレッド ソックスが、ヤンキースへの入団を妨害することだけを目的に破格な金額を応札した疑惑が浮上。その場合は、2番目に入札額が高い球団に独占交渉権が移る可 能性も出てきた。

オークションの設計はゲーム理論絡みで面白い話がたくさんあるんですが、この辺りは、それこそ最先端の経済学でホットな分野なんで、うかつに手を出して火傷してもいけないので(というか、そもそも書き出すと長くなりそうなんで疲れそう) 、ここは法律家らしい話として、次の部分に着目(下線は引用者付加)。

米4大ネットワークのFOX傘下にあるFOXスポーツ(電子版)は11日、「レッドソックスのオーナーは多くの資金を持っているが、チームの最終目的はヤ ンキースを妨害することだ」と報道。そして「ソックスが松坂との契約に誠実な努力をしなければ、コミッショナー事務局は(松坂と入団交渉する)権利を2番 目の入札額の球団にするだろう」と伝えた。

要は、「本気で交渉する気がなく他球団を妨害するために入札しただけなら、交渉権を失うよ」と言っているわけです。

この話は、実はM&Aのビッドでもある話で、企業買収で複数の買い手が一つの企業(事業)をめぐって競合しているときに、買い手は、まず「優先交渉権」の獲得を目指して、最初の条件提示を行います。
この「優先交渉権」を与える段階での手順とか条件の付け方も色々と面白い話がテンコ盛りなんですが、その際に気をつけなくてはいけないポイントとして「本気で買うつもりはないのに、いい条件(高い価格)を提示してくる買い手にどう対処するのか」という問題があります。

もちろん、「本気で買うつもり」があるのかどうかは、「優先交渉権」を与える段階では分かりません。

そこで、出てくる対処法の一つが、優先交渉権を与える契約の中で「誠実交渉義務」を課して、もし「誠実」に交渉しなかった場合には、交渉を打ち切る権利を他方当事者に与える方法ですが、実際には、この「誠実さ」の認定というのは非常に困難だというのは、すぐに分かるのではないでしょうか?

なので、実際のM&Aの現場では、こんな巷の契約書雛形にも出ていそうな「誠実交渉義務」に頼り切ることなどせずに、そこに至までのプロセスや優先交渉権の付与契約で、色々とケース・バイ・ケースの対応をやったりします。
多分、この辺りは、経済学的に分析するとシグナリングの使い方をはじめ、色々と面白いことが出てくると思いますし、弁護士の側としても経済学の分析枠組みを知った上で、自分のやっていることを見つめ直すと新たな発見や工夫の余地が見つかる分野だと思いますし、気が向いたら、またこのポスティング制度でも例にとって考えてみたいと思いますが、今日のところは、ここでいう「誠実さ」のとらえ方の違いという当たり障りのない話でお茶を濁しておきましょう。

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異種格闘技戦の文法

水伝絡みのエントリーが続きましたが、この話が何とも言えず私を引きつけるのは、いろんな意味でブログ上で展開される意見交換とか、もっというと論争で起きていることに示唆的だからです。

今さらながらですが、書き手の素人/玄人分布もさることながら、受け手の素人/玄人分布もものすごいばらけているわけで、そういう意味で、例えば法律専門誌に論文や記事を書いたり、最初から興味のある人しか手にとらないであろう本を書いたりということとは違う・・・と、この辺りまでは、そういうコミュニティでの議論に慣れ親しんだ人でもすぐに分かるんで、前提知識のない人にも分かりやすいように書こう、とか、前提となる理解部分で重箱の隅をつつくようなことをやめよう、ということは心がけるんだと思うんですよね。

でも、慣れるのが難しいのが、誰が議論の決着をつけてくれるのかというところなのかな、と。

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誰が屏風の虎を追い出すか?

通常営業に戻るといいながら、また水伝絡みになってしまいますが、finalvalentさんの日記経由で知った『「水からの伝言」を信じないでください』と言うのならやるべき事は一つだろう?(音極道茶室)が興味深かったので、みんな知っている(よね?)一休さんの屏風の虎退治のお話と絡めて、ちょっと軽めで。

先日紹介した田崎教授の「『水からの伝言』を信じないでください」のQAに、次のような一節があったのを覚えているでしょうか?

もし、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか?」と思われている方がいらっしゃれば、それは、まったくの考え違いです。 ・・・もし、これが科学者どうしであれば、話は単純です。 これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になるときには、新説をだしている科学者の側に、説得力のある証拠をだす責任があります。

これに対して音極道茶室さんは、次のように仰っています。

で、いざ「キッチリ叩く」となった時に、「新規なことを主張する側が立証責任を負う。」などと「科学者の論理」を持ち出すのはナンセンスこの上ない。相手はそもそも科学者ではないのだし、それよりも「科学者側から反証実験はしない」と言われて一番喜ぶのは似非科学を提唱する側だから
原理原則を理由にして敵を喜ばせてどうする。つくづく学者というのはケンカが下手だ。

と、これを拝見していて思い出したのが、一休さんの屏風の虎退治の話です。

もしかして世代の違いその他で一休さんの屏風の虎退治をの話をご存じない方のために、Wikiによる解説を引用しておきます。

「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。

子供の頃はダジャレ系の「このはしわたるべからず」の方が分かりやすく、こっちの話は余りピンとこなかった・・・というか「それでいいのか将軍様!」という感じだったんですが、今考えると、もの凄い深いお話だなという気がするわけです。

どの辺がかというと・・・この話が教えてくれるのは、「誰が虎を追い出すか」を変えただけで、完全にとんち比べの勝ち負けが入れ替わってしまうということです。

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「素人お断り」?

昨日のエントリーに対して、弾さんからお返事のエントリーを頂きました・・・ところ、何故か、どうも私宛てと思われるコメントが多数弾さんのところについてしまったようです。
何故こっちにつけてくれないんだろう(字数制限もないのに(; ;))ということも、それ自体で一つのテーマたり得るんですが、とりあえず、その中で確かに誤解を与えてしまったのかも知れないと思うご指摘があったんで、ちょっと補足をば。

その後もたくさんやりとりが続いているんですが、多分、もっとも端的な指摘は通りすがりさんの最初のコメントにあるような気がします。

47thさんの言い方は「素人が経済学を語るんじゃねーよ」って言ってるのと同じ
中途半端な知識しかないやつは、経済学の概念使うなって言うのは偏狭すぎる
それとも専門家になんか言われたら恐れ入って平伏しなきゃいけないのか?
Posted by 通りすがり at 2006年11月10日 14:45

もし「素人が経済学を語るんじゃねーよ」ととられてしまったのであれば、それは深くお詫びします。むしろ、「素人が経済学を語るんじゃねーよ」と言われてしまったら、真っ先に槍玉にあがるのこそ、私がこのブログで展開しているローエコネタなんで、そんなことを私が口にする資格はありません。

むしろ、私自身は、ブログという媒体は、法律家が経済学的な議論をしたり、あるいは、非法律家が法学的な議論を交換するような学際的な意見交換の場に向いているフォーマットだと思っていますし、もっと言えば、ある学問における「素人」あるいは「入門者」が自分の理解を深めたり、試したりする場としても向いているんではないかと考えています。

だから、「素人」が経済学でも(あるいは法学でも)、それをブログ上で議論することには、とても大きな意味があると思っています。

・・・と、そういう立ち位置に立つ私ですが、ネット上でなされる「素人」あるいは「非専門家」による議論(特に経済学の場合が多いのですが、法学でもあります)について感覚的に強い違和感を覚えるものと、そうでないものがあり、その区別がどこにあるんだろうともやもやとしていたわけです。

「水からの伝言」に対する田崎教授のQAを読んで、私自身は、何となくそのもやもやの原因が見えてきたような気がしたので、前回のエントリーで、特に感銘を受けた部分を紹介して、その「感覚」を伝えようとしたのですが、それが、あたかも「素人が○○学を語るんじゃねーよ」という印象を与えてしまったようですので、もうちょっとこの「感覚」の言語化を試みてみます。

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「経済学」論議と「水からの伝言」

最近TBを受け付けにくくなっているようで悩んでいたので、磯崎さんがなされた対処法を私も試してみることにしてみました。うまくいくかどうか分かりませんが、しばらくこれで様子を見てみたいと思います。

さて、今日は何だか関係あるんだが、関係ないんだがよく分かりませんが、私の中では結構関係あるもののように感じた二つの話題のご紹介です。

前者は著名なブロガーである小飼弾氏のエントリーで、経済学者の飯田泰之先生が書かれた「ダメな議論―論理思考で見抜く」を紹介しつつ、次のような評をもらされています。

・・・税込み714円以上の価値は確実にある。のだが....

ダメ出しで終止してしまっている。

「それでは、よい議論とはかくあるべきか」という提言が見当たらないのである。

それは、著者の飯田氏に限らず学者という学者に共通した宿痾で、特に経済学者に顕著に見られるというのは私の偏見だろうか。だから、どちらかというと読後感は「やはりこういう議論に陥らないよう気をつけよう」というより、「はいはい、ああいってもこういってもダメな議論とおっしゃるのでしょうねえ」という投げやりなものになりがちだ。・・・(中略)

我々のほとんどは経済学者ではない。同学の学者どおしが議論を戦わすのは大変結構なことだ。しかし、我々のほとんどは、学者のみなさんの議論を吟味するだ けの時間も余裕もないのだ。どんなにダメな結論でも、終わらない議論に勝ると思うのが、全知でもましてや全能でもない我々の本音なのではないか。

 後者は「水からの伝言」という、どうも最近人口に膾炙しているらしい(私も今回初めて知ったのですが)「お話」(きれいな言葉を聞かされた水は美しい結晶を作るが、汚い言葉を聞かされた水は美しい結晶を作らない?)に対して、物理学者のお立場から、それは科学的な「事実」ではないと丁寧に説明されているサイトです。(ちなみに、このサイトはID論について前に書いた頃からBloglinesに登録させていただいている幻影随想経由で知ったものです。余談になりますが、幻想随想さんの似非科学批判はどれも痛烈かつ的確で実に参考になります。)

このサイトではQ&A方式がとられているのですが、その中で私の印象に残ったのが次の二つのQ&Aでした。(是非、全文を読んで頂きたいと思うのですが)

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11月ということで

といっても、もう11月に入って1週間が経つわけですが、丁度ハロウィーンの日から留学中最後の国内旅行に行ってました。

思っていたよりもネット環境が悪く、メールすら読めない状況が続いたのでコメントへの対応もできず申し訳ありませんでした。

とりあえず、NYでは昨日の中間選挙での民主党が圧勝(上院が微妙ですが、まあ増減を考えればこう言っていいんでしょう)が当然のごとく話題になっています。
これで民主党政権への道筋ができたかといえば、民主党の大統領候補の筆頭がヒラリーというところに不安材料があったり、逆に多数派を占めてしまったことでブッシュ政権の政策を追認せざるを得ない立場に追い込まれる可能性もありそうですから、大統領選までの政局は見物です。

思えば、NYに来た直後にブッシュ再選を目の当たりにしたわけで、そこから丸々2年が経ったということなんですね・・・そのNYともいよいよあと1か月というのは、何とも寂しいものです。

いつものごとく、旅行中に見ることのできなかった人様のブログもちょこちょことフォローしているのですが、興味深い・・・というか、経済学というのは、何故かくも誤解を受ける、というよりは、目の敵にされてしまうんだろうと、またしても思ったのは経済成長に関する件の議論です。

とりあえず経済学とは何ぞや?ということをある程度突っ込んで考えたことのある人にとっての見方というのは、山形先生のエントリー(「経済成長の意味」、「成長をなでる「盲」ってだぁれ?」)に尽くされているとは思います。
ただ、ここに現れているすれ違いの源というのは、「経済学をもっと真面目に勉強したら」という話だけではないような気もするところで・・・経済成長の価値、とりわけ今後もそれが必要であるという意識は、実際に経済成長にあえぐ国々に対する視点や、それが先進国と言われる国々にもたらす影響への関心の強弱にもつながっているような気がします。

うまく考えがまとまっていませんが、経済成長を否定したい心情の根っ子のところには、ナショナリズムの昂揚や保護主義、外資排斥、格差問題の強調といったものと非常に似通ったものが通じている・・・そんな感じを受けました。

そういえば、世界史未履修問題はどうなったんでしょう?
何だか「救済」がなされるとか、教員の方の自殺だとかいう話もあるようですが・・・「責任」という名の下に弱い者へ弱い者へと負担が押し付けられていくことのないように祈るばかりです。
法律家の目から見ると「責任」という概念は非常に重い概念であり、「責任」を誰にどういう形で問い得るのかということに関しては常に慎重にならざるを得ないのですが・・・どうも「責任」という言葉が振りかざされすぎのようなきらいもします。
「責任」という言葉の濫用は、「無責任」と同じか、あるいは、それが一方的に弱者に負担を押し付ける際のマジック・ワードとして用いられる場合にはより悪質なものとなってしまう虞があると思うんですが・・・

最後に、池田先生がプリンタ業界のビジネス・モデルを「悪魔的」と断じていらっしゃるようです。
そもそも「悪魔的」とか「略奪的」という既にその用語の中に価値判断を忍び込ませている用語を使うことは、訴訟で弁護士が相手方を非難するときに使うテクニックとしては重要であっても(笑)、学問的には百害あって一利無しだと思うのですが、その点を措いたとしても、前に以下のエントリーで書いたようにアフターマーケットの独占の競争法的意味は必ずしも自明ではありません。

その後、Behavioral Law & Economicsの授業でも、この辺りのことを検討したことがあるのですが、少なくとも競争的な市場においてMyopiaの存在が厚生損失をもたらすかは微妙なところがあります。
これまでの私の検討の範囲では、Myopiaの存在だけでは競争当局の介入は妥当ではなく、(カートリッジ市場ではなく)プリンタ市場での暗黙の協調を促進していたり、参入障壁として機能しているというような、別の事情と組み合わせて考えないといけないと思っているのですが、この辺りはペーパーを書くときに結構気合いを入れて調べたところでもあるので、機会があれば、別途ブログか論文かなんか書いてみるかも知れません。
とりあえず、限界価格プラインシングではないから「悪魔的」と決めつける必要はないんではないかということで(あと、携帯のプライシングについても触れられていますが、カートリッジ以上に価格差別という側面が強くなるので、そのプライシングの仕方の功罪を検討するには、より慎重でなくてはいけないんではないかと)

・・・と、雑多な印象ですが、11月最初のエントリーはこんなところで。

 

 
法律・経済・時事ネタに関する「思いつき」を書き留めたものです。
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