Foundations of Law の全エントリー

誰が屏風の虎を追い出すか?

通常営業に戻るといいながら、また水伝絡みになってしまいますが、finalvalentさんの日記経由で知った『「水からの伝言」を信じないでください』と言うのならやるべき事は一つだろう?(音極道茶室)が興味深かったので、みんな知っている(よね?)一休さんの屏風の虎退治のお話と絡めて、ちょっと軽めで。

先日紹介した田崎教授の「『水からの伝言』を信じないでください」のQAに、次のような一節があったのを覚えているでしょうか?

もし、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか?」と思われている方がいらっしゃれば、それは、まったくの考え違いです。 ・・・もし、これが科学者どうしであれば、話は単純です。 これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になるときには、新説をだしている科学者の側に、説得力のある証拠をだす責任があります。

これに対して音極道茶室さんは、次のように仰っています。

で、いざ「キッチリ叩く」となった時に、「新規なことを主張する側が立証責任を負う。」などと「科学者の論理」を持ち出すのはナンセンスこの上ない。相手はそもそも科学者ではないのだし、それよりも「科学者側から反証実験はしない」と言われて一番喜ぶのは似非科学を提唱する側だから
原理原則を理由にして敵を喜ばせてどうする。つくづく学者というのはケンカが下手だ。

と、これを拝見していて思い出したのが、一休さんの屏風の虎退治の話です。

もしかして世代の違いその他で一休さんの屏風の虎退治をの話をご存じない方のために、Wikiによる解説を引用しておきます。

「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。

子供の頃はダジャレ系の「このはしわたるべからず」の方が分かりやすく、こっちの話は余りピンとこなかった・・・というか「それでいいのか将軍様!」という感じだったんですが、今考えると、もの凄い深いお話だなという気がするわけです。

どの辺がかというと・・・この話が教えてくれるのは、「誰が虎を追い出すか」を変えただけで、完全にとんち比べの勝ち負けが入れ替わってしまうということです。


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Posted by 47th : | 12:19 | コメント (22) | トラックバック (3) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

「素人お断り」?

昨日のエントリーに対して、弾さんからお返事のエントリーを頂きました・・・ところ、何故か、どうも私宛てと思われるコメントが多数弾さんのところについてしまったようです。
何故こっちにつけてくれないんだろう(字数制限もないのに(; ;))ということも、それ自体で一つのテーマたり得るんですが、とりあえず、その中で確かに誤解を与えてしまったのかも知れないと思うご指摘があったんで、ちょっと補足をば。

その後もたくさんやりとりが続いているんですが、多分、もっとも端的な指摘は通りすがりさんの最初のコメントにあるような気がします。

47thさんの言い方は「素人が経済学を語るんじゃねーよ」って言ってるのと同じ
中途半端な知識しかないやつは、経済学の概念使うなって言うのは偏狭すぎる
それとも専門家になんか言われたら恐れ入って平伏しなきゃいけないのか?
Posted by 通りすがり at 2006年11月10日 14:45

もし「素人が経済学を語るんじゃねーよ」ととられてしまったのであれば、それは深くお詫びします。むしろ、「素人が経済学を語るんじゃねーよ」と言われてしまったら、真っ先に槍玉にあがるのこそ、私がこのブログで展開しているローエコネタなんで、そんなことを私が口にする資格はありません。

むしろ、私自身は、ブログという媒体は、法律家が経済学的な議論をしたり、あるいは、非法律家が法学的な議論を交換するような学際的な意見交換の場に向いているフォーマットだと思っていますし、もっと言えば、ある学問における「素人」あるいは「入門者」が自分の理解を深めたり、試したりする場としても向いているんではないかと考えています。

だから、「素人」が経済学でも(あるいは法学でも)、それをブログ上で議論することには、とても大きな意味があると思っています。

・・・と、そういう立ち位置に立つ私ですが、ネット上でなされる「素人」あるいは「非専門家」による議論(特に経済学の場合が多いのですが、法学でもあります)について感覚的に強い違和感を覚えるものと、そうでないものがあり、その区別がどこにあるんだろうともやもやとしていたわけです。

「水からの伝言」に対する田崎教授のQAを読んで、私自身は、何となくそのもやもやの原因が見えてきたような気がしたので、前回のエントリーで、特に感銘を受けた部分を紹介して、その「感覚」を伝えようとしたのですが、それが、あたかも「素人が○○学を語るんじゃねーよ」という印象を与えてしまったようですので、もうちょっとこの「感覚」の言語化を試みてみます。


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Posted by 47th : | 12:38 | コメント (27) | トラックバック (4) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

「必修」科目の幻想

日本では高校での世界史未習問題が大きな広がりを見せているようですね。

色々な論点があると思うのですが、一番重要な話は、受験シーズンを目の前にした該当高校の受験生たちの取扱いであることは間違いありませんが、これ自体は最早法的な問題と言うよりも政治問題じゃないかという気がしています。

むしろ、法律家として興味があるのはtoshiさんろじゃあさんのようにコンプライアンスの観点ですが、これも色々な切り口があり得ます。

なぜ指導要領を守らなかったのか、あるいは、その公表における対応は適切だったか、etc・・・こうした部分で学校側が多くの課題を抱えていることは疑いはないのですが、でも、全国各地で100近い高校に無視され、しかも、これまでそれに対してサンクションがなされたことのなかった「必修」というのは、一体何なんでしょうね?

「法」というのは、単に紙の上で条文を書けば、それでよいというものではありません。
極端な話、紙に書いて公布するだけで「条文」が「法」になるのであれば、「法の支配」の実現なんて簡単な話で、今頃、世界中は皆「法の支配」で満ちあふれているでしょう。

でも、そうではありません、「条文」が「法」として通用するためには、それを「実現」するためのコストが必要です。先進国で巨大な警察機関が組織され、司法機関(裁判所)と司法メカニズムが多大なコストをかけて運用されているのは、最もよい例ですが、単に警察と司法機関があれば全ての「条文」が「法」になるわけではありません。

時には、「条文」が警察機関や司法機関の助けを借りなくても、自然に人々に受け容れられ守られる場合もあります。こうした現象は「法の内部化」などと呼ばれ、最近、法学の世界でも高い関心を持って研究がなされている分野ですが、ここでも「法の内部化」が起きるためには、単に国家が権威的に押し付けるだけではだめで、そうしたルールを守ろうという意識が起きるための何らかの契機が必要だということが認識されています。

翻って、文科省は色々なことを考えて「必修」科目を定めたわけですが、その「必修」性を維持するためにどのようなコストを支払ってきたのでしょう?
100校近くの進学校がこれに従っていないということは、少なくとも当事者がそれを守ることで自然に利益を受けるような構造や契機はなかったということが推測されますし(インセンティブ問題についてはnight_in_tunisiaさんが書かれています)、これだけの規模で数年に亘って続いていた「法律違反」がこれまで発見されなかった(あるいは見過ごされていた?)ことは、「必修」性を確保するための調査やサンクションなどの手段が適切になされてきたのかに疑問も残ります。

「日本社会はコンプライアンスの意識が低い」という時に、我々は法のユーザー側の意識ばかり問題にしがちですが、ユーザーサイドで法を運用する私の印象からすると、法を定める側も条文をつくることばかりに夢中で、それがユーザーが自発的に従うほどに自然なものなのか、あるいは、それを「強制」するためにはどれだけのコストが必要になり、それに見合ったベネフィットは何なのか、という意識が薄い気がします。

かつてライブドアがTOBルールのグレーゾーンを使った買付を行い、それが当時の閣僚によって適法だとされたときに、(そもそも1/3ルールの合理性自体には疑問を持ちながらも)少なくともルールの建て付けからいえば違法の疑いが強いということでそれまで長きにわたって依頼者にストップを出してきた弁護士からすれば、何とも言えない徒労感を感じたことがありました。

今回の「必修」科目問題についても、ユーザー側のコンプライアンス意識を問うと同時に、そもそもルールを定める側のコンプライアンスに対する意識についても問われるべきなんじゃないかと、そんな気がしています。

 

(※)よくあげられる例は、交通における右側通行や左側通行ですが、これは皆がそうする方に従うことが個々人にとっても利益だからです。なので、右側通行や左側 通行は、それに従った道路整備を国家がやれば、極端な話、いちいち条文に書かなくても人々はルールとして受け容れるでしょう。これに対して速度規制や駐車 違反にはそうした契機は存在しません。もっとも、欧州で有名なアウトバーンのように速度制限がなかったとしても、人々は速度上昇による利益とリスクを秤に かけて一定の速度を選ぶわけで、道路状況や天候、運転技術や車の性能などの幾つかのファクターによって、車線毎に自然に一定の速度帯が形成されるとすれば、これはこれでそうしたルールが成立しているということになります。


Posted by 47th : | 12:09 | コメント (21) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

悪法への挑戦と戦略

別に医療ネタを続けようと意図しているわけではないんですが、やはり関心を惹いたのはこのニュース。

助産行為:「法律には限界ある」堀病院長が開き直り(毎日新聞)

「法律に基づいてやるには限界がある」。保健師助産師看護師法違反容疑で神奈川県警に家宅捜索された堀病院の堀健一院長(78)は、同県警の調べ に、看護師らに助産行為をさせていたことを開き直って認めた。同病院の助産師数は同規模の病院より極端に少ない。厚生労働省は「助産行為は医師と助産師し かできない」との見解だが、公然と反旗を翻した格好だ。
・・・堀健一院長(78)は24日夜、 横浜市瀬谷区の同病院で報道陣の質問に答え、「患者が来るのに助産師が足りない。看護師が内診をすることは必要悪だ」と強調した。今後の対応についても 「(看護師らによる内診を)続けなければどうすればいいのか。看護師による内診をやめたら明日から患者を全部やめなければいけなくなる」と語気を強めた。

まず、最初に本題と関係ないところで一言ですが、見出しに「開き直り」とつけて、主張の正当性を最初から疑ってかかっているかのようなバイアスを与えるやり方は、そろそろ考えた方がいいんではないか、と。記事の内容としては、双方向の意見を紹介していたり、法令に従って真面目にやっているところもあるところの現状も紹介したりして悪くないだけに勿体ない感じが。

で、本題は看護師の内診は必要悪かどうか・・・ではなく、(それは私には判断できませんので)、院長の方が仰っているように、看護師による内診を禁ずることが「悪法」であったとして、「あえて法律違反(と言われている)行為を犯して悪法に挑戦していくこと」をどう考えるかということについてです。


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Posted by 47th : | 13:58 | コメント (4) | トラックバック (1) | 関連エントリー (5) | Foundations of Law

ポリゴン・ゲーム世代に別所、藤村?

私はIPの専門家ではないんですが、プロ野球ファン&ゲーマーとして何となく気になったのが、このニュース。

プロ野球選手の肖像、使用許諾権は球団側に 東京地裁(asahi.com)

ゲームソフトやカードでのプロ野球選手の氏名や写真の使用許諾を選手側ではなく球団側が行っていることの是非が争われた訴訟の判決が1日、東京地裁 であった。高部真規子裁判長は「許諾権限は球団側にある」と判断。権限が球団側にないことの確認を求めた選手側の請求を棄却した・・・
各球団と選手が結ぶ統一契約書では「球団が指示した写真撮影などに関する肖像権は球団に属し、球団が宣伝目的のため、いかなる方法でそ れらを利用しても異議を申し立てない」としている。選手側は「宣伝目的」は「広告宣伝目的」だけで、「商品化目的」は含まないと主張した。
判決は、統一契約書は51年に米大リーグを参考に作られ、「パブリシティー」(氏名や肖像が持つ経済的価値を独占的に支配する財産的権 利)を「宣伝」と訳した経緯や、それ以前にも別所毅彦選手(巨人)のブロマイドや、藤村富美男選手(阪神)らの氏名や肖像を使用した玩具などで球団などが 許諾していた事情を指摘。「契約書もそうした慣行をもとに制定されたと考えられる」と述べた。  そして「宣伝目的」について「広く球団、プロ野球の知名度向上に役立てる目的」と定義。カードやソフトでの利用はそれに合致し、球団が許諾権を持つと結論づけた。

ご存じない人のために少しだけ解説を加えると、プロ野球選手のブロマイドや最近のリアル系野球ゲームでは選手の画像というのが使われるわけですが、このときにブロマイドの販売会社やゲームメーカーは誰から許諾をもらえばいいのかというお話で、球団からライセンスを受ければいいのか、それとも選手なのかという話です。

既に判決全文も裁判所のHPで公開されているのですが、当事者目録などが入っているとはいえPDFで120頁・・・で、全部読むのはきついわけですが、何が気になったかといえば、新聞記事で述べられているような理由付けの仕方です。

私の印象になりますが、肖像権に関する権利の所在が深刻化してきたのは、 巨大産業となったテレビゲームの人気コンテンツの一つとしてリアル系野球ゲームが普及したことと、球団のブランドを離れて選手個人で顧客誘引力を持つイチローのような選手が現れて、選手の肖像権が大きな経済的価値を有するようになってからという気がするわけで・・・そうすると、早くても90年代半ば辺りではないでしょうか。

こういう新しい問題を解決しようとするときに、そもそもコンピュータ・ゲームどころかカラー・テレビすらなかった時代の統一契約書ドラフトの際の経緯や別所、藤村の話を持ち出すのに、皆さんは違和感を感じられないでしょうか?


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Posted by 47th : | 22:05 | コメント (4) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

法と社会と開発と「契約の再生」

既に各所でとりあげられている内田貴東京大学教授(民法)の「法科大学院は何をもたらすのか または 法的知識の分布モデルについて」、遅ればせながら雑感を。

思い出話から入ると、私は、身の程知らずなことに一時期東大の大学院の研究者養成コースなんぞにいたんですが、大学院生時代に内田先生の契約法のゼミで勉強させて頂いたりしました。

正確なゼミのタイトルは忘れたのですが、伊藤元重先生の「挑戦する流通」や「日本の物価はなぜ高いのか―価格と流通の経済学」を読んだりしながら、価格破壊の裏側を支えるプライベート・ブランドや物流システム、あるいはコンビニエンス・ストアをはじめとしたフランチャイズ・システムの経済実態を調べながら、そこで成立している規範の内容と成立過程、効力を分析するという、今にして考えても、かなり野心的な素晴らしいゼミでした。

当時は、ぐーぐる様もいなかったので、コンビニのビジネス・モデル一つ調べるのにも大変苦労して、本郷の公衆電話から主要チェーンの広報に電話をしてインタビューを試みたりしたことが懐かしく思い出されます(笑)。

なんで法学部の民法ゼミで、そんなことを?、と思うかも知れませんが、その背景にあったのが、内田先生の名著「契約の再生」でした。アメリカの学者Gilmoreの「契約の死」(The Death of Contract)を受けて書かれたこの本は、アメリカにおいて「意思」に基づく古典的な「契約観」が死に絶えていく過程と、その一方で新たな契約理論-とりわけ社会関係に基礎を置いた「関係的契約論」が生まれる過程を描き、この関係的契約理論が日本民法における継続的契約関係の処理や「信義則」の活用といった現象を能く説明し得るという示唆を与えるものでした。

「法」が社会を律するのではなく、「法」の前に「社会関係」が存在し、その「社会関係」が具体的な「法の解釈・適用」を規定するというアプローチの延長として、現在進行形で生まれている新しい社会的実態である流通革命やフランチャイズ・システムを分析し、そこで育まれている規範を探し出すというのは、「契約の再生」からいえば、ごく自然な流れなのですが、どちらかというと「法」それ自体の形成過程を裁判例や学説から見ていく伝統的な法学アプローチからすると随分異例でした。

・・・と、こんな昔話をしたのは、単なる思い出というだけではなく、内田先生のよって立つこういう「法」と「社会」のかかわり方が、冒頭に紹介した記事で書かれている「法的知識の分布モデル」の話につながってくるような気がするからです。


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Posted by 47th : | 18:17 | コメント (13) | トラックバック (2) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

フィードバックとトライ・アンド・エラー

個人情報保護法1年、識者から「法改正必要」の指摘も (Yomiuri.net)

個人情報保護法が全面施行されて1日で丸1年。
 法制定にかかわった国会議員や政府の検討部会などの委員を務めた識者らに、読売新聞がアンケート調査したところ、回答者の多くが、相次ぐ過剰反応や公益情報の非開示を懸念し、運用見直しだけでなく法改正の必要性を感じていた。・・・

回答者のうち、「保護法の運用は適正」としたのはゼロ。混乱や不適切な運用が、「一部」または「かなりある」が30人、「そもそも法に欠陥がある」が5人だった。
 必要な対策(複数回答)については、「法の趣旨や必要な情報提供への理解を求める啓発」「明確な解釈指針」が各16人、「実態調査」「省庁の指針見直し」が各14人だった。
 33人は何らかの法改正が必要と指摘。「行政機関個人情報保護法に、情報の有効利用、公益情報提供についての規定を盛り込む」「公益情報を共有可能にするため、個人情報の保護の範囲などを見直す」は、いずれもその半数を超えた。
 過剰反応や不適切な運用の原因では、「個人情報を悪用した犯罪など治安悪化を背景に、住所や氏名も明かしたくないという意識が広がっている」が 24人と最多。国や自治体のPRや研修不足で、「法の趣旨が理解されていない」が22人、「法や条例の適用範囲や解釈に混乱がある」が18人に上った。

昨日の記事とも関連しますが、「「運用は適正」としたのはゼロ」という結果は、法案作成段階での政策立案能力や立案過程という面から考えると何とも寂しいところです。

ただ、法令というのは、先に実験室で実験してみてからというわけにはいかないのも確かなところです。
やる前から「ああでもない、こうでもない」とこねくり回し過ぎたり、(実際には達成し得ない)最適解を追及しようとすると、結局現状維持のままということにもなりかねない・・・ということを、昨日の記事にTBしていただいたgo2cさんの記事を読みながら考えていたところだったので、個人的にタイムリーな話でした。

こうして実際の運用に関してフィードバックを得て、それによって法令が修正されていくのであれば、多少思い切った方向で舵を切ってみるというのもいいんだと思います。

もっとも、誰もが「おかしい」とか「悪法」だと思っていても、一度既成事実化してしまった現状を変えるための労力が余りに大きく、結局、「悪法」が「悪法」のまま放置される状態になる可能性もあるわけで、その辺りは気をつけて見ていきたいところです。(なお、これは一般論の話で、個人保護法が「悪法」だと言っているわけではありません。為念)

事前の政策立案については慎重さを欠いて大胆に行動しておきながら、それを改める段階ではあれこれと理由をつけて尻込みするという組み合わせが一番まずいんで。


Posted by 47th : | 14:01 | コメント (3) | トラックバック (1) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

「法」への幻想 (番外編)

(3/30 追記あり)

巷で話題になっているPSE法のことについては、私には正直よく分からないので、全く触れていませんし、これからも触れるつもりもないのですが、「法」に対する観念や「悪法」に対する対応のあり方として、非常に勉強になったのが名古屋大学の大屋雄裕先生の「おおやにき」ということで、ご紹介いたします。

コメント欄も含めると結構膨大になるのですが、これまでのこのブログでの「法」への幻想シリーズを面白いと思ってい頂いた方は、是非ご一読をお薦めいたします。

大屋先生は、一貫して、(a)「裁判所がどういう解 釈をとるか」ということと、(b)それが「法として望ましいかどうか」を区別した上て、(a)の問題として「中古品の販売」を含まないという解釈を裁判所がとる可能性は低いことと、そして、そうした裁判所の判断に対する客観的な予測を前提として、PSE法に対して、それを「悪法」だと考える人々がどういう形で対応することが(PSE法反対者のみならず社会的なシステムとして)望ましいかを議論されている(ように見える)わけです。
これは、法律家にとっては極めて自然な思考様式なのですが、一般の人々の持つ「法」のあり方(あるいは、あるべき姿)の観念との間には齟齬があり、それがコメント欄のやりとりの中で浮き彫りになっているように思われます。

今回のPSE法においてどのような対応や解決が望ましかったかは、私自身は答えが出ていませんし、(坂本)教授のような声の上げ方もあっていいとは思っているのですが、そうした点を措いて、大屋先生の根気強い丁寧な対応と明晰な分析には本当に感銘を受けました。


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Posted by 47th : | 11:43 | コメント (16) | トラックバック (1) | 関連エントリー (1) | Foundations of Law

「法」への幻想 (3)

<前回までのエントリー> 

 

今回は、こんな記事の紹介からです。

第2次大戦中に中国から強制連行され、長野県内の水力発電所建設現場で過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者3人と死亡した元労働者4人の遺族 が国と建設会社4社に約1億4000万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が10日、長野地裁であった。辻次郎裁判長は原告の請求をいずれも棄却した。原 告側は控訴する方針。
・・・判決言い渡し後、辻裁判長は「個人的な感想」と前置きした上で、「我々の上の世代は本当にひどいことをしたという印象を受けた。一人の人間として救済しな ければと思ったが、判例を覆すにはきちんとした理論が立てられないとやむを得ない。この問題は裁判以外の手段で解決できたらと思う」と述べた。

判決言い渡しの後に「個人的な感想」を述べることの当否には、いろいろな考えがあり得ると思いますが、辻裁判長の言葉は、実際に「法」を扱う者が直面する葛藤を表現しているような気がします。


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Posted by 47th : | 22:42 | トラックバック (0) | 関連エントリー (1) | Foundations of Law

「法」への幻想 (2)

<前回までのエントリー> 

 

「法」(あるいは「違法である」「適法である」ということ)を内心的価値観に関する議論において「権威」として用いることを危険だと思う2つめの理由に入る前に、議論において、相手に「それは違法であって、許されるものではない」というときに、ここでいう「違法」という判断はどうやって下されるんでしょう。

次の2つの事件を比べてみましょう。

  • 私立中学による松本被告の次男に対する入学拒否
  • 私立大学による松本被告の三女に対する入学拒否 

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Posted by 47th : | 16:26 | コメント (3) | トラックバック (0) | 関連エントリー (1) | Foundations of Law

「法」への幻想 (1)

「法」の限界には、いろいろな形があると思うのですが、まず議論における「権威としての法」の役割を考えてみましょう。

そもそも他人を説得する場合には、色々な手法がありますが、その一つに「権威」を用いて説得するやり方があります。
小学生の口喧嘩で相手を負かすときに「先生がいけないことだと言っていた」と、「先生」という権威を持ち出すことに始まり、「権威」は、そのときに応じて出版物であったり、権力者であったり、学者であったりとさまざまですが、本質的な特徴は、「それがおかしいと思うなら、先生に言ってくれ。言えないのなら、それ以上ごちゃごちゃ言うな」という形で議論に一つの決着をつける力を持っていることです。


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Posted by 47th : | 14:40 | コメント (2) | トラックバック (0) | 関連エントリー (1) | Foundations of Law

「法」への幻想 (intro)

先ほどのエントリーに小飼弾さんから、早速レスポンスのエントリーを頂きました。

「信念」の問題として、親が被疑者というだけで入学を拒否するべきではないということには、私は、ほとんど異論はありません。自分の子供でも友人でも、あるいは自分自身ですら、それを理由に人の見方を変えるというのであれば、私は、それに異を唱えると思います。

でも、私は、そのときに「それが違法だから許されない」とは言わないと思います。

おそらく、大筋の発想では、小飼さんの仰ることが非常に健全な考えであり、更にいえば、「正しい」と思っているにもかかわらず、私が異を唱えたくなったのは、その「正しさ」の拠り所を「法」に求めようとされたからなのかも知れません。

私はこう言いたかったかのかも知れません。

・・・「法」というのは、そんな偉いもんではないし、「正義」に代替できるようなものではないんですよぉ。裁判所にいって「違法だ」って言ってもらっても「慰謝料30万円」で終わりかもしれない。
言い方を変えれば、裁判所とか法なんて、人の権利を侵害するときの値段を決めているようなもんでしかないかもしれないし、裁判所だって、30万円なら気軽に「違法」と言うかもしれないけど、30億なら「違法」とは言わないかも知れない・・・
よくも悪くも、「法」というのは、そのぐらいの代物かも知れないじゃないですか。
そんな危ういものに頼るよりも、小飼さんの言説というのは、もっと人の心の根っ子に届くじゃないですか?
そんなに、「法」を偉いものに見立てたりしないでくださいよ。「法」なんて、もっとあやふやで、そこから何か「答え」を導き出せるような、そんな偉いものではないんですよぉ・・・

ライブドアへの強制捜査の時にも同じように、私は、「「法」は、そんな偉いもんじゃなくて、世の中に起きることの、ほんの一部をコントロールしているだけに過ぎないんだから、「法律違反」があれば、8000億円の会社と22万人の株主に生じる不利益を考える必要がないなんて、そんな偉そうなもんじゃないんだ」と言いたかったわけです。

そして、また、これは「開発」の文脈で、経済発展において、法的権利の確立や「法の支配」こそが重要だという考え方に対する反感にも通じていくわけです。

法律家のくせに、「法」の意義を否定するかのような発言かと思うのかも知れませんが、法律家だからこそ、いつも「法」の限界が気になってしょうがないわけです。

・・・でも、ひょっとしたら、これは「逃げ」なのでしょうか?
「法」は、もっとちゃんとした役割を期待されていて、それを果たさないといけないんでしょうか?

とりあえず、小飼さんとのやりとりの中で、そんなことを思いました。これは何となく私にとって、非常に大きな宿題のような気がしますんで、また、何れ折りに触れ、考えていこうと思いますが、とりあえず今日のところは頭出しだけ。


Posted by 47th : | 17:35 | コメント (14) | トラックバック (2) | 関連エントリー (1) | Foundations of Law

「法的議論の何たるか」を考えてみる

法学の多重人格性の続きみたいなものですが、法的議論が何かということを考える上で、何となくヒントになりそうな材料が小飼弾さん(404 Blog Not Found)の書かれた以下の記事とそこへのコメントであったので、これをベースにちょっとつらつらと考えてみたいと思います。

まず、この件に関する個人的な「好き嫌い」でいえば、親が被疑者であるという理由で入学を拒むことは「好きではない」ですが、それが「違法かどうか」と言われると、非常に微妙だろうという感覚を持っています。その根拠は、やはり春日部共栄中が「私立」であり、これは私人間の問題だからである・・・というと、小飼さんには、「法の何たるかを全く理解していない」とお叱りを受けてしまいそうです。

「想定の範囲内」だったのは、賛否両論のありよう。特に反論のほとんど全てが、「春日部共栄中は私立であり、『受け入れざるを得ない者』は公立へ」というものだった。

申し訳ないが、諸君は法が何たるかを全く理解していない。

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Posted by 47th : | 14:13 | コメント (4) | トラックバック (2) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

法学の多重人格性

ある意味、昨日のエントリーの続きですけど、「法学」って、多重人格的なんですよね。

典型的には司法試験に見られる「法学」の一つのあり方は、既存の「法」を所与として、ある事象への適用を論ずるものです。一応、大前提→小前提→結論という論理的な三段論法を踏襲していますし、大前提や小前提の立て方については、議論がなされますが、「大前提」となる「法」そのものは明文法であったり、過去の判例であったり、あくまで所与のものです。

これはこれで、例えば社会における法適用の予測可能性を確保するという意味では非常に大切なわけですし、実務家でこれができないと目も当てられないことになります。

ただ、これは「科学」かっていうと、あんまり「科学」っぽくはないような気がします・・・まあ、「科学」自体、何なの?というところがはっきりしないんで、それに対して「ぽい」とか「ぽくない」と言ってみてもしょうがないんですが、例えば、「賭博はやっちゃいけない」という法律があれば、あとはある事案が「賭博」なのかどうかを一生懸命議論しなくてはいけないわけです。
そもそも世の中のあらゆる事象には不確実性があるわけで、「賭博」と「賭博ではないもの」っていうカテゴリーの分け方は無意味だといって、コペルニクス的な発想の転換を迫っても、「はぁ」ってな感じで終わってしまいます。

私が司法試験をやっていた頃は「司法試験で立法論を書いたら落ちる」と言われて「さもありなん」と思っていたんですが、よーく考えると、この意味での「法学」は「法学」のある特定の一面でしかないわけです。

で、他の面は何かといえば、そもそも「法」はどういう形であるべきか?という議論をする面で、例えば上の人生自体ギャンブルなんだから、ギャンブルが罪なら人間は皆罪になる・・・と言っている人が本当にいるのかどうかは知りませんが、そういった、そもそも「法」とはどうあるべきか、という議論です。

この辺りになってくると、結構「科学」っぽくなってもおかしくないんですが、「法を定める」というのは、色々な利害が絡む極めて生臭い話なので、前回のtaghitさんがコメントして下さったように、生臭いところで結論が先にあって、それを「もっともらしく」見せるために理屈が使われることがあり得るわけです。

しかも、法学の世界では便利なことに(笑)、「正義」とか「公平」とか、その内容や度合いを判定する基準や手法を全く定義・提示することなく拠り所にできる葵の御紋があるので、そこに逃げ込まれると、それ以上は議論をかみ合わすことができなくなってしまうわけです。

実際、「法」というのは、必ずしも一つの目的にのみ資するわけではなく「モラル」と等価値で存在するものでもあるので、例えば「中絶禁止」とか「同性婚禁止」の世界になると、「価値観」とか「信仰」の対立に帰着するわけで、そこから先には進めなくなってしまう場合があるのも「やむなし」というか、「そういうもの」なんだからしょうがないんでしょうね。

ちょっと前にアメリカでインテリジェント・デザインと進化論を巡る論争がありましたが、あれを例にとると、「IDは反証に耐えられないから否定されるべき」と来るのが科学だとすれば、「『生命の神秘』に対する見方の差」で終わってしまうのが「法学」的というところでしょうか?(少し乱暴ですが・・・)

私がローエコ好きなのは、最後に「価値観の違い」で議論がすれ違うのが気持ち悪いからなんですが、とはいっても、「法学」には、そういう側面があることや、もっといえば、そういう側面を重要だと思う法律家が多いということは、分かっているつもりです。

ただ、ことが経済活動を規制するもののように、究極の目的が「効率性向上」や「市場の失敗の是正」であったりとかいうものについては、「価値観」では逃げられないし、逃げてはいけないんじゃないかと・・・というわけで、少なくとも経済関連の法については、「科学」的・・・というか、せめて「経済学」並のアプローチが一般的になってくれるといいのに、と思う、今日この頃だったりします。


Posted by 47th : | 20:11 | コメント (7) | トラックバック (1) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

「科学」の敷居

(2/24 追記あり) 

何か、M&Aのケース・スタディの宿題で5時間ぶっ続けでミーティングをしたり、また日曜日にミーティングをしなきゃいけないわ、ゼミのグループ発表も準備しなくちゃいけないのに、何か今ひとつしっくりこないやら、ブログは何か書いても途中で筆がとまってしまうやら・・・と、何かちぐはぐな日々が続いています。

そんな中、面白かったのがbewaadさんの中村正三郎さんの経済学観についてというエントリーです。

いつもながらの理路整然としたbewaadさんの切り込みが純粋に気持ちいいところです。

個人的な感想を言わせていただくと、スティグリッツの「入門経済学」の「日本版」の「訳者追記箇所」における数式の変数定義における「率」と「絶対値」の誤り(誤植にせよ筆者の勘違いにせよ)が放置されていたことで経済学のレベルが分かると言われても・・・論文とか大学院レベルの教科書で言われるんなら、まだしもというところでしょうか。経済学にある程度通じた人が入門経済学の和訳本の追加部分を真面目に読む確率がどのぐらいあるのかとか、変数定義を斜め読みする確率がどのぐらいあるのかとか考えると・・・これで経済学におけるpeer reviewの程度を図られても困るだろうなという気がします。
(2/24追記:しかも、そもそも「誤植」ですらなかったようです。もっとも、それならそれで、ひょっとしたら「率」という用語をパーセンテージと同じ意味で使わないと「科学としてなっていない」といわれるのかも知れませんが(笑))

ただ、自然科学の人から見ると、経済学を含めた社会科学の分野を「トンデモ」と思う気持ちは分からなくもないなぁ、と言う気になったのが、今学期受けているData Analysisの授業で教授が言っていた話です。

統計学的な手法で法則性を検証する回帰分析(regression analysis)のあてはまりのよさをあらわす指標でR-squareというのがあるんですが、自然科学の世界では99%で当たり前だけど、社会科学では40%程度でも十分な場合もあると・・・これだけでも、えっ!という感じかも知れませんが、実は経済学における実証研究といえば、R-squareが10%台でt値の絶対値が2を切る(統計的に有意とはいえない)係数もモデルの解釈において考慮に入れるなんていうのが、ごろごろしているわけで・・・自然科学の世界の人からすれば、「トンデモ」じゃん、と思っても不思議はないかも知れません(笑)

ただ、「科学」かどうかは、必ずしも「結果」として何が得られたかによって判断されるものではなく、そのアプローチによって判断されるべきものかも知れません・・・っていうか、これこそ有名な(といっても原著を読んだわけではないんですが^^;)カール・ポパーの話で、「反証可能性」(falsifiability)があるかどうかという観点から見ることになるわけですが・・・これこそ言うまでもなく経済学というのは、(上記のように実証のデータがそれほど強固ではないため、実証とそれに対する反証が難しいという面がある点はともかくとして、)反証可能性を持っている学問ですし、実際にそうした反証によって過去の理論が覆されたり精緻化されているわけです。

そういう意味では経済学は十分に「科学」なわけですが、さて、私の本来のフィールドである「法学」はどうなんでしょう?

むかーし、平井教授の「法律学基礎論覚書」も読んだんですが、正直、内容ははっきりとは思い出せません。ただ、経済学で叩かれるぐらいなら、法学なんて、もっと怒られそうな気がします。もっとも、そこまでしゃかりきになって「科学」の仲間入りをしなくてはならないのかは・・・よく分からないですね。

何か、まとまりがありませんが、とりあえず感想まで。


Posted by 47th : | 23:02 | コメント (6) | トラックバック (0) | 関連エントリー (0) | Foundations of Law

 
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