Law & Development の全エントリー
パイを誰と分けるのか? [ 2006年11月14日 ]
(追記あり & 11/19 修正あり)
私は経済学の学位も持っていなければ、ましてや、開発関係の勉強は始めたばかりです。
でも、その程度の理解の範囲であっても、色々なことが見えるものです。
おそらく、私よりもより深く知り、より的確に問題を指摘できる方がネット界にはいらっしゃると思うのですが、それでもやはり私なりの言葉で、この考え方に問いを発しておきましょう。
また、経済成長一般が悪だと言った訳でもありません。発展途上国においてはまだ経済成長は必要です。まずパイそのものを大きくしなければ、配り切らないのですから。
しかしパイそのものが充分大きくなった世界においては、パイを大きくするよりも、どうパイを切り分けたかを考える方が重要なのではないですか、ということなのです。(404 Blog Not Found: 経済成長は手段か目的か?)
あなたは、そのパイを誰と分けるつもりなのですか?
確かに、経済成長の計測は国を単位に行われることが多いかも知れません。
しかし、そのことは、それぞれの国の経済成長や、その経済成長の分配が、その国に属する人々の間で完結することは意味しません。
例えば、国内の消費市場が未発達の途上国にとって、発展の第一段階は、先進国消費市場へのアクセス(輸出)です。
先進国の消費者の購買力があがれば、途上国もその恩恵にあずかることができるし、逆に、先進国の経済成長が停滞すれば、それは途上国にも波及してしまいます。
ひょっとしたら、「今の日本は途上国に対する責務を果たしながら、それでもパイの拡大を優先する必要がないぐらいにはパイが大きくなっている」という反論があるかも知れません。
そもそも、パイの大きさが十分かどうかという議論をおいたとしても、そんな大きなパイが極東の島国にあるなら、そこはまさに「黄金の国ジパング」です。
途上国の人々は皆ジパングを目指して旅立つでしょう。比喩ではなく、現に多くの人々がそこにあるパイの分け前にあずかるべく日本を目指しています。
もちろん、現行法の下では、多くの場合、それは「不法入国」です。
見つかれば強制送還されますし、見つからなくても、社会的なソーシャルネットの庇護の外で、万が一病気にかかっても医者にかかれるかも分かりません。
それだけのリスクを犯しても、日本を目指すのは、そこに「大きなパイ」があるからです。
アメリカもヨーロッパの先進国(※)も、色々な歴史的経緯もありますし、政治的妥協もありますが、大なり小なり、移民の受け容れという形で、途上国とパイを分け合ってきています。
もちろん、移民問題は、それ自体センシティブな問題であり、「だから日本も移民を受け容れるべきだ」と一足飛びに結論を出すわけではありません。ただ、移民の受け容れをしないのであれば、それに代わるパイの分け方を考える必要があります。
何れにせよ、大きくなったパイを持つものは、それを誰と分け合うか考えなければいけません。
「もう十分大きくなったから、このパイは自分たちだけで分けます。君たちも、ぼくたちをみならって、パイを大きくするんだよ」
日本という国自体、過去の急激な経済成長を遂げた重要な要因として、欧米先進国の消費市場へのアクセスが可能だったことがあげられます(※2)。貿易摩擦という言葉を生み出すほどに、米国の消費市場、言い方をかえれば米国民が増やしたパイへのアクセスによって自らのパイを増やしてきた国が、それを増やした途端にそう言うことができるのでしょうか―
「経済成長」という言葉の使い方一つで向きになる人たちのことを不思議に思う方がいらっしゃるかも知れません。
でも、途上国の貧困と自分たちを結ぶ線の存在への無関心こそが、今なお世界中に蔓延する貧困の前に立ちはだかっている壁だと考え、その無関心をどうにかしたいと願う人間にとっては、やはり見過ごすことはできないのだと思います。
私自身、まだその世界の入口を覗いたに過ぎない身ですが、どれだけの人に届くかは分かりませんが、やはり声はあげておかなくてはいけないと思うわけです。
ましてや、その世界を自分のライフワークの一つと定めた人であれば、なおさらだろうと思います(※3)。
最後に、以前のエントリーも書きましたが、私には弾さんのレトリックを読み解くリテラシーが不足しているので、弾さんの「真意」とは違う趣旨でとらえてしまったのかも知れません。あるいは、弾さんのことであれば、私が以上で書いたようなこともお分かりの上で、そんなことではなく、「その先」のことを言いたかったのかも知れません。
もし、そうであれば、弾さんのエントリーを拝見して、上のような意味にとってしまった者があり、同じように「誤解」してしまう人が他にいるかも知れないということで、そうした人に向けて書いたものだとお考え頂ければ幸いです。
また、この分野については、(いつものことながら、)私はマニアですらない、ただの門前の小僧です。私の理解している範囲で背伸びをしないように書きましたが、それでも基礎的なところで思わぬ間違いをしていれば、ご指摘頂ければ幸いです。
(追記)
コメントで教えて頂いたosacaeconさんの経済成長というエントリーを拝見して、いくつか補足しておいた方がいいと思う点があったので、追記です。
最初に「先進国のパイが大きくなれば、途上国のパイも大きくなる」という仮定は、osakaeconさんが仰るように理論と実証の問題ですが、おそらく従来の開発経済学での経験からいうとかなり疑わしい仮定だろうと思います。
例えば、SachsのThe End of the Povertyでは、イギリス宗主国時代のインドが宗主国の経済成長政策の実現のためにインドの経済成長が抑圧された可能性を指摘しています。
保護貿易的政策の影響や取引費用の問題で先進国のパイ拡大の恩恵が途上国に行き渡るスピードが遅い場合も考えられるでしょうし、先にパイを大きくした国が、その大きさをテコに使って小さな国からパイを奪い取る可能性も考えられます。
(この辺りは、かつて途上国の中の問題として、パイの大きさに関心を向けておけば、配分には神経質にならないでいいという、トリックル・ダウン仮説について、私自身疑問を抱いて、エントリーを書き、コメント欄でも色々と議論させて頂いたことがあります。)
そういう意味では、「我々のパイを大きくすることは途上国のためにもなる」という議論は、「我々のパイ拡大にさえ関心を向けておけば、途上国への分配については心配する必要はない」という逆の形での無関心につながる危険性を持ってしまいます。
これは、このエントリーにおける私の本意とは全く正反対の方向性ですので、そういう誤解を与えてしまった可能性についてはお詫びすると共に、ここで訂正させて頂きます。
(以下は、ややテクニカルな話になるので、興味のない方は読み飛ばして頂いても結構だと思います)
その上で、osakaeconさんに質問させてもらったのは、では、「先進国のパイが拡大しない状況は途上国のパイ拡大の阻害要因となる」という仮定(いわば「負のトリックル・ダウン」)については、どう考えればいいのだろうということです。
現実としてのトリックル・ダウンが成立しているかどうかについては上記のような疑問が残るとしても、先進国側での輸入障壁の撤廃や取引費用の低下が進めば、トリックル・ダウンはより促進される(従って、先進国が途上国支援として考えなくてはいけないのは保護主義的政策の撤廃である)という前提を、私は暗黙のうちに受け容れていました。
ただ、osakaeconさんのエントリーを拝見して、「先進国の経済成長→途上国の経済成長」という因果の流れが疑わしいのであれば、「先進国の経済停滞→途上国の経済停滞」という流れも、それほど自明ではないのかも知れない・・・あるいは、正のトリックル・ダウンが成立しにくいのに、負のトリックル・ダウンは成立しやすい、というのであれば、その非対称性の要因についてはもう少し自覚的であるべきと気づかされました。
漠然とは、センが飢饉の発生メカニズムについて説明したのと同様に、正の影響は社会の既存権力層がそれを保持しようとするのでトリックル・ダウンを阻害する力が働き、逆に、負の影響(例えば、飢饉における食糧不足問題)は逆に社会の既存権力層はその負の影響を弱者層に押し付けようとするのでトリックル・ダウンが促進する力が働くという説明が可能なのかなとは思うのですが、きちんと詰めて考えたものではなく思いつきレベルの話です。
この点については、osakaeconさんが、わざわざこちらのブログの方にコメントを下さり、私の問題意識にお付き合いして頂けると仰ってくれています(本当にありがとうございます)ので、また、それを勉強させて頂きたいと思います。
というわけで、私がエントリー本文で書いたことの前提には、(まあ素人の火傷というか)やはりまだ眉に唾をつけるべきところが残っている(おそらく他にも)という部分を割り引きつつ、そういう考え方もあるかも知れないということでお読みいただければ幸いです。
(※)ヨーロッパの場合には、旧共産圏からの受け容れも含めてですが。
(※2)もちろん、それのみに要因を帰すことはできません。この辺りは、私自身、まだ色々と勉強中のところです。これまでの雑考については、大野健一「市場移行戦略」、大野健一『途上国ニッポンの歩み』の書評をご覧下さい。
(11/18 修正)
以下の部分については、ちょっとした皮肉のつもりで書いたのですが、通りすがりさんに相当な不快感を与えてしまったようです。本筋とは関係ない部分ですし、この部分で議論をするつもりはありませんので、以下は撤回します。
(※3)ちなみに、その無関心に対して、もっとも長く激しく戦ってきた人の一人こそ、弾さんが同一エントリーで文脈こそ違えWikiからその説を引用したアマルティア・センです。アマルティア・センが引用されたのと同じエントリーで、「パイは十分大きくした。あとはどう分けるか」だと言われているのを知ったら、センはどんな気分になるんでしょう?
マイクロ・ファイナンスと上限金利規制 [ 2006年10月27日 ]
ユヌス氏のノーベル平和賞受賞と上限金利規制のタイミングが重なったことで、この両者の関係をどう捉えるかについて興味を持たれる方が結構いらっしゃるようですので、今日は、マイクロ・ファイナンスと上限金利規制との関係についてのサーベイであるCGAP(マイクロ・ファイナンスに特化した研究機関)の研究員Bright Helms=Xavier Reille, Interest Rate Ceiling and Microfinance; The Stroy So Far (English PDF)というそのものズバリのペーパーの紹介です。
そもそもマイクロ・クレジットの金利は何故高いのか?
上限金利規制との関係に入るに先立って、筆者らは、最初に何故マイクロクレジットの金利が通常の貸出金利よりも高いのかということについて、必ずしも借り手の信用リスクが高いからではないと述べます。
マイクロクレジットのコストは高い。しかし、それは貧しい借り手層への貸出のリスクが本質的に高いからではない。寧ろ、よいマイクロクレジット・プログラムの貸倒率は通常の商業銀行よりも低い。マイクロクレジットのコストが高いのは、借り手との直接の接触を有する小規模な取引に要するコストの高さと、定型的な契約やコンピュータ化されたクレジット・スコアリングの代わりに個別化された契約を用いているからである。
このブログでも貸金業者が売っているものは何なのか?というエントリーで書いたことがありますが、信用リスクに応じた貸出金利は貸し手にとっては原料の仕入れと同じ意味しか持ちません。
貸出額が小規模で与信管理に手間がかかれば、信用リスクが一定でも貸出金利は高まります。また、元本額が小さければ、そうした手数料相当部分の割合は元本に対して大きくなりますから、金利という指標を使えば自ずから金利は高くなります。
ペーパーの筆者達は、こうした点を指摘して、どんなに効率化を進めたマイクロクレジットでも、その金利は従来型の金融に比べれば高利にならざるを得ないということを指摘します。
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モハマド・ユヌス氏にノーベル平和賞 [ 2006年10月13日 ]
ノーベル平和賞、ムハマド・ユヌス氏に 貧困解消に尽力(asahi.com)
ノルウェーのノーベル賞委員会は13日、06年のノーベル平和賞を、バングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創設者のムハマド・ユヌス氏 (66)に授与する、と発表した。農村の貧しい人々の自立を促そうと、「マイクロクレジット」と呼ばれる無担保少額融資の仕組みを考案し、貧困の脱却に貢 献した功績が評価された。
と、既にろじゃあさんにスクープされていましたが(笑)、個人的にはグラミンやマイクロ・ファイナンスには以前から興味を持ってきたので、今回の受賞でまた一段と関心が向くのではないかと期待しています。
というわけで、過去の関連エントリーの紹介です。
ところで、これまたろじゃあさんが示唆されていますが、グラミンやマイクロ・ファイナンスは、今の消費者金融問題に対する対応の方向性についても色々な示唆を与えます。
グラミンは政府によるセイフティ・ネットの乏しいバングラディッシュで、返済能力を欠いていると思われていた農村の女性を中心に高金利・少額の貸出を実行しました。
日本だと、これは一種の慈善事業のようなイメージで捉えられるかもしれませんが、少なくともグラミンに関しては、きちんと営利ベースで運営がなされています。
もちろん、資産を殆ど持たない貧困層への少額貸出は(理論的には)貸倒リスクも高く、また、信用管理コストもかかります。当然、こうしたコストを埋め合わせるために金利は高くなるわけです。
従来は逆選択やモラル・ハザードの問題から、こうした貧困層への貸出は成り立たなかったわけですが、グラミンでは、日本でいう連帯保証人にも似た連帯責任制度(グループ・レンディング)や、頻繁な取立て、一定額の貯金の義務付け(一種の拘束預金)などの手法を使うことで、こうした問題を軽減し、貧困層への貸出を実現しています。
一見すると、連帯責任類似制度や頻繁な取立て、一種の拘束預金制度etc...は、貧困層に「厳しい」制度であって、今の日本で同じことをやれば、瞬く間にマスコミや政治家によるネガティブ・キャンペーンの格好のネタになってしまいそうな話です。
もちろん、こうしたメカニズムには、貧困層に対して苛酷な面も持っていますが、他方で、そのインセンティブ構造は経済学的な面から見ても非常にうまく設計されたものとして評価されています。
何よりも、もし、こうした高金利や「厳しい」取立メカニズムを否定してしまったら、現に貧困であえぐ農村の貧困層は、バングラディッシュ全体が富裕になり社会の隅々まで十分な公的な生活扶助がなされるのを座して待つしかないということになっていたかも知れません。
何よりも、そうした貧困層が社会の発展に対して寄与し得る潜在的な能力が活用されないことは、国全体の発展に対しても遅れをもたらしてしまったかも知れません。
マイクロ・ファイナンスが国全体の発展にどれほど寄与できるかについては、今なお研究の途上にある重要な論点ですが、単に目先の厳しさを排除することだけが優しさではないということをユヌス氏は示しているような気がします・・・って、これまたろじゃあさんに既に言い尽くされていることになってしまいましたが、とりあえず今回の件でマイクロファイナンスや消費者金融における経済学的な考え方への理解が深まることを心から願います。
大野健一『途上国ニッポンの歩み』 [ 2006年09月15日 ]
以前、大野健一「市場移行戦略」を読んだ際に、次にこれを読んでみたいと言っていた『途上国ニッポンの歩み―江戸から平成までの経済発展』を読了しました。
元々大学院での留学生向けの講義だったものをまとめたものということで、高校で日本史選択だった人間には馴染みの深い話も含めて、江戸時代からの近代・現代日本史の流れが、開発・発展(development)という観点から整理されて提示されています。
といっても、単なる近現代史の解説書ではなく、著者は開発経済学の専門家として、江戸時代以降の日本の発展を、外部的な影響がその社会で内生的に育まれてきた内的展開と接合して発展していく「翻訳的適応」という視点から見つめ、そこから現在の途上国開発に向けたインプリケーションを引き出すことを試みています。
個人的には、非常に漠としたものですが、以前から、江戸時代あるいは室町に遡る商人層の発展というのが明治維新後の日本の急速な発展を支えたのではないかという印象を持っていたのですが、大野氏は江戸時代における①政治的統一と安定、②耕作面積と生産性の両面における農業の発達、③運輸交通システムの発展と全国統合市場の成立、④商業・金融の発展及びそれに伴う富裕な商人層の台頭、⑤手工業の発展、⑥地方政府による産業振興、⑦教育の普及という要素をとりあげ、これらが明治以降の発展の基礎をなしていたと評価しています(※)。
しかし、これを受け容れてしまったが故に、実は帯に書かれている「日本は、なぜ、どのようにして短期的な近代化に成功したのか」という問いに対する答えは遠のいてしまった感があることは否めません。
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大野健一「市場移行戦略」 [ 2006年05月22日 ]
今回の旅行中に読んだもう1冊は、大野健一「市場移行戦略―新経済体制の創造と日本の知的支援」(1996)です。

これは、以前梶ピエール先生に教えて頂いた本で、「開発援助の社会学」と並んで試験が終わったら真っ先に読もうと思っていた本の一つで、これまた大当たりでした。
L&Dの授業でDevelopmental Stateについて学んだときには、日本をはじめとした東アジア政府の能力を賛美する一方で、「こうした優れた政府は他の地域には存在しないので、東アジアのモデルを一般的に適用することはできない」と結論において切り捨てる議論に、何だかしっくりこないものを感じていました。
大野先生のこの本では、市場を持たない途上国が市場化経済に移行するにあたっては、東アジア諸国の政府が試みたような市場経済の「育成」が必要という基本認識の下に、日本モデルの利点と並んで、その限界と将来的な適用にあたっての前提条件、派生的な示唆が書かれます。
「日本モデル」の移植は決して簡単な話ではありませんが、さりとて、簡単に切り捨てられるべき性質のものでもないわけで、西欧のエコノミストによる「褒め殺し」ではなく、こうした地に足の着いた分析こそもっと求められるべき性質のものですし、こうした分析は今後の日本の経済が向かっていく方向を考えていく上でも非常に示唆に富むものです。
勿論、読んだ後で、いくつか疑問も湧き上がってくるわけです。例えば、日本モデルの中心として採りあげられているのは、やはり戦後の驚異的な復興ですが、個人的には、明治維新後太平洋戦争前の政府による経済政策や財閥のような強力な民間プレイヤーの形成こそが、日本の「市場化」の大きな原動力であった可能性があり、その時期の日本モデルの方が今の途上国が抱えている問題と親和性があるように思われます。更にいえば、明治維新以前から、日本では士農工商の身分制の上では最下位に措かれながらも民間プレイヤーはかなり大きなプレゼンスを持っていたわけで、その辺りの社会構造と市場化との親和性も存在していたのではないかという印象を持っています。そうした戦前における政府や、あるいは民間プレイヤーの側の前提条件について、もう少し掘り下げて欲しかったような気がする・・・と、思っていたら、大野先生は近著で「途上国ニッポンの歩み―江戸から平成までの経済発展」という本を書かれているようです。
まあ、私程度が思いつくことは、既に専門家は考えておられるということで、今度はこちらを読んでみたいと思います。
もう一つは、日本の政府は、どのような面で「賢く」、そして何故に賢かったのかという点にもやもやが残るという点です。
「結果」としてみれば、日本の政府は「うまく」立ち回ったことは事実としても、それは朝鮮戦争特需や東西対立構造といった外生的な追い風に乗ったというだけなのか、それとも、それ以上に特殊なノウハウを持っていたのか、もしそうしたノウハウがあったとすれば、それはどのようなものなのだったのかという辺りです。
これは、もう少し個別の産業政策のあり方に関わってくるのかも知れませんが、具体的に日本モデルを途上国の発展に適用していこうとする段階ではやはりもう少しつめて考えないといけない問題ではないかという気がします。
もっとも、これは民間プレイヤー側のガバナンスのあり方や競争法政策とも密接に関連してくるところでしょうから、人任せというのではなく、自分でも勉強すべきところなんでしょうが。
何れにせよ、西欧中心の開発の流れの中で日本人だからこそ見えることがあるという自信を持たせてくれる一冊です。
佐藤寛「開発援助の社会学」
今回の旅行では、日程がハードすぎて結局行き帰りの飛行機の中でしか本を読む時間がなく、2冊しか本を読めなかったんですが、そのうち1冊が佐藤寛「開発援助の社会学」です。
まず、一言でいうと、非常に素晴らしい教科書でした。
何が素晴らしいかというと・・・
まず、概念と基本的な枠組みを丁寧に辿りながら、開発の過程で生じる問題の位置付けを明らかにしながら分析を行っている点です。
余りにも思い入れが強かったり、知識量があったりすると、自分の関心のあるところにエネルギーを注ぎたいがために、前提となる知識や枠組みについて読者は知っているものと仮定して話を進めてしまいがちなのですが、この本では、社会学素人がすんなりと読めるように非常に丁寧かつ簡潔に概念の整理とフレームワークが提示されています。
そして、そうして提起された問題について、理論面と実際のプロジェクトでの経験の両面から分析検証を行っているところです。
これが社会学の王道なのかはよく分からないのですが、理論面では、援助側・被援助側双方のインセンティブに注目をしている辺りは、(ミクロ)経済学的なアプローチからも親近感を覚えるところです。更に、それに対する著者自身の豊富なフィールドワークに裏づけられた洞察は、理論と現実の架橋という観点からも非常に興味深いものでした。
一例をあげれば、森林資源の保護には単にドナーが資金を供与するだけではなく、地元の人間にいかに適切なインセンティブを付与するかが重要であるという話の後に、日本が援助したフィリピンにおける国有地の植林プロジェクトの具体例をあげます。このプロジェクトでは、植林事業に近隣の村の男たちを雇用することで、森林資源回復に対するインセンティブを与えることを企図していました。ところが、当初は極めて順調にいっていたプロジェクトが終盤に近づくと山火事が頻発し始めます。何故かといえば、プロジェクト終了によって職を失うことを畏れた地元住民たちが放火したのではないかというわけです。この話の他にもいくつかの具体例をあげながら、「適切なインセンティブ」を与えることが決して簡単な話ではないことを論じるわけです。
そして、何よりも私が好感を持ったのは、著者の学問的な誠実さです。現状のプロジェクトの問題点を単にあげつらうわけでもなく、かといって現状を正当化するわけでもなく、理論と実践から明らかになった問題点に誠実に向き合い、検討すべき課題を提示する・・・そして、Silver Bulletなど存在しないという当たり前ながら直視したくない現実に目を開かせてくれる・・・「教科書」とは本来こういうものであるべきなんでしょうね。
・・・というわけで、私は非常に興味深く読むことができましたし、この分野に興味のある方で未読の方には是非お薦めいたします
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Upham教授の"Law & Development"を振り返る (3) [ 2006年04月29日 ]
日本はGWに入り皆さんもゆっくりされているんではないかと思います・・・が、こちらではいよいよ試験期間スタートです。とりあえず、私は、Distribution関係に特化した反トラスト法科目のテストに備えて、ひたすら判例を読み込んで(MTで)データベース化しています。
ただ、ひたすら反トラスト法の判例を読んでいるとさすがに飽きてくるんで、ここらで気分を変えて「法と開発」の回想にひたりましょう。
前回までの記事は、Upham教授の"Law & Development"を振り返る (1)、Upham教授の"Law & Development"を振り返る (2)ということで。
Strutural Adjustmetn and the IMF/ World Bank
世銀とIMFが'governance'は'politics'とは違うというパラダイムの下にStructural Adjustmentを途上国に条件付けることが、実際には発展への道筋について一定の政治的選択を伴っていることを、「国家」の役割を6つの面から分析したBiersteker(1990)を使って見た上で、実際にはStructural Adjustmentが途上国の貧困層に苛酷な結果をもたらしているというSAPRIN[2002]で確認しました・・・ただ、何ででしょう、単に私がぼーっとしていたせいかも知れませんが、何だか余り印象は強くありませんでした。
Corruption
開発の場面で「問題」とされることの多いCorruption(不正とでも訳せばいいんでしょうか)ですが、経済理論的にはその功罪は必ずしも自明ではありません。
また、法的にみても「贈賄」が金銭を使って自己に有利な政策の実現を試みるものだとすれば、「合法的な」政治献金との区別は相対的なものでしかありません。
ここでも、Corruptionは、外形的に「ルール」をもって判別できることを前提に政策を組み立てようとするエコノミストからの視点と法律家の視点の対立が描かれます。
ただ、ここで印象的だったのが、Upham教授のKaufmanに対する苛立ちです。Corruptionが統計的な数値に出ないときには無視して、開発にはgovernanceが重要だと主張していたKaufmanが、corruptionについて定量的なデータを入手した途端、それが重要だと主張する・・・
「彼らにとっては、定量化されなければ目に見えないのと同じなんだよ」・・・異例の時間の割き方でKaufmanの二つの論文を比較させたのは、そうしたスマートなエコノミストたちの変節ぶりを学生自ら感じ取って欲しいという願いだったようですが、残念ながら、私を含め、Upham教授のこの苛立ちを共有するには、まだまだ苦い経験が不足していたのかも知れません。
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Upham教授の"Law & Development"を振り返る (2) [ 2006年04月27日 ]
前回に引き続きFrank Upham教授のLaw&Developmentの授業を振り返っていきます。
Legal Theories of Development
「開発」と「法」の関わりを見ていく上で、最初に読んだのはScott, SEEING LIKE A STATEです。
Scottは、国家による統治の根源にはlegibility(可視性?)の向上があると喝破します。税金の徴収を容易にするために、土地台帳や地図をつくり、そのために度量衡を統一していく・・・Scottは、こうした営みによって近代的な経済社会が発展してきた一方で、可視性を高めるために目的とは関係ない情報はあたかも存在しないもののように取り扱われ、規格の統一化にとって邪魔な地域的特殊性は捨象されていく・・・「法」は、まさに国によるそうした単調的な社会の再構成の手段として描かれるわけです。
例えば、所有者に使用収益・処分の自由性を与える近代的な「所有権」は、徴税の便宜や市場の促進のために採用されたものですが、これは実際に人々の間で採用されていた土地の利用制度の実態からは大きくかけ離れたものでした。こうした手段は地域社会で実際に発展していた様々なシステムを破壊したり、あるいは、破壊されずに残った慣習と公の「法」との間の葛藤を生み出すことになります。
近代ヨーロッパでも長い時間を必要としたこうした統治者にとっての可視性を高めるための規格化が、現代の開発の場面で有効に機能し得るかについてScottは疑問を呈します。
しかし、実際には世界銀行は、「"rule of law"が発展を基礎付ける」という考えの下に、それを"governance"と名付けて、途上国への援助・貸付けにあたって、それを条件付け、あるいは、"governance"こそが発展の鍵であるという「実証」データを積み上げていきます。
そうしてエコノミストたちが「法の支配」の重要性を強調していく一方で、当の法律家たちは、「開発」と「法」、あるいは、「法の支配」の開発における重要性について悲観的な見方を強めていきます。実際に「法」を扱う法律家たちの目からは「法の支配」は、単に西洋的なシステムを具現化した「ルール」を定めることや、それを守らせることのみにあるのではありません。
近代的な所有権制度や契約法を「ルール」化すれば、途上国はうまく発展するという希望は早い段階で打ち砕かれ、法律家はあるべき「法」と「開発」の関わりについて答えを見出せずにもがき苦しむ・・・
「法」を知る法律家が「開発」における「法」の役割について答えを見出せないその脇で「開発」に携わるエコノミストたちが「法の支配」を布教して回っている・・・この今の「開発」をめぐる現状のアンバランスさこそ、Upham教授が強調したかったことではないかと思います。
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格差社会とベル・カーブ [ 2006年04月26日 ]
(4/27 追記あり)
数日前にThe Becker-Posener BlogでBecker(と一応Posner)が、所得格差の拡大は全然悪いことじゃない!・・・と、言い切ったときには、さすが筋金入りのシカゴは違う、と感心、というか受けていたわけです。
Beckerの主張のエッセンスは、要は現在の所得格差の拡大は、学歴による格差、特に大学卒業者とそうでない層との所得格差の拡大にあり、それ自体は教育という人的資源への投資が高いリターンを生み出しているということであり、それによってアメリカ経済は全体として成長しているのだから問題はないんだというものです。
これ自体はデータとその解釈の問題というところもあるので、まあ前提となるデータが正しいのであれば、という留保付で一つの見方だし、いかにもBeckerらしいということでにやにやしていたんですが、最後のまとめ的なところで、何かしっくりこないものを感じていました。
Why have not more high school graduates gone on for college education when the benefits are so apparent? And why did the fraction of American youth who drop out of high school, especially African American and Hispanic males, remain quite constant at about 25 per cent of all high school students?
The answer to both questions lies partly in the breakdown of the American family, and the resulting low skill levels acquired by children in broken families. Cognitive skills tend to get developed at very early ages, while my colleague, James Heckman, has shown that non-cognitive skills, such as study habits, getting to appointments on time, and attitudes toward work, get fixed at later, although still relatively young, ages. High school dropouts certainly appear to be seriously deficient in the non-cognitive skills that would enable them to take advantage of the higher rates of return to greater investments in education and other human capital.
So instead of lamenting the increased earnings gap by education, attention should focus on how to raise the fraction of American youth who complete high school, and then go on for a college education. These pose tough challenges since the solutions are not cheap or easy. But it would be a disaster if the focus were on the earnings inequality itself. For that would lead to attempts to raise taxes and other penalties on higher earnings due to greater skills, which could greatly reduce the productivity of the world's leading economy by discouraging investments in human capital.
要はBeckerは所得の再分配なんて考えるのであれば、大学進学率を上げた方がいいと言っているわけです。
こうなると、開発の場面でもしばしば出てくる、卵が先か鶏が先かみたいな議論で、家庭が貧しいからその過程における教育の優先づけが低くなるー教育を行うことが将来的には有利でも、家庭の予算制約のために子供に高等教育を受けさせることが困難という事態が生じる(ちなみに、これは消費者金融でも問題となった時点選好の制約の問題で、この場合に貸付けを受けられれば、将来のより大きな収益をとることができることになるわけです。余談ですけど)・・・という話になってくるので、前段のBeckerの分析が仮に正しくても、後段の政策的インプリケーションの導出は、ちょっと短絡的と言わざるを得ないように思います。
・・・と、それだけなら、それはそれで、まあいいわけですが、途中のHeckmanの研究やらを引っ張り出して、認知的スキルは小さい頃じゃないとだめだとかいう辺りは、結局何を言いたかったんだろうというのが、もやもやしていたんですが、マンキュー先生のブログの今日の記事(On Just Deserts)で同じ類のもやもやが。
Behavioral geneticists tell us that a large fraction of the variation in life’s outcomes (50 percent or more) can be explained by the genes you have when you are born. Suppose that one day we could identify the high-IQ gene, the attractive symmetrical face gene, the tall gene, and so on. Optimal tax theory says that we should levy special taxes on the lucky people with those genes. After all, you don’t deserve the fruits of those genes.
適正な課税形態の話に絡めた話ですが、ここにある生まれつきのIQが社会における成功を規定するという辺りの発想というのは、意外なほど根強くアメリカのトップエコノミストに受け容れられているんじゃないかという気がしたわけです。(ちなみに、マンキュー先生自身は、その直後で本当にどうかは分からないけどとお茶を濁していますが、積極的に否定しているわけでもありません)
まあ、私も積極的にどうのこうのという程でもないんですが、法律家として、この手の話にはもやもや感が残るということで、とりあえずは、このもやもや感を忘れないようにということで。
(ちなみに、マンキュー先生のブログと言えばMicro versus Macroも面白かったですね。最近すっかりお気に入りです)
(4/27 追記)
今日のマンキュー先生のブログでも、所得の高低は遺伝的要素が大きいという話がされています。
Sacerdote suggests that income is like height. Having a tall father means you are likely to be tall, but it is because he has given you the tall gene, not because he has created an environment that fosters height. The same appears to be true for income. Sacerdote's Table 3 shows that although there is a positive correlation between the incomes of parents and their biological children, the positive correlation disappears when we examine the incomes of parents and their randomly-assigned adopted children.
貧乏お父さんの子供が金持ちお父さんにもらわれていっても、金持ちにはなれないというのは面白い話ですが、私の関心からいうと、金持ちお父さんの子供が貧乏お父さんの養子となった場合にどうなるのか、貧乏に遺伝的な要素はどの程度占めるのかという話の方が興味があります。
また、この研究結果を受け容れた場合の政策的な対応に関するマンキュー先生のお考えもうかがいたいところです。以上、とりあえずメモの延長ということで。
開発におけるPrivate Normsの可能性と限界 (3)
前回までのエントリー
製品市場による規律の限界と制度設計へのインプリケーション
とりあえず私が文献を渉猟した範囲なんですが、製品市場による規律メカニズムについては、後述の認証制度における集合行為問題の解消を除いては経済学的なモデルを使って分析したものは見かけませんでした(もしご存じの方がいらっしゃいましたら、教えていただけると大変に助かります)。
余りにも自明だからということかも知れませんが、念のために確認しておきましょう。
基本的な発想は、例えば「途上国での生産活動において労働条件に関する一定の規範を守る」ということが、一種のブランドと同じ効果を持っており、「規範を守る」ということによって、より高い価格で製品を販売できるというものです。本格的にモデルをつくろうとすると、元々の製品の市場へのフィードバックも考慮しないといけないのですが、ひとまず、「規範を守る」ということによるメリットは、本体の製品自体の価値に比べれば十分に小さく、短期的には本体製品の競争条件(各生産者による製品自体の生産量)には影響を与えないということにしましょう。更に、単純化のために、「規範を守ること」を本体とは異なる独立した財Xとして扱い、本来の製品の生産者が十分に低い投資で市場に参入退出できる状況を仮定します。
ここで、製品1単位辺りのXの価格(p)は供給量(y)と消費者のXへの選好の強さ(u)に依存するものとします。
Xの生産、つまり規範を遵守することによる限界費用を一定(C)とすると、ある企業が規範を守るかどうかは、pとCの大小関係に依存し、p>Cであれば、企業は自発的に規範を遵守することになります。
ある意味当たり前のことですが、①製品市場における規律が有効かどうかは、規律を守ることに対する消費者の評価の高さとそのためのコストの大小によって定まり、②価格は供給量に対する減少関数で与えられるので、多くの企業がこの規範に従うにつれその価値は下がり、一般にはp*=C*となる生産量y*で釣り合うことになります。
(②については解釈が難しく、規範に従うかどうかは、本体の製品自体の競争条件に全く影響を与えないとすれば、全ての製造者が規範に従うとは限らないことを意味します。この場合に、各企業が純粋戦略だけしかとれないとすると、誰も規範に従わないという選択肢が均衡として成立する可能性もあるわけですが・・・実際には、何らかのフィードバックがあると考えられることと、混合戦略的な対応(工場の一部についてのみ規範を遵守するとか?)もあり得ることからすれば、今回はこれ以上詰めて検討するのはやめておきます)
これだけなら何ということのほどもありませんが、少しモデルを拡張して、製品市場が分断されている状況を考えてみます。典型的には、アパレルメーカーが中国の工場で製品したスニーカーが、日本やアメリカなど複数の地域に出荷されている状態です。このとき、コストは出荷先によらず一定(C)ですが、選好の強さが市場によって異なるとすると・・・長期的にみて、本体製品の生産条件にも影響を及ぼすとすれば、(規範に従わない、市場による選好の弱い市場への出荷を増やす)(規範に従う、市場による選好の強い市場への出荷を増やす)という分化が進む可能性があります。この場合、途上国における規範遵守による効果は、選好の弱い市場の存在によって希釈化されることになります。実際には、規範の内容によっては、例えば労働基準の場合、途上国内部での賃金相場の上昇という形で明示に規範を採用しなかった企業に対するスピル・オーバー効果が生じる可能性もあるので、必ずしも希釈化がそのまま起きるわけではありませんが、単独市場による規律付けは必ずしも十分な効果を持ち得ない可能性があるという点は心に留めてもいいように思われます。
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Upham教授の"Law & Development"を振り返る (1) [ 2006年04月24日 ]
春学期のロースクールの授業も明日で終わりです。
ついこの間ロースクールが始まったような気がしているのに、光陰矢の如し・・・学成り難しとはまさにこのことなんですが、今日はFrank Upham教授のLaw & Developmentの授業の最終回でした。
春学期にとって授業の中でヒットをあげろと言われれば、Behavioral Law&Economicsと並んで、この授業をあげます。
今まで興味を持っていたけど漠然としたイメージしか持っていなかった分野について、何となくこれから勉強していく手がかりを得たということと、これまで自分が学んできた企業法の位置付けの上でも非常に示唆深い授業でした。
この授業の試験は、Take Homeと呼ばれる持ち帰り試験で、授業で読んだうちから3本以内の論文をピックアップして(あるいはWhite man's burdenかThe end of the povertyの何れか)、それに対する批判的な分析を3000単語以内で行うというものです。
他の科目の試験準備と並行しながら準備しなくてはいけないのですが、まずは3本の論文をピックアップしなくてはいけません。(White man's burdenかThe end of the povertyという手もあるんですが、これから丸々1冊読んで、批判の筋道がうまくつかないリスクを考えると避けておいた方が賢明というところで)
その準備作業ということで、ごく簡単にこの授業のアウトラインを振り返ってみることに(以下はノートと記憶を頼りにしているので、不正確なところもあるかも知れません。もし間違い等あったらご指摘頂けると幸いです。
ところで、ブログというのが価値があると思うのは、一人でうじうじと考えているよりも、こうして(本当に読んでくれている人がいるかどうかは別として^^;) 読者を意識して考えをまとめている方が、自分が考えていることが見えてくるところですね。
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開発におけるPrivate Normsの可能性と限界 (2) [ 2006年04月23日 ]
そもそもPrivate Normsとは?
まず、Private Normsということを議論する上では、定義と議論の射程を明らかにしておく必要があるでしょう。
消去法的に定義すると、まず、国際慣習法も含めて国家によって制定され履行が確保される「法」は除きます。(もっとも、制定あるいは履行の何れかに関して国家が関与することは考えられます)
次に、ここでいうNorms(規範)は、その規範の名宛人となっているプレイヤーの行動を「規制」する効果を持つものであり、いわゆる"Obligational Norms"を対象にします。また、規範の名宛人としては、途上国に直接投資を行う多国籍企業(Transnational Corporation(TCN))、あるいは、途上国へのファイナンスを行う国際的金融機関(Transnational Financial Institutions(TFI))を念頭に置くこととします。
最後に、この規範が義務的(Obligational)であるメカニズムとして、内部化された義務感(internalized duty)は検討の対象外とします。
このペーパーで分析したいのは、ある一定の政策目的の達成との関係においてPrivate Normsの意義を考えることです。もちろん、「環境に配慮すべき」というスローガンを長期にわたって訴え続けることによって、環境に対する意識が内部化されるといった過程も考えられますが、こうした心理的な義務感の内部化の過程は極めて複雑で予測やコントロールも困難です。
従って、可能性として、民衆レベルでの反対運動やNGO、マスメディアの働きかけが、ある種の義務感を内部化する可能性は否定はしませんが、このペーパーでの分析対象からは意図的に外します。
従って、このペーパーで検討されるPrivate Normsとは、「法」以外のものであって、何らかの外部的なサンクションの畏れによって、TCNあるいはTFIによる途上国への投資活動行動に一定の規律効果を有するものということになります。
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開発におけるPrivate Normsの可能性と限界 (1)
上限金利厳格化問題については、消費者金融において見られるBehavioral Biasとその法的規制へのインプリケーションと、上限金利規制よりも弊害の少ない政策対応手段の可能性についても書きたいんですが、そんなことをやっていると卒業が危うくなるんで、とりあえず学生の本分に戻ってペーパーの執筆とテスト準備に復帰します。
で、ペーパーなんですが、また、こうやってブログに書きながら、構成をまとめてみることにします。
今回ペーパーを書かなくてはいけないのは、Kevin Davis教授のFinancing Developmentというゼミです。発展途上国の開発金融の現状と課題について資料を読み、議論をして、実務家の前でグループ・プレゼンテーションをした上で議論するというゼミでした。教授の問題意識や議論の組み立てにたまに?がつくことがあったりはしましたが、全体的に見れば、今まで知らなかった開発金融について色々と勉強することができたので、非常によかったと思います。
ただ、何せ土地勘のない分野なのでペーパーのアイディアには一苦労。Microfinance関係で何か書こうかなとも思ったんですが、それこそMicrofinanceに上限金利規制は必要かとか回収手法に規制を設けるべきかみたいな議論をしても、途上国におけるライフラインとしてのMicrofinanceの重要性にまで踏み込まないと説得力がないんでボツ。
結局、これまでの知識と連続性を保ちながら扱えるテーマということで着目したのが、Equator Principlesです。
Equator Principlesというのは、途上国へのプロジェクト・ファイナンスによる融資におけるIFC(International Financial Corporation)の定める環境に関するセーフガードの遵守等を国際的な主要金融機関の協調によって達成しようとする枠組みです。
途上国に対する開発国からの投資の場面では環境や労働に関する問題がいろいろとあるわけですが、これを公的な枠組みで規制することについては、そもそも国家的なコンセンサスが難しいことや、たとえ一定の合意ができたとしてもそれをエンフォースすることが難しいことなどから、なかなか進展しません。そこで、最近は民間主体によるイニシアティブが重視されている・・・ゼミで紹介されたときには、こうした説明と共に一つの疑問が提示されました。
それは、こうした民間主体のイニシアティブによる国際的な規範の実効性はどう確保されるのか?という点です。
これが国際的にも有数の主要金融機関同士の合意であることから、このEquator Principleが大規模なプロジェクト・ファイナンスにあたっての取引費用を削減する効果を持っている限りにおいては、参加金融機関は相互に監視のインセンティブを持っており、また、違反した金融機関に対してはその後のシンジケートへの参加を拒否するなどの制裁手段も有していることから、一種のカルテルと同様の実効性を持ち得るのではないか-ゼミの場では、そう思いついて発言をしたのですが、それが結構印象に残っていました。
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法と社会と開発と「契約の再生」 [ 2006年04月11日 ]
既に各所でとりあげられている内田貴東京大学教授(民法)の「法科大学院は何をもたらすのか または 法的知識の分布モデルについて」、遅ればせながら雑感を。
思い出話から入ると、私は、身の程知らずなことに一時期東大の大学院の研究者養成コースなんぞにいたんですが、大学院生時代に内田先生の契約法のゼミで勉強させて頂いたりしました。
正確なゼミのタイトルは忘れたのですが、伊藤元重先生の「挑戦する流通」や「日本の物価はなぜ高いのか―価格と流通の経済学」を読んだりしながら、価格破壊の裏側を支えるプライベート・ブランドや物流システム、あるいはコンビニエンス・ストアをはじめとしたフランチャイズ・システムの経済実態を調べながら、そこで成立している規範の内容と成立過程、効力を分析するという、今にして考えても、かなり野心的な素晴らしいゼミでした。
当時は、ぐーぐる様もいなかったので、コンビニのビジネス・モデル一つ調べるのにも大変苦労して、本郷の公衆電話から主要チェーンの広報に電話をしてインタビューを試みたりしたことが懐かしく思い出されます(笑)。
なんで法学部の民法ゼミで、そんなことを?、と思うかも知れませんが、その背景にあったのが、内田先生の名著「契約の再生」でした。アメリカの学者Gilmoreの「契約の死」(The Death of Contract)を受けて書かれたこの本は、アメリカにおいて「意思」に基づく古典的な「契約観」が死に絶えていく過程と、その一方で新たな契約理論-とりわけ社会関係に基礎を置いた「関係的契約論」が生まれる過程を描き、この関係的契約理論が日本民法における継続的契約関係の処理や「信義則」の活用といった現象を能く説明し得るという示唆を与えるものでした。
「法」が社会を律するのではなく、「法」の前に「社会関係」が存在し、その「社会関係」が具体的な「法の解釈・適用」を規定するというアプローチの延長として、現在進行形で生まれている新しい社会的実態である流通革命やフランチャイズ・システムを分析し、そこで育まれている規範を探し出すというのは、「契約の再生」からいえば、ごく自然な流れなのですが、どちらかというと「法」それ自体の形成過程を裁判例や学説から見ていく伝統的な法学アプローチからすると随分異例でした。
・・・と、こんな昔話をしたのは、単なる思い出というだけではなく、内田先生のよって立つこういう「法」と「社会」のかかわり方が、冒頭に紹介した記事で書かれている「法的知識の分布モデル」の話につながってくるような気がするからです。
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「自主規制」強化と競争法 (1) [ 2006年04月09日 ]
昨日に引き続いて業界団体(事業者団体)の活動と競争法の関係するお話です。
上場企業監査、登録制に 会計士協会が自主規制強化 (asahi.com)
日本公認会計士協会(藤沼亜起会長)は6日、上場企業を監査する監査法人や公認会計士の個人事務所に、07年度から登録制を導入すると発表した。一 定の水準に満たない事務所は登録リストから除名し、上場企業の監査を続けることが事実上難しくなる。・・・
・・・監査法人の評価などを担当する同協会の品質管理委員会に新組織を設け、上場企業の監査を手がける全事務所に登録を求める。登録事務所には、品質管理体制について文書で提出させ、要求水準に達しているかをチェックする。
申告した水準の業務を実行できなかった事務所には協会が改善を勧告するが、不十分な場合は除名を含めた処分を出す。
監査法人や会計士は法律上、上場企業の監査を手がけることに特別な制限はない。しかし、協会の登録から除名されると評価が低下し、投資家の信頼を重視する上場企業の監査からは、事実上排除されるとみられる。
さて、「上場企業の監査水準の向上」は、少なくともそれ自体は社会的にも望ましくみえる目的ですし、現に与謝野金融相も「自分たちの力と判断で運営し、不祥事を少なくしていこうという努力は高く評価したい」「(登録制の)運営を暖かく見守っていかなければならない」と評価しているようです(NIKKEI NETの記事より)
こういう善意に満ちた創意工夫をしようとしているときに水を差すようなことを言うので弁護士は嫌われるんですが、動機としての善意は結果としての善を何ら保証するものではありませんし、ある行動の持つ負の側面を見つめることが社会的にみてより望ましい結果をもたらし得ると信じて、この取組において生じ得る競争法上の問題に触れてみたいと思います。
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サックスとアンジェリーナ・ジョリーの重荷 (3・完) [ 2006年03月24日 ]
講演の後は、質疑応答の時間がとられました。
正直、余り真面目に聞いていなかったので手控えもとっていなかたのですが、一つ興味深かった質問がありました。
歪んだ”FIA"
Easterlyは、Plannnerには"FIA"-Feedback, Incentive, Accountabilityがないと嘆いたわけですが、質問者は、問題はFIAの欠如ではなく、むしろ援助国と被援助国の意思決定者、つまり政府には歪んだFIAがあるからではないかと指摘します(以下はメモに基づくものではなく、記憶に基づくもので適宜私の解釈で補足しているものである点でご注意下さい)。
-例えばアメリカにとって資金援助は被援助国の貧困のためになされているのではなく、アメリカ自身の、あるいはアメリカ国民にとっての利益を達成するための手段として用いられている・・・例えば、1980年代までは対共産圏対策として反共政策をとる政府を支えるために援助がなされていたし、その後も資源国における米国企業の利権確保のための補助金として用いられたり、米国からの輸入物品購入と紐付きで援助がなされたりもした。
これはアメリカ政府は、被援助国の国民に対してではなく、アメリカ国民に対して責任を負っているからであって、その責任を果たすために途上国の発展を犠牲にしてもアメリカ企業の輸出拡大や利権へのアクセスを拡大する方策がとられることになる。
その意味では資金援助は被援助国の経済発展には役立っていないが、アメリカ企業、あるいはアメリカ国民の利益としては還元されているのではないか?
また、こうした援助国側の事情に鑑みれば、被援助国の支配者は、援助額の一部をスイス銀行の隠し口座に預け、あとはアメリカ企業の利益のために用いることが適切な戦略となる。アメリカにとってみても、自らの意向に従う限りは、完全な民主的政権よりも、こうした独裁的政権の方が望ましいことになる。
援助国も、ひいては被援助国も、援助資金の使途についてフィードバックを得て、それが「適切に」用いられることを監視する強いインセンティブを持っているし、「適切に」用いられなかった場合にはその責任をとらなくてはいけない。その意味で、そこには”FIA”は存在している。ただ、問題は、その”FIA"は途上国の発展という目的に向けられたものではなく、アメリカ-援助国の有権者に向けられている点が問題なのではないか?-
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