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「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (3)

Easterlyの拠って立つところの「開発」=「一人当たりGDP(GNP)の発展」というアイディアを前回紹介しました。
疑問が残らないわけではないのですが、まずはEasterlyの設定した「開発」概念をベースに、その方法論としての彼の立場を考えてきましょう。

ファイナンシング・ギャップ・モデル

Easterlyは、従来の開発援助において用いられてきた基礎的なモデルであるファイナンシング・ギャップ・モデル(あるいは考案者の名をとってHarrod=Domar Modelとも呼ばれる)を批判します。

ファイナンシング・ギャップ・モデルの直観的意味合いは極めてシンプルです。つまり、国民総生産は(a)現在の「消費」と(b)将来の生産能力増加のための「投資」に分けられる(Y=C+I)が、発展途上国では元々の所得水準が低いために所得の多くが現在の消費に用いられてしまい、十分な投資を行うことができない。こうした目標とする経済成長率にとって必要な水準の投資と実際の投資額(但し、モデルにおいては、貯蓄と投資が一致することを前提に貯蓄率が用いられる)とのギャップ(ファイナンシング・ギャップ)を埋めることが、開発援助の意義であるというものです。

例えば、ある国において生産量を1単位増やすのに必要な資本への投資額が3であることが知られているとします(これをcapital-output ratioといいます)。この場合に、目標とするGDP成長率が8%とすれば、必要な対GDP投資率は24%(8%×3)となります。このとき、この国の対GDP貯蓄率が10%だとすれば、対GDP比で14%の投資が不足している(フィナンシング・ギャップがある)ということになります。
そこで、この対GDP14%に相当する額の援助をすれば、目標成長率が達成できる・・・ファイナンシング・ギャップ・モデルのエッセンスは、このような極めてシンプルなものです。

・・・素人からみても、「えっ、そんなにシンプルなんですか?」とクビを傾げたくなるわけですが、Easterlyは、このファイナンシング・ギャップ・モデルに対して、次のような批判を加えます。

資本投資額と経済成長の相関関係?

まず、Easterlyは、ファイナンシング・ギャップ・モデルの根本的な前提である資本への投資額と経済成長率が一定比率の正の相関関係を有するという仮定を攻撃します。

ファイナンシング・ギャップ・モデルは、設備投資に対して資本が投入されれば、一定比率で生産量が増えると仮定していますが、通常は、生産設備への投資を増やしていった場合、限界生産量(一単位の生産要素を投入したときに増加する生産量)は当初は増加しますが(規模の経済性)、以降は少しずつ低下していくことが知られています(限界生産量逓減則)。ファイナンシング・ギャップ・モデルでは、その限界を克服するために、発展途上国においては余剰労働力が豊富にあり、企業の生産能力の制約条件は生産設備の不足(資本投資)だけであると仮定します。

しかし、発展途上国においては、余剰労働力が豊富にあると仮定するよりは、その生産要素の初期配分のあり方(労働力と設備の割合)に応じた生産技術が既に用いられていると仮定する方が自然です。そうだとすると、生産性の制約条件が資本的要素だけであって余剰労働力は遍在しているという仮定は現実的ではない・・・これがEasterlyの批判の一つめの理由です。


インセンティブの歪み

もう一つの批判は、発展途上国側におけるインセンティブの歪みの問題です。

援助国(機関)側の開発援助額決定がファイナンシング・ギャップ・モデルに従って決定される、そして、ファイナンシング・ギャップが存在する限り援助はなされるということを、発展途上国が知っていた場合、発展途上国にとって最も望ましい戦略的対応は何でしょう?

Easterlyは、こう指摘します。

発展途上国側にとっては、常にファイナンシング・ギャップを最大化するような戦略をとることが最も自己の利得を最大化することになる。具体的には、消費を増加させ、貯蓄を抑制する政策です。意図的にこのような戦略をとることにより、途上国は常に援助を受け取ることが可能になるからだ。

(もっとも、これだけでは論理は完結していません。仮に貯蓄率を高めることにより、実際に高い経済成長が期待できるのであれば、必ずしもEasterlyの予測したとおりには反応しないかもしれません。ただ、上に述べたようにファイナンシャル・ギャップ・モデルが、モデルの性格上、投資額に対する期待成長率を常に過大に評価する傾向があり、そのこと(つまり真面目に援助額を投資に用いても目標とする成長率は達成できないこと)を発展途上国が知っているとすれば、やはりEasterlyの予測のとおり反応するということなのでしょう・・・厳密にモデル検証をしたわけではありませんが)

新たなモデルはいずこ?

さて、上に述べた2つの面でのEasterlyの批判は私には的確なように思えます。
Easterlyは、これをもって、ファイナンシング・ギャップ・モデルの廃棄を説くわけですが・・・

ただ、あるモデルを廃棄したとしても、それに代わる新たな経済成長の枠組みを提供できるか・・・というところですが、疲れてきたのでひとまず今日はこのあたりで。

Posted by 47th : | 23:03 | Law & Development

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コメント

経済学者でもなんでもないのでコメント能力はないんですが、一人あたりのGNP増大が目標であることはOKとして、労働力が供給過剰であるという仮定部分に対する批判はよく理解できる部分があります。モデル論はわかりませんが、現実をみていると労働力が供給過剰で、投資機会があれば外国資本が常に投資機会を狙っているはずで、ギャップは政府が投資障壁を除外すれば埋まるという話になります。が、話はそんなに単純じゃないから研究対象になっているのでしょう。教育も含め「労働力」を」どう供給するのかという課題と、「労働力」不足問題が解決されない限りなかなか消費に金がまわらないという問題をあまりシンプルに考えすぎるのは問題だなあと思います。

Posted by neon98 : 2006年01月30日 00:40

>neon98さん
どうも。仰るところは、労働力余剰の仮定を外した経済モデルでも生じ得る(というよりも、むしろ生産量逓減法則があるからこそ生じる)Convergenceと言われる議論に通ずるものがあって、モデルを推し進めれば究極的には全ての国が同じ投資水準にならないとおかしい、という一見して明らかに現実と異なる結果がもたらされています。
ただ、この分野が難しいのは、例えば「人的資本」が大事だとしても、それをどういう具合に蓄積するのかについては未だはっきりとしないところです。例えば、初等教育の就学率と経済成長には相関関係はないが、中等教育のそれとは相関関係があるが、理論的には初等教育の方が本来大きな効果を持たなくてはおかしいとかいった類の「パラドックス」があちらこちらに存在する、と・・・その分学問的には非常にエキサイティングなんですが、かかっているステイクが日々死んでいく子供たちという話で悠長なことも言っていられないわけで・・・悩ましいところです。

Posted by 47th : 2006年01月30日 11:53

 
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