システマティックかどうかーそれが問題だ
まず、経済学が予想する意味での完全な合理性を持った人間が現実に存在すると考えている人は、経済学者の方でも余りいないんではないかと思います。
ただ、経済学の有用性、とりわけ制度設計における有効性は、個々の人間の行動が完全合理性から逸脱しているということのみによっては損なわれません。
例えば、「価格があがれば需要が減少する」という右下がりの需要曲線についてですら、個々人をとれば、その当てはまり方はばらばらなのが普通です。ただし、そうした個々人の嗜好のばらつきが本当にランダムであれば、需要曲線の形の推定は可能です。そして、その推定にバイアスがなければ、政策設計にあたって有効に機能します。
例えば、ある商品に物品税を課すことがトータルのアウトプットにどのような影響を及ぼすかといったことを予測しながら、物品税の税率や要件を設計することが可能になるわけです。。
問題は、そうした行動のばらつきが全くのランダムではなく、一定の傾向を持っている場合にです。
例えば、新刊に対する人々の需要のばらつきのあり方が直線的ではなく断続的であったり、同じ価格でありながら「定価通り」と表示された場合と「定価の30%引き」と表示された場合で需要が変わったりするような場合は、単純な需要曲線の推定やそれを用いた政策設計はうまくいきません。
こうした、「一定の傾向」をシスティマティックな非合理性と呼ぶとすれば、こうしたシステマティックな非合理性は経済学的分析の枠組みにおいて、当然に考慮されるべきです。
経済学の学派の中には、こうしたシステマティックな非合理性をも排除して、エレガントでシンプルなモデルに固執する人たちもいることは否定しません。(こういう傾向の人々をさして「シカゴ学派」という呼び方をすることもあるようです。便利なカテゴリー分けなのですが、シカゴの経済学者が皆が皆ポズナーなわけではないので(笑)、ちょっとかわいそうな呼び方という気もします)
私が「ローエコ」という場合、こうしたシステマティックな非合理性の存在やそれへの対処は当然に考慮すべきであるという考え方に立っています。その意味では、私の立場は古典的なローエコとは少し違うのかも知れません。
非合理な人間の集まりの合理的行動
次に、「システマティックな非合理性」を考慮に入れるとしても、個々の人間の非合理性と違って「システマティックな非合理性」を見つけ出すことは意外と難しいものです。また、実験室では見られる人間行動 の「システマティックな非合理性」が、現実の社会では見られないこともしばしばあります。
個体としては「完全合理性」をもった人間は実際には存在しないはずなのに、集団としてみると、あたかも人間が「完全合理性」を備えているかのように行動する・・・このシステム自体、非常に神秘的ですが、私は詳しくはないんですが、動物の行動も、種としてみれば、その行動原理が「合理性」で説明できることが多いという話も聞きます。
もしそれが本当だとした場合に、「動物が完全合理性やそれに近い知性を持っているはずがないから、種としての行動を合理性で説明することはできない」という主張がなされたとしたら、それは説得的でしょうか?
さすがに、多くの方は「それはちょっと論理がとんでいるんじゃないの?」というんじゃないかと思うんですが、これが経済学の分析になると、途端にそうでもなくなるのは、ちょっと不思議な現象という気もします(これ自体、実は「人間」の本質については「人間」である「自分自身」がよくわかっているという自信過剰バイアスが働いている可能性があると思われるのですが・・・)
こうした、個々の主体として合理的な思考能力を持っているかどうかと、集団としての行動原理の合理性の有無が切り離される理由の一つとして考えられているのが、(「より高度な知性体がそう「設計」したのだ」という考え方の方もいるんでしょうが、)行動原理自体が「進化的プロセス」の中で淘汰・適応するという可能性です。
経済学の世界ではこうした「進化的プロセス」はゲーム理論を通じて採り入れられてきています。
こうした「進化的プロセス」に基づく均衡が、均一なプレイヤーによる効用最大化行動を前提とした経済学と一致するとは限らないことも確かですが、その点も含めて既に経済学は、これを分析し予測するための枠組みを持っています。
それを洗練させていくことや、法制度に応用していくことは、今なお現在進行形の話であり、多くの課題を抱えていることは確かですが、ローエコは、こうした「個体として非合理な人間」が進化的プロセスを経て「集団としての合理的な行動」を達成するメカニズムを意識しています。
例えば、金貸しの中でも、ベニスの商人に出てくるような異様なまでにアグレッシブな金貸しも個体としては存在するかも知れませんが、進化的プロセスの中でそうした「タカ」が多数派になるとは限りません(一般的には極端なタカも極端なハトも進化的プロセスの中では淘汰され、比較的中庸な行動様式が生き残る傾向が見られるようです)。
その意味で、「ウシジマ君」は現代でも存在するかもしれませんが、そのことと「集団としての人間の行動」に対して経済学的な枠組みを適用できるかどうかは別であって・・・むしろ、そうした例外的な行動様式にフォーカスをすることは、必ずしも「集団としての人間の行動様式」を捉えることにはなりません。
繰り返しの部分もありますが、政策設計のプロセスの中での問題は「ウシジマ君がいること」そのものではなく、「ウシジマ君が集団としての行動に対してシステマティックな影響を与えているかどうか」ということになります。
アウトライヤー(Outlier)への対処
最後に残る問題は、「ウシジマ君」が特異な個体(統計学の言葉を借りてOutlierといいますが)であり、それ自体としては集団的な行動にシステマティックな影響を与えていない場合に政策立案の過程において切り捨ててしまっていいのかという点です。
例えば、取立のために小指を担保にもらうような慣行を、大筋に関係ないからといって法政策の外に置いていいのか?
政策判断の予測性という観点からは、こうしたOutlierは除外して考えた方が判断の精度は高まります。Outlierに目を向けたくなるのは、一種の非合理性(heuristic)だとも考えられます。ただ、この非合理性は実はシステマティックに機能し得る可能性が高く、これに対処しない場合には、広い意味で「法制度」そのものへの信頼が失われ、システマティックな非合理行動を増幅してしまう可能性があります。
その意味で、単純に切り捨ててしまうわけにはいかないというのも確かだと思います。
例えば、犯罪行為と密接に絡むOutlierは、犯罪行為、特に組織犯罪への対策として別の政策目標との関連で別途政策的な設計を行うべきだと思います。更に踏み込んで、例えば消費者金融業界全体への制度枠組みの中でOutlier対策を行うことについては、そうしたOutlierにフォーカスした政策設計は、全体的にみれば色々な副作用をもたらす可能性があることには留意する必要はあります。
それを見据えた上での議論であれば、それは実はローエコの土俵で十分に取り扱うことのできる話です。
「現実」への視線
もっとも、ローエコ的な発想を使うということは、モデルを組んで精度設計をすれば済むという話ではありません。
磯崎さんが指摘されているように「実際に現場を見ることの大切さ」は全くその通りです。
システマティックな非合理性があるとすればどこにあるのか、それがどういう形で影響を及ぼし得るのか、あるいは、集団としての人間はある法制度に対してどういう戦略的対応を見せるのか・・・こうしたことは、実験室や文献からだけでは得られません。まさに「現実」を丁寧に見据えることが必要です。
私自身、今後、ローエコ的な発想から消費者金融の問題について何かを言うとしても、それはあくまで「ヒント」的なものに過ぎず、そのまま政策設計に使えるような代物にはなりません。
方法論としての有用性と同様にその限界もまた意識は必要・・・読者の方々にも、その辺りをご理解いただいた上で、頭の体操としてこのブログでのローエコ的なアプローチを楽しんでもら頂けると幸いです。