マイクロ・ファイナンスと上限金利規制

ユヌス氏のノーベル平和賞受賞と上限金利規制のタイミングが重なったことで、この両者の関係をどう捉えるかについて興味を持たれる方が結構いらっしゃるようですので、今日は、マイクロ・ファイナンスと上限金利規制との関係についてのサーベイであるCGAP(マイクロ・ファイナンスに特化した研究機関)の研究員Bright Helms=Xavier Reille, Interest Rate Ceiling and Microfinance; The Stroy So Far (English PDF)というそのものズバリのペーパーの紹介です。

そもそもマイクロ・クレジットの金利は何故高いのか?

上限金利規制との関係に入るに先立って、筆者らは、最初に何故マイクロクレジットの金利が通常の貸出金利よりも高いのかということについて、必ずしも借り手の信用リスクが高いからではないと述べます。

マイクロクレジットのコストは高い。しかし、それは貧しい借り手層への貸出のリスクが本質的に高いからではない。寧ろ、よいマイクロクレジット・プログラムの貸倒率は通常の商業銀行よりも低い。マイクロクレジットのコストが高いのは、借り手との直接の接触を有する小規模な取引に要するコストの高さと、定型的な契約やコンピュータ化されたクレジット・スコアリングの代わりに個別化された契約を用いているからである。

このブログでも貸金業者が売っているものは何なのか?というエントリーで書いたことがありますが、信用リスクに応じた貸出金利は貸し手にとっては原料の仕入れと同じ意味しか持ちません。
貸出額が小規模で与信管理に手間がかかれば、信用リスクが一定でも貸出金利は高まります。また、元本額が小さければ、そうした手数料相当部分の割合は元本に対して大きくなりますから、金利という指標を使えば自ずから金利は高くなります。

ペーパーの筆者達は、こうした点を指摘して、どんなに効率化を進めたマイクロクレジットでも、その金利は従来型の金融に比べれば高利にならざるを得ないということを指摘します。

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「必修」科目の幻想

日本では高校での世界史未習問題が大きな広がりを見せているようですね。

色々な論点があると思うのですが、一番重要な話は、受験シーズンを目の前にした該当高校の受験生たちの取扱いであることは間違いありませんが、これ自体は最早法的な問題と言うよりも政治問題じゃないかという気がしています。

むしろ、法律家として興味があるのはtoshiさんろじゃあさんのようにコンプライアンスの観点ですが、これも色々な切り口があり得ます。

なぜ指導要領を守らなかったのか、あるいは、その公表における対応は適切だったか、etc・・・こうした部分で学校側が多くの課題を抱えていることは疑いはないのですが、でも、全国各地で100近い高校に無視され、しかも、これまでそれに対してサンクションがなされたことのなかった「必修」というのは、一体何なんでしょうね?

「法」というのは、単に紙の上で条文を書けば、それでよいというものではありません。
極端な話、紙に書いて公布するだけで「条文」が「法」になるのであれば、「法の支配」の実現なんて簡単な話で、今頃、世界中は皆「法の支配」で満ちあふれているでしょう。

でも、そうではありません、「条文」が「法」として通用するためには、それを「実現」するためのコストが必要です。先進国で巨大な警察機関が組織され、司法機関(裁判所)と司法メカニズムが多大なコストをかけて運用されているのは、最もよい例ですが、単に警察と司法機関があれば全ての「条文」が「法」になるわけではありません。

時には、「条文」が警察機関や司法機関の助けを借りなくても、自然に人々に受け容れられ守られる場合もあります。こうした現象は「法の内部化」などと呼ばれ、最近、法学の世界でも高い関心を持って研究がなされている分野ですが、ここでも「法の内部化」が起きるためには、単に国家が権威的に押し付けるだけではだめで、そうしたルールを守ろうという意識が起きるための何らかの契機が必要だということが認識されています。

翻って、文科省は色々なことを考えて「必修」科目を定めたわけですが、その「必修」性を維持するためにどのようなコストを支払ってきたのでしょう?
100校近くの進学校がこれに従っていないということは、少なくとも当事者がそれを守ることで自然に利益を受けるような構造や契機はなかったということが推測されますし(インセンティブ問題についてはnight_in_tunisiaさんが書かれています)、これだけの規模で数年に亘って続いていた「法律違反」がこれまで発見されなかった(あるいは見過ごされていた?)ことは、「必修」性を確保するための調査やサンクションなどの手段が適切になされてきたのかに疑問も残ります。

「日本社会はコンプライアンスの意識が低い」という時に、我々は法のユーザー側の意識ばかり問題にしがちですが、ユーザーサイドで法を運用する私の印象からすると、法を定める側も条文をつくることばかりに夢中で、それがユーザーが自発的に従うほどに自然なものなのか、あるいは、それを「強制」するためにはどれだけのコストが必要になり、それに見合ったベネフィットは何なのか、という意識が薄い気がします。

かつてライブドアがTOBルールのグレーゾーンを使った買付を行い、それが当時の閣僚によって適法だとされたときに、(そもそも1/3ルールの合理性自体には疑問を持ちながらも)少なくともルールの建て付けからいえば違法の疑いが強いということでそれまで長きにわたって依頼者にストップを出してきた弁護士からすれば、何とも言えない徒労感を感じたことがありました。

今回の「必修」科目問題についても、ユーザー側のコンプライアンス意識を問うと同時に、そもそもルールを定める側のコンプライアンスに対する意識についても問われるべきなんじゃないかと、そんな気がしています。

 

(※)よくあげられる例は、交通における右側通行や左側通行ですが、これは皆がそうする方に従うことが個々人にとっても利益だからです。なので、右側通行や左側 通行は、それに従った道路整備を国家がやれば、極端な話、いちいち条文に書かなくても人々はルールとして受け容れるでしょう。これに対して速度規制や駐車 違反にはそうした契機は存在しません。もっとも、欧州で有名なアウトバーンのように速度制限がなかったとしても、人々は速度上昇による利益とリスクを秤に かけて一定の速度を選ぶわけで、道路状況や天候、運転技術や車の性能などの幾つかのファクターによって、車線毎に自然に一定の速度帯が形成されるとすれば、これはこれでそうしたルールが成立しているということになります。

日本が遠い国に見える瞬間(その2)

(11/11追記あり) 

「世界基準」日本の主導力強化 「交渉術」塾を設立(asahi.com)

政府は、日本の工業製品などの規格が「世界の基準」となるよう官民で取り組むための「国際標準総合戦略」の原案をまとめた。知的財産戦略本部(本部長・安 倍首相)の専門調査会に25日に示し、年内に決定する。「標準を制する者が市場を制する」とうたい、各国が競う国際標準決定の場での交渉力を養う「塾」の 設立など人材育成が柱。首相が経済成長戦略に掲げる国際競争力の強化につなげたい考えだ。

「国際競争力」には国産技術標準で、技術標準がとれないのは交渉力の問題で、交渉力の強化には政府主導の「塾」ですか・・・

何だかなぁ。帰国が不安になるなぁ・・・

(11/11追記)

この記事については、国際技術標準の現場を実際にご存じの技術屋さんと通信屋さんからコメントをもらっています。

元の理屈の筋としての印象は大きくは変わらないのですが、現場の方の視点や実感を教えて頂き、少なくとも問題の所在についてもっとケース・バイ・ケースで知る必要があることがわかりました。

是非コメント欄の議論もご覧下さい。

権利の「しがらみ」とYouTube

GoogleによるYouTube買収に関しては、既にIT関係の専門家の方が色々と考察しているので、今さら何かを付け加えるようなこともないのですが、bewaadさんの「追い詰められたYouTube、あるいはGoogleが2,000億円の価値を認めた理由に関する一考察」を拝見していて、ふと思いついたことがあったので、メモということで。

YouTubeの将来性について、多くの方はテレビ局などの映像保有者からの訴訟を懸念されたり、あるいは、bewaadさんのように過去のコンテンツから収益をあげるビジネスモデルが見えれば、そもそも既存のメディアがその分野を放っておかないんではないかということを仰っています。

ただ、最近の(というか、昔から本質的にそうなんですが)テレビ局やなんかの「映像コンテンツ」というのは、それ自体が、更に色々な権利関係の集合体になっています。
最近でも確かテレビアニメか吹き替え映画かの関係で声優の方がテレビ局に二次使用分の使用料の支払を求めたりといった話があったと思うのですが、テレビ局の有するコンテンツ自体が、第三者の有するコンテンツの集合体となっている状況の下では、テレビ局自身も自由にコンテンツの再利用や改編をできるわけではありません。

その意味では、映像に対する需要があるというだけでは過去のコンテンツの再利用ビジネスは成り立たず、その際に生ずる他の権利者との調整コストを差し引いてもなお収益があがることが必要になりそうです。

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「強行法規性」のすれ違い?

(910/19追記あり) 

このブログでも一時話題となった会社法29条と定款自治の限界の問題について、サミーさんが成蹊大学の宍戸教授の論稿に関連して定款自治の範囲同(2)というエントリーを書かれています。

非常に興味深いエントリーなので、定款自治の限界や会社法の強行法規性といった議論に興味のある方は、是非ご一読をお奨めします。余りにも興味深かったので、ついでで、私も初質問をしてしまったんですが、お答えしてもらえるかどうか、何だかどきどきしています(笑)

で、本題は何かというと、どうも29条問題について立法担当者の見解と学界の議論がかみ合わないところがあるのは、そもそも「強行法規」というものの理解の仕方についてズレがあるからのような気がしてきた・・・ということで、まだきれいにまとまっているわけではないのですが、思いつきだけメモにしておこうかと。

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弁護士とコミュニケーション・スキル

今日のニューヨークはじとじとした雨ということで、一日家にこもって宿題?をこつこつと片付けています。

専門的な論点を扱う論文というのは事前準備は大変ですが、ある程度資料が集まって方向性が決まれば議論のフォーマットはパターンがあるので、骨組みはそんなに悩まずに書いていけるのですが、逆に今書いているようなファイナンス理論が会社法実務とどう関連してくるかの「さわり」を紹介するようなタイプの原稿というのは、パターンが無数に考えられるので、その選択が結構疲れたりするわけです。

まして、思いついたことを口語体でどんどん書いて、必要があればリンク先参照、読者に分かりにくいところがあればコメントでやりとりという技が使えるブログに慣れてしまうと、何だか普段はエレベーターで上っているところを、えっちらおっちら階段で上がっているような気分になってきたりもします。

そんな愚痴を言っていてもしょうがないんで、引越の荷出しが終わる前に溜まっている原稿を片付けている最中なんですが、鹿児島時代からの友人のtakaさんが、気になるシリーズを連載しています。

元々「良い医者探し」論ということで始まったのですが、ご友人のK医師が提起された、そもそも「いい医者」とは何か?とか、患者との関係のつくりかたといったことは弁護士の世界にも思い当たる節がたくさんあります。

専門分野に関する法律知識の豊富さは、「いい弁護士」の必要条件ですが十分条件ではない・・・これは実務に入って以来常々私自身感じてきたところで、本当に重要なスキルは「依頼者が何を求めているのか?」あるいは「依頼者にとって最善の利益(best interest)とは何か?」ということを見つけ出すところにあるような気がしています。

重要なのは依頼者自身が自分が何を求めているのか明確に意識していないことは往々にしてあり得るということです。
「合併をしたいので、合併契約書をドラフトして下さい」-こんな単純で一見明白な依頼ですら、依頼者が達成したいのは何で、どういうリスクを懸念しているのか、当事者の置かれている状況の特殊性はどんなものか・・・そうしたことを探っていくと、本当に必要なのは合併の前段階でのリスク遮断のアレンジであったり、そもそもスキームの変更であったりすることもあり得ます。

ただ、こうした形で弁護士がスキルを発揮する上では、依頼者との信頼関係の構築も重要です。
例えば、取引の最終段階になって相談に来られても、その段階で前提となっているスキームよりも目的に適ったスキームがあったとしても、最早そちらに変えることは事実上手遅れという場合もあり得ます。
また、依頼者との間に信頼関係がなければ、言われたことを端的にやらずに、あれやこれやと関係あるんだかないんだか分からないことまで口を挟んでくる弁護士は「五月蠅い」だけで終わってしまうかも知れません。

こういう部分は、単に真面目に勉強すれば身に付くものでもないだけに厄介なところがありますが、実務家としてやっていくためには避けて通ることのできないところです。

takaさんの記事を読んで、そういうことを改めて思い出すと共に、この2年ですっかりその辺りの勘が鈍ってしまっているのではないかと、またも浦島太郎の恐怖に襲われたりもする今日この頃です。

村上氏 v 検察の第2ラウンド?

村上被告側、起訴事実の根幹否認 公判前整理手続き開始(asahi.com)

証券取引法違反の罪に問われた村上ファンド前代表の村上世彰(よしあき)被告(47)に対する第1回「公判前整理手続き」が16日、東京地裁で開かれた。 弁護側は、「インサイダー情報を認識した時期は04年11月だった」とする起訴事実の根幹を否認し、検察側と全面的に争う姿勢を明確にした。
・・・
検察側は、前代表が、ライブドア側からニッポン放送株を大量取得する方針を「04年11月8日」に聞き、直後の同月9日から05年1月26日までに計約99億5000万円で約193万株を買い増したとしている。
これに対して、前代表側は、検察側から開示された供述調書など証拠を分析した結果として、五つの争点を提示。(1)ライブドアは「04年9月15日」に 大量取得の方針を決定していない(2)「11月8日」段階では取得方針が前代表に伝達されていない(3)インサイダー取引の故意はない(4)重要事実を 知って買い集めたわけではない(5)買い集めのすべてが前代表の指示ではないとし、「買い増しはインサイダー取引にあたらない」と主張した。
・・・
弁護団によると、「検察側の主張する取得方針の決定時期はあいまい。この前提でインサイダー取引を認めれば実務にも影響する」と弁護団が説得し、前代表も「裁判所の判断を仰ぐべきだ」との考えに傾いたという。

ということで、やはりというか、村上氏が検察側の主張に大人しく従うということではなく、公判で検察側主張の弱点を徹底的に衝くということになるようです。
こうなると、最近特捜に異動されたあの方との対決も(あるのか知りませんが)楽しみになってくるところですが、ご参考までにということで村上氏逮捕関係の過去エントリーを今一度ご紹介しておきます。

ところで、私の勝手な戦前の予想からすると、新聞報道の限りでいうと、①情報を聞いた時期が1月28日まで引っ張られていることと、②共同買付者の点については争っていないというところに注意が惹かれます。

まずは事実関係で勝負できるシンプルな構成でいくという方針ということではないかと勝手に推測しますが、この辺りは弁護団の今後の戦略的にも注目したいところです。

先行する?堀江氏の公判も、弁護団と検察の間でのガチンコ勝負が繰り広げられているようですし、この訴訟も日本の今後の実務に色々な意味で影響を与えるものになるんでしょうね。

と、ごく簡単ですが、こんなところで。

有限責任と「親」の責任

GoogleによるYouTube買収に関して、YouTubeの抱える訴訟リスクはGoogle本体にどのような影響を与えるかが色々なところで議論されているようです。

より一般的にいえば、偶発債務を抱えた企業やリスクの高い事業を営む企業を買収する場合に、その影響をどう見積もるべきかという問題で、これは企業買収にあたってなされる典型的なQAの一つですので、ごく簡単に要点をまとめておきましょう。

有限責任の原則

まず、最初のスタート点は「有限責任」です。

つまり、法人格が別である限り、たとえ親子であっても、子供の責任を親が負うわけではないという原則です。

これが、Danさんが子会社の賠償責任は親会社に及ぶか?で指摘されている次の部分です。

もちろんGoogleを別個に訴えることは可能ですが、あくまでその場合はGoogleが被告であってYouTubeを被告にすることで自動的にGoogleのポケットに手が届くと思うのは間違いかと。

なお、当然ですが、Mergeしてしまった場合は話は別ですし、たとえ「単なる子会社」でも、YouTubeのB/SはGoogleのB/Sと連結されさ れます。YouTubeが損失を出せば、当然それはGoogleのB/Sにも響きます。が、もしYouTubeが損害賠償で債務超過になった場合、破綻さ せてしまえばGoogleはそれ以上の損害を被らないのではないでしょうか。

 また、磯崎さんが指摘されているように、スキームを組む上でも、こうした偶発債務の遮断は重要な考慮ファクターの一つであり、アメリカでは「合併」という言い方がなされても、実際には「三角合併」と呼ばれる、日本の株式交換類似のスキーム(※)が使われ、少なくとも「合併」後しばらくは法人格の独立は維持されることが多いわけです。

では、「有限責任」があれば「親」は「子」の負の財産を心配する必要はないんでしょうか?

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モハマド・ユヌス氏にノーベル平和賞

ノーベル平和賞、ムハマド・ユヌス氏に 貧困解消に尽力(asahi.com)

ノルウェーのノーベル賞委員会は13日、06年のノーベル平和賞を、バングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」とその創設者のムハマド・ユヌス氏 (66)に授与する、と発表した。農村の貧しい人々の自立を促そうと、「マイクロクレジット」と呼ばれる無担保少額融資の仕組みを考案し、貧困の脱却に貢 献した功績が評価された。

と、既にろじゃあさんにスクープされていましたが(笑)、個人的にはグラミンやマイクロ・ファイナンスには以前から興味を持ってきたので、今回の受賞でまた一段と関心が向くのではないかと期待しています。

というわけで、過去の関連エントリーの紹介です。 

ところで、これまたろじゃあさんが示唆されていますが、グラミンやマイクロ・ファイナンスは、今の消費者金融問題に対する対応の方向性についても色々な示唆を与えます。

グラミンは政府によるセイフティ・ネットの乏しいバングラディッシュで、返済能力を欠いていると思われていた農村の女性を中心に高金利・少額の貸出を実行しました。
日本だと、これは一種の慈善事業のようなイメージで捉えられるかもしれませんが、少なくともグラミンに関しては、きちんと営利ベースで運営がなされています。
もちろん、資産を殆ど持たない貧困層への少額貸出は(理論的には)貸倒リスクも高く、また、信用管理コストもかかります。当然、こうしたコストを埋め合わせるために金利は高くなるわけです。
従来は逆選択やモラル・ハザードの問題から、こうした貧困層への貸出は成り立たなかったわけですが、グラミンでは、日本でいう連帯保証人にも似た連帯責任制度(グループ・レンディング)や、頻繁な取立て、一定額の貯金の義務付け(一種の拘束預金)などの手法を使うことで、こうした問題を軽減し、貧困層への貸出を実現しています。

一見すると、連帯責任類似制度や頻繁な取立て、一種の拘束預金制度etc...は、貧困層に「厳しい」制度であって、今の日本で同じことをやれば、瞬く間にマスコミや政治家によるネガティブ・キャンペーンの格好のネタになってしまいそうな話です。
もちろん、こうしたメカニズムには、貧困層に対して苛酷な面も持っていますが、他方で、そのインセンティブ構造は経済学的な面から見ても非常にうまく設計されたものとして評価されています。
何よりも、もし、こうした高金利や「厳しい」取立メカニズムを否定してしまったら、現に貧困であえぐ農村の貧困層は、バングラディッシュ全体が富裕になり社会の隅々まで十分な公的な生活扶助がなされるのを座して待つしかないということになっていたかも知れません。
何よりも、そうした貧困層が社会の発展に対して寄与し得る潜在的な能力が活用されないことは、国全体の発展に対しても遅れをもたらしてしまったかも知れません。

マイクロ・ファイナンスが国全体の発展にどれほど寄与できるかについては、今なお研究の途上にある重要な論点ですが、単に目先の厳しさを排除することだけが優しさではないということをユヌス氏は示しているような気がします・・・って、これまたろじゃあさんに既に言い尽くされていることになってしまいましたが、とりあえず今回の件でマイクロファイナンスや消費者金融における経済学的な考え方への理解が深まることを心から願います。

クラブ・ディールと競争法

harryさんが紹介されていますが、PEのクラブ・ディールにアメリカの競争当局が興味を示し始めているという話が昨日のWall Street Journalでとりあげられていますが、New York Timesでも関連記事がとりあげられています。

もっとも、こうしたウォール街で見られる金融機関同士の協調行動と競争法の緊張関係は必ずしも新しい話ではありません。
NYTの記事では株式公募の際の共同引受けに関する1950年代のMorgan事件が紹介されていますが、買収における協調行動ということでいえば、(私訴ですが)1990年にWilliams法の開示規制の下でSECがレビューしたビッドについては反トラスト法違反とならないことを示唆する判決を第2巡回裁判所が出しているようです。

もっとも、この判決に対しては学界からの批判が強いようですし、90年代にはゲーム理論に基礎をおいた暗黙の協調行動(tacit collusion)に関する理論も目覚ましい発展をとげていることからするとウォール街的には安閑としているわけにはいかなさそうです。

もっとも、NYTの記事を見る限りはSubpena(正式な情報提供手続のための令状)が出されたわけではなく任意の質問レベルに留まっているようですから、何れにせよ結果が出るのはまだまだ先になりそうな気配ですが、競争法的にポイントになるであろう点についてメモ程度に。

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もう10月ですね

・・・って、10月も1週間になってから書くなよ、という話もあるんですが、10月に入ったということで帰国準備もそろそろ本格的に考えなくてはならず、にわかに身辺が慌ただしくなっています(といっても、一番時間を割いているのは帰国前のヨーロッパ旅行のプラニングだったりしますが・・・)。

というわけで、ブログの更新も少しさぼってしまいましたが、最近、何をしていたかというと・・・

先週になりますが、我が家から見えるHudson Riverの埠頭で博物館と化している空母Intrepidが、埠頭改修のためにいなくなるということで行ってきました。 

当たり前っていえば、当たり前なんですが、空母ってでかいんですよね。

甲板だけじゃなくて、その下にもほぼ同じだけのスペースがあるんで、回るだけでも結構大変でした。

余談ですが、隣には潜水艦も展示されていて、その中も見学できるわけですが・・・こっちは、本当に狭くて、これに乗って海中で何日もいるかと思うと、想像しただけで、逃げ出したくなってしまいました。

甲板の上には軍用機の展示があるんですが、ファントム無頼やエリア88を読んで育った人間としては懐かしい?機体がたくさん並んでましたが、イスラエル空軍のクフールが展示されているのを見て感激しているのは、どう見ても私だけでした(笑)。

 ところで、このIntrepidという空母は太平洋戦争中から戦後にかけて活躍したということで、日本軍から神風攻撃を受けたこともあるそうです。

そのせいで、日本軍、特に神風特攻隊関係の展示も多かったのですが・・・

やはり日本人としては、何とも言えない厳かな気持ちになるんですよね。

それが、米軍側の視点から語られているだけに、一層何か感じるというか・・・特攻隊員が持っていたという家族の名前が書き込まれた日章旗を「戦勝品」として私物化して自分の名前を書き込んだものとか、でかでかと張り出された日本軍航空機・艦船の追撃・撃沈星取表を見たりすると、何か胸の奥がじくじくとするわけです。

でも、そのジクジク感というのは、「戦争に勝っていれば 」とか「アメリカめ!」とかいうナショナリズム的なものというよりは、もっと個人的なもので・・・戦後経済復興を果たした後に生まれ、アメリカを中心とする資本主義体制の恩恵をこれ以上ないという程受け、そしてまた好きこのんでアメリカまで留学して、これまた頼まれもしないのに、「アメリカではああだこうだ」という議論を日本に持ち帰ってこようとしている自分をして、全くリアルではない「戦争」の断片的な名残に触れただけでも、「立場の互換性」とか「相手の痛み」を考える精神状態からはほど遠い、むしろそうしたことを考えることにタブーを感じてしまう心の働きがあるんだということに対する、逃れられない人間の業みたいなものを感じてしまったわけです。

数日前に、911のハイジャックを実行したテロリストの生前の映像がテレビで流れていましたが、とても知的で優しげな若者に見えました。

その若者たちの中にも、そして、ひょっとしたら私自身の中にも、理性や知性では御すことのできない「悪魔」はいるのかも知れない・・・それが、何だか恐ろしくなったりしました。

というのが、人間の中にいる「悪魔」なら、一方で人間は「神」の憑代でもあることを感じたのが、NYlawyerさんと一緒に行った、Fall for Dance Festival 2006。

元々、NED-WLT氏のご紹介で知遇をえたマーサ・グラハム・カンパニーのプリンシパル折原美樹さんのダンスを目当てに行ったのですが、それ以外にも5組のカンパニーが出ていました。

サッカーやロック関係のように、絶対にやっている当人に見られていない+それなりにこれまで経験値も稼いでいるという自信があれば、素人談義でいくらでもコメントしますが、ご本人がご覧になられるかも知れないところで、ましてダンスに関しては全くの素人の私が何か感想を述べるのは難しいというのは、NYlaywerさんと同感。(折原さん自身のエントリーはこちら)

・・・といいつつ、素人なりに思ったことを書くと・・・見た直後に分かりやすかったのは、最初のAlonzo King's Lines Balletと最後のThe Parsons Dance Companyでした。
前者はアフリカ音楽のリズムを活かしたもので、後者は現代音楽?っぽい(私の知っている範囲でいうと坂本龍一の1996に似ている)もので、何れも結構私好みのもので、踊りも人数をかけた華やかなものだったので素人の私にも「分かりやすかった」・・・のですが、あれから3日ほど経つと、音楽の方は何となく覚えていても、踊りの方は何か思い出せません。
どうも、この2つに関しては、私は純粋に音楽が好きで、音楽の添え物としてダンスを楽しんでいたような気がします。

その逆が、折原さんとNew York City Balletのダンス。
後者は、長年の積み重ねの中で身体表現と意味の対応が言葉と匹敵するほどに磨かれている(んではないかと勝手に想像している)クラシック・バレエで、クラシック音痴の私でも馴染みのあるショパンの曲に豊富なストーリーを詰め込むという点において、踊りという表現の一つの究極の姿なのかなと思ったりしたわけです。
これと折原さんの踊りは、ある意味対極にあって、ご覧になった方は分かると思うんですが、グリーンのストライプ柄のワンピース姿の折原さんが、フルートのソロに合わせてコミカルな動きを見せるというもので、古典的なバレイとは全く違うものです。

予備知識のない私が思ったのは、田楽というか何というか非常に日本的なものでした。
折原さんがやられているからなのかとも思ったのですが、もらったパンフの解説を読むと、ネイティブ・アメリカンの宗教的儀式にインスパイアされたものということなので、そういう理由でもなさそうです。
クラシック・バレエが、恋愛や別れ、嫉妬のようドロドロした感情を身体表現で表すことにおいて様式を積み上げてきたのだとすれば、折原さんのダンスは、もっと原初的で文化や言語以前の人間の感情につながるものを身体で表現していたのかも知れません。
生きていることそのものに対する喜びと感謝、それと交互に立ち現れる畏れというのは、人間に共通のものなのかも知れません。

何れにせよ、身体というものを使って言葉以上の豊かなものを伝えることができるという可能性を垣間見せていただいたという気がしました。
なお、もう一組、というか一人のダンスもあったのですが、こちらは、何というか難解過ぎて正直いって私には理解できませんでした。
音楽でいえばグランジ的とでもいうのか、何か現代的な閉塞感を表そうとしているような気もしたのですが、音楽の世界でもテーマとしての閉塞感や怒りというのは80年代後半からポピュラーになりつつも、それをコンスタントに表現できたのは、ホンのわずかということから言えば、ダンスの世界でも難しいのかも知れません・・・あるいは、単に私のダンス・リテラシーが不足しているだけかも知れませんが。

というわけで、何か愚にもつかないコメントまでしてしまいましたが、相互互換性の難しさのジメジメ感の後だっただけに、ダンスというコミュニケーションの世界を見れたことは、何だか個人的な意味でも救いでした。

Fall for Dance Festivalは10ドルという破格のお値段ですので、来年秋にNYにいるチャンスがあれば、是非情報をこまめにチェックして行ってみることをお勧めいたします。
今年、5時間並んだ人間からのアドバイスとしては、どうせ5時間並ぶなら早いうちから並べ、ということで(笑)、11時からチケット発売ですが、遅くとも9時ぐらいには並び始めるのがいいかと思います。

高金利均衡についての補足 (2)

前回は(借り手優位の)「情報の非対称性」が高金利・高リスク層均衡を生み出す、ごく基本的なロジックを見てみたのですが、ここで自然と生じる疑問は、では上限金利規制は、この状況を崩すことが可能なのかという点です。

「利鞘」を考えてみる 

前回のごく単純なモデルに、新しいパラメータとして貸し手の「利鞘」を入れてみましょう。
つまり、前回は信用リスクに応じた金利でしか提示しないことを前提としましたが、ここでは借り手側は、自らの信用リスクに対して+7%までであれば貸し手側に「利鞘」を与えることを認めるとしましょう(※)。

つまり、低リスク層の借り手は、金利が17%までなら借入を行い、高リスク層の借り手は、金利が27%までなら借入を行うという具合に考えてみるわけです。

単純化のために、全人口を100(従って高リスク層と低リスク層の人口はそれぞれ50ずつ)とし、一人当たりの貸出は100として考えてみましょう。

まず、27%の提示する場合には、貸し手の利鞘は7×50=350になります。
一方、低リスク層に合わせて16%の金利を提示するとすると、貸し手の利鞘は、低リスク層への貸付で同じく350の利鞘を稼ぐことができますが、高リスク層への貸付は逆に▲3×50=▲150の損失を生むので、結局、純利得は200になってしまいます。

というわけで、利鞘を考慮に入れただけでは、前回の高金利・高リスク層均衡は動きません。単に、(20%,高リスク層のみ )という均衡が(27%、高リスク層のみ)となって、貸出ボリュームは変わらず、7%は貸し手側に入るだけです。

ここで上限金利を引き下げ22%に設定したとしましょう。
Xとしては、どういう金利設定をするのが合理的になるでしょう?

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葉玉さんの引退宣言

日経新聞の夕刊でも一緒に紹介された葉玉さんがブログ(会社法であそぼ。)から引退されることを宣言されました(※)。
東京地検特捜部への異動ということで、時期的には某経済事犯巨大公判に備えての戦力強化ではないかという憶測もありそうですが、何れにせよ、私の所属事務所とも懇意にしていただいているようだったので、帰国の暁にはお会いできるんじゃないかと密かに楽しみにしていたのですが、特捜ということだと少し難しくなってしまったかも知れません。残念です。

葉玉さんは、私のブログにもコメントを下さったことがありますし、勿論、私自身「会社法であそぼ。」はBologlinesに登録して拝見させて頂いていました(もっとも、すっかり留学ボケしてしまった頭には会社法ネタよりも、枕詞的な日常ネタの方がすんなりと入ってしまっていましたがw)。
ただ、一応ビジネス法務系のブログにもかかわらず、直接に「会社法であそぼ。」に触れなかったのは、留学中に会社法にすっかり疎くなってしまったから・・・というのもありますが、ブログ上で公表される立法担当者である葉玉さんの見解をどう位置付けていいのか、私自身整理できなかったからです。

この辺りは、日本に戻って、葉玉さんと直接お目にかかったり、会社法移行期の修羅場に携わった同僚の弁護士とも話しながら、自分の頭を整理していこうと思っていたのですが、葉玉さんが異動されてしまったということで、まだ考えがまとまらない段階ながら、今、ぼんやりと思っていることを書いて、(非常に一方的な)葉玉さんへのメッセージに代えてみたいと思います。

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腎臓売買容疑で強制捜査

腎臓売買容疑、患者ら2人逮捕 ドナーに金品 愛媛(asahi.com)

愛媛県宇和島市の宇和島徳洲会病院(貞島博通院長)で05年9月にあった生体腎臓移植手術で臓器売買があった疑いが強まったとして、愛媛県警は1日、移植 を受けた水産会社役員山下鈴夫(59)=宇和島市中沢町1丁目=と同社の社長松下知子(59)=同=の両容疑者を臓器移植法違反(臓器売買等の禁止)の疑 いで逮捕した。
・・・
調べによると、松下容疑者は腎臓病で人工透析を続けていた山下容疑者と内縁関係にあったが、昨年夏ごろ、200万円を借りていた松山市内の貸しビル業の女 性(59)に「臓器提供者(ドナー)になってくれたら、300万円を上乗せして渡す」などと再三、臓器売買に応じるよう要求。昨年9月に山下容疑者の左の 腎臓を摘出してドナーの腎臓を山下容疑者に移植する手術が成功した後、両容疑者は11月に現金30万円を、今年4月に新車(150万円相当)を提供した疑 いがもたれている。山下容疑者と女性は、事件前、面識がなく、親類でもなかったという。

電話で「腎臓売りたい」 売却先探す仲介者横行(asahi.com)

臓器売買が問題になるなかで、腎臓移植を待ち続ける患者らのもとには、「腎臓を売りたい」と持ちかける電話による違法な勧誘や、不審な仲介業者の案内などが相次いでいる。
大阪府内の約7000人の腎臓病患者でつくる「大阪腎臓病患者協議会」には、ここ2~3年、「腎臓を売りたい。買ってもらえるところを紹介してほしい」などの電話の問い合わせが年1、2件ほどある。主に男性からの連絡だという。
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同協議会によると、腎臓移植の希望登録者数は、1万1500人余り。心臓の90人、肝臓の120人と比べても格段に多い。一方、昨年の腎移植件数は約1000件。移植を10年以上も待っている人も多く、中には20年も待つ人もいるという。

移植を10年待っている人も多いという中で、単に臓器の売買は倫理的に許されないというだけでいいのだろうか?・・・この記事に触れて、そんな疑問を感じた方のために、ベッカー教授とポズナー判事のブログの議論を引用した、過去エントリーをご紹介いたします。

TB先、コメント欄の議論も合わせて、この問題について考えるよすがになれば幸いです。

 

 

 
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