・・・って、10月も1週間になってから書くなよ、という話もあるんですが、10月に入ったということで帰国準備もそろそろ本格的に考えなくてはならず、にわかに身辺が慌ただしくなっています(といっても、一番時間を割いているのは帰国前のヨーロッパ旅行のプラニングだったりしますが・・・)。
というわけで、ブログの更新も少しさぼってしまいましたが、最近、何をしていたかというと・・・
先週になりますが、我が家から見えるHudson Riverの埠頭で博物館と化している空母Intrepidが、埠頭改修のためにいなくなるということで行ってきました。
当たり前っていえば、当たり前なんですが、空母ってでかいんですよね。
甲板だけじゃなくて、その下にもほぼ同じだけのスペースがあるんで、回るだけでも結構大変でした。
余談ですが、隣には潜水艦も展示されていて、その中も見学できるわけですが・・・こっちは、本当に狭くて、これに乗って海中で何日もいるかと思うと、想像しただけで、逃げ出したくなってしまいました。
甲板の上には軍用機の展示があるんですが、ファントム無頼やエリア88を読んで育った人間としては懐かしい?機体がたくさん並んでましたが、イスラエル空軍のクフールが展示されているのを見て感激しているのは、どう見ても私だけでした(笑)。
ところで、このIntrepidという空母は太平洋戦争中から戦後にかけて活躍したということで、日本軍から神風攻撃を受けたこともあるそうです。
そのせいで、日本軍、特に神風特攻隊関係の展示も多かったのですが・・・
やはり日本人としては、何とも言えない厳かな気持ちになるんですよね。
それが、米軍側の視点から語られているだけに、一層何か感じるというか・・・特攻隊員が持っていたという家族の名前が書き込まれた日章旗を「戦勝品」として私物化して自分の名前を書き込んだものとか、でかでかと張り出された日本軍航空機・艦船の追撃・撃沈星取表を見たりすると、何か胸の奥がじくじくとするわけです。
でも、そのジクジク感というのは、「戦争に勝っていれば 」とか「アメリカめ!」とかいうナショナリズム的なものというよりは、もっと個人的なもので・・・戦後経済復興を果たした後に生まれ、アメリカを中心とする資本主義体制の恩恵をこれ以上ないという程受け、そしてまた好きこのんでアメリカまで留学して、これまた頼まれもしないのに、「アメリカではああだこうだ」という議論を日本に持ち帰ってこようとしている自分をして、全くリアルではない「戦争」の断片的な名残に触れただけでも、「立場の互換性」とか「相手の痛み」を考える精神状態からはほど遠い、むしろそうしたことを考えることにタブーを感じてしまう心の働きがあるんだということに対する、逃れられない人間の業みたいなものを感じてしまったわけです。
数日前に、911のハイジャックを実行したテロリストの生前の映像がテレビで流れていましたが、とても知的で優しげな若者に見えました。
その若者たちの中にも、そして、ひょっとしたら私自身の中にも、理性や知性では御すことのできない「悪魔」はいるのかも知れない・・・それが、何だか恐ろしくなったりしました。
というのが、人間の中にいる「悪魔」なら、一方で人間は「神」の憑代でもあることを感じたのが、NYlawyerさんと一緒に行った、Fall for Dance Festival 2006。
元々、NED-WLT氏のご紹介で知遇をえたマーサ・グラハム・カンパニーのプリンシパル折原美樹さんのダンスを目当てに行ったのですが、それ以外にも5組のカンパニーが出ていました。
サッカーやロック関係のように、絶対にやっている当人に見られていない+それなりにこれまで経験値も稼いでいるという自信があれば、素人談義でいくらでもコメントしますが、ご本人がご覧になられるかも知れないところで、ましてダンスに関しては全くの素人の私が何か感想を述べるのは難しいというのは、NYlaywerさんと同感。(折原さん自身のエントリーはこちら)
・・・といいつつ、素人なりに思ったことを書くと・・・見た直後に分かりやすかったのは、最初のAlonzo King's Lines Balletと最後のThe Parsons Dance Companyでした。
前者はアフリカ音楽のリズムを活かしたもので、後者は現代音楽?っぽい(私の知っている範囲でいうと坂本龍一の1996に似ている)もので、何れも結構私好みのもので、踊りも人数をかけた華やかなものだったので素人の私にも「分かりやすかった」・・・のですが、あれから3日ほど経つと、音楽の方は何となく覚えていても、踊りの方は何か思い出せません。
どうも、この2つに関しては、私は純粋に音楽が好きで、音楽の添え物としてダンスを楽しんでいたような気がします。
その逆が、折原さんとNew York City Balletのダンス。
後者は、長年の積み重ねの中で身体表現と意味の対応が言葉と匹敵するほどに磨かれている(んではないかと勝手に想像している)クラシック・バレエで、クラシック音痴の私でも馴染みのあるショパンの曲に豊富なストーリーを詰め込むという点において、踊りという表現の一つの究極の姿なのかなと思ったりしたわけです。
これと折原さんの踊りは、ある意味対極にあって、ご覧になった方は分かると思うんですが、グリーンのストライプ柄のワンピース姿の折原さんが、フルートのソロに合わせてコミカルな動きを見せるというもので、古典的なバレイとは全く違うものです。
予備知識のない私が思ったのは、田楽というか何というか非常に日本的なものでした。
折原さんがやられているからなのかとも思ったのですが、もらったパンフの解説を読むと、ネイティブ・アメリカンの宗教的儀式にインスパイアされたものということなので、そういう理由でもなさそうです。
クラシック・バレエが、恋愛や別れ、嫉妬のようドロドロした感情を身体表現で表すことにおいて様式を積み上げてきたのだとすれば、折原さんのダンスは、もっと原初的で文化や言語以前の人間の感情につながるものを身体で表現していたのかも知れません。
生きていることそのものに対する喜びと感謝、それと交互に立ち現れる畏れというのは、人間に共通のものなのかも知れません。
何れにせよ、身体というものを使って言葉以上の豊かなものを伝えることができるという可能性を垣間見せていただいたという気がしました。
なお、もう一組、というか一人のダンスもあったのですが、こちらは、何というか難解過ぎて正直いって私には理解できませんでした。
音楽でいえばグランジ的とでもいうのか、何か現代的な閉塞感を表そうとしているような気もしたのですが、音楽の世界でもテーマとしての閉塞感や怒りというのは80年代後半からポピュラーになりつつも、それをコンスタントに表現できたのは、ホンのわずかということから言えば、ダンスの世界でも難しいのかも知れません・・・あるいは、単に私のダンス・リテラシーが不足しているだけかも知れませんが。
というわけで、何か愚にもつかないコメントまでしてしまいましたが、相互互換性の難しさのジメジメ感の後だっただけに、ダンスというコミュニケーションの世界を見れたことは、何だか個人的な意味でも救いでした。
Fall for Dance Festivalは10ドルという破格のお値段ですので、来年秋にNYにいるチャンスがあれば、是非情報をこまめにチェックして行ってみることをお勧めいたします。
今年、5時間並んだ人間からのアドバイスとしては、どうせ5時間並ぶなら早いうちから並べ、ということで(笑)、11時からチケット発売ですが、遅くとも9時ぐらいには並び始めるのがいいかと思います。


















