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「必修」科目の幻想

日本では高校での世界史未習問題が大きな広がりを見せているようですね。

色々な論点があると思うのですが、一番重要な話は、受験シーズンを目の前にした該当高校の受験生たちの取扱いであることは間違いありませんが、これ自体は最早法的な問題と言うよりも政治問題じゃないかという気がしています。

むしろ、法律家として興味があるのはtoshiさんろじゃあさんのようにコンプライアンスの観点ですが、これも色々な切り口があり得ます。

なぜ指導要領を守らなかったのか、あるいは、その公表における対応は適切だったか、etc・・・こうした部分で学校側が多くの課題を抱えていることは疑いはないのですが、でも、全国各地で100近い高校に無視され、しかも、これまでそれに対してサンクションがなされたことのなかった「必修」というのは、一体何なんでしょうね?

「法」というのは、単に紙の上で条文を書けば、それでよいというものではありません。
極端な話、紙に書いて公布するだけで「条文」が「法」になるのであれば、「法の支配」の実現なんて簡単な話で、今頃、世界中は皆「法の支配」で満ちあふれているでしょう。

でも、そうではありません、「条文」が「法」として通用するためには、それを「実現」するためのコストが必要です。先進国で巨大な警察機関が組織され、司法機関(裁判所)と司法メカニズムが多大なコストをかけて運用されているのは、最もよい例ですが、単に警察と司法機関があれば全ての「条文」が「法」になるわけではありません。

時には、「条文」が警察機関や司法機関の助けを借りなくても、自然に人々に受け容れられ守られる場合もあります。こうした現象は「法の内部化」などと呼ばれ、最近、法学の世界でも高い関心を持って研究がなされている分野ですが、ここでも「法の内部化」が起きるためには、単に国家が権威的に押し付けるだけではだめで、そうしたルールを守ろうという意識が起きるための何らかの契機が必要だということが認識されています。

翻って、文科省は色々なことを考えて「必修」科目を定めたわけですが、その「必修」性を維持するためにどのようなコストを支払ってきたのでしょう?
100校近くの進学校がこれに従っていないということは、少なくとも当事者がそれを守ることで自然に利益を受けるような構造や契機はなかったということが推測されますし(インセンティブ問題についてはnight_in_tunisiaさんが書かれています)、これだけの規模で数年に亘って続いていた「法律違反」がこれまで発見されなかった(あるいは見過ごされていた?)ことは、「必修」性を確保するための調査やサンクションなどの手段が適切になされてきたのかに疑問も残ります。

「日本社会はコンプライアンスの意識が低い」という時に、我々は法のユーザー側の意識ばかり問題にしがちですが、ユーザーサイドで法を運用する私の印象からすると、法を定める側も条文をつくることばかりに夢中で、それがユーザーが自発的に従うほどに自然なものなのか、あるいは、それを「強制」するためにはどれだけのコストが必要になり、それに見合ったベネフィットは何なのか、という意識が薄い気がします。

かつてライブドアがTOBルールのグレーゾーンを使った買付を行い、それが当時の閣僚によって適法だとされたときに、(そもそも1/3ルールの合理性自体には疑問を持ちながらも)少なくともルールの建て付けからいえば違法の疑いが強いということでそれまで長きにわたって依頼者にストップを出してきた弁護士からすれば、何とも言えない徒労感を感じたことがありました。

今回の「必修」科目問題についても、ユーザー側のコンプライアンス意識を問うと同時に、そもそもルールを定める側のコンプライアンスに対する意識についても問われるべきなんじゃないかと、そんな気がしています。

 

(※)よくあげられる例は、交通における右側通行や左側通行ですが、これは皆がそうする方に従うことが個々人にとっても利益だからです。なので、右側通行や左側 通行は、それに従った道路整備を国家がやれば、極端な話、いちいち条文に書かなくても人々はルールとして受け容れるでしょう。これに対して速度規制や駐車 違反にはそうした契機は存在しません。もっとも、欧州で有名なアウトバーンのように速度制限がなかったとしても、人々は速度上昇による利益とリスクを秤に かけて一定の速度を選ぶわけで、道路状況や天候、運転技術や車の性能などの幾つかのファクターによって、車線毎に自然に一定の速度帯が形成されるとすれば、これはこれでそうしたルールが成立しているということになります。


Posted by 47th : | 12:09 | Foundations of Law

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コメント

それでは先生に質問(愚問)。
(末尾(*)印の箇所についてです。)
1.左ハンドル車(ワイパーやウィンカーのレバー位置も逆だったりする)は何故日本で使用が認められているのでしょうか。
2.180キロ(輸入車はそれ以上)まで刻んである速度メーターを装備し、実力はそれ以上という車を日本で市販することが許されているのは何故でしょう。
先生の「ルール」観では、どのような説明になりますか。

Posted by gumonkozou : 2006年10月26日 12:56

ろじゃあです。
例によって、ろじゃあのエントリーのタイトルの意味と内容のひだひだの部分を的確に把握していただき、以心伝心、ありがとございます(^^;)。
すくなくとも今回の件で何らかの解決が図られたとしてもノーアクションレターの制度は・・・・かなり彼方に位置してるのかもしれませんね。いいのか悪いのかわかりませんけど。
また遊びこさせてください。

Posted by ろじゃあ : 2006年10月26日 15:25

こんにちは。

>それがユーザーが自発的に従うほどに自然なものなのか、あるいは、それを「強制」するためにはどれだけのコストが必要になり、それに見合ったベネフィットは何なのか、という意識が薄い気がします。

全く、完全に、賛成です。早く何とかして欲しい。私も学生時代からそれを感じておりまして、私が商法以外の法律を勉強せずに経済学を勉強した理由のひとつでもあるのですが、ある法律をつくると、それぞれの立場や条件を抱えている人々にどのようなインセンティブが生じ、彼らがどう動くか、その「読み」が必要であると思いますが、日本ではそれがしばしばずれているし、ずれてきた、と思います。あるいは法律を守らない人や知らない人の行動が生む効果を捨象しすぎているし、脱法的・違法的ではあるがインセンティブに従って比較的素直に動く人々がいるかもしれない、という想像力に欠けている、とも言える。そういう人々が法律を作ると混乱その他による不要なコストを社会にもたらしますね。教訓は得られるけれど、それをちゃんと生かせるかはまた別の問題で。

貴殿のご指摘と趣旨は同じなのですが、関係者でないのをいいことにもっと大それた言い方をさせていただきますと(笑)、まず、「日本は名はともかく、法治国家ではない」(池田清彦「思考するクワガタ」)、という意見がありまして、説得的だと思っています。今回の問題は法治国家としての建前と実状の、転換期ならではの齟齬と見ることができると思います。

そもそも日本には法律違反以外のタブーが多く、各人は通常、主に、所属する集団の不文律によってコントロールされており、多くの国民にとっては、そちらの力の方が強いと思います。

氏の例示に面白いものがありまして、「国鉄の組合は順法闘争という語義矛盾のようなサボタージュをしていたけれど、順法がサボタージュになるという話は外国人には理解不能なのであって、これを理解するためには列車をスムーズに運行することは順法に優先するという不文律が存在しなければならないが、名実ともに法治国家の住人には、そんなことは理解できない。実質的な法治主義は効率の敵なのである」(上記書。強調引用者)ということで、説得力のある指摘だと思います。日本は、この「不文律」の力で、実質的な法治国家であるところの他国でならば当然に生じるはずのコストを免れて、競争力を獲得してきた面があると思います。列車やバスがなぜ日本でだけこれほどの精度で運行されているのかは、法治主義だけでは理解できない。たいした罰もないのにこれだけ完璧に全員が動くなんて。鉄道会社にだけ適用される特別なひどい罰則でもあって、それで強制されているのかといぶかしがる外国人も、少なくありません。あるいは明文でない慣習法とか不文律の使い方がこれまでうまかった国民であるということができるかもしれない。

今回の事件にもこの順法闘争と同様の、現場の不文律と学習指導要領の齟齬をみてとることができます。卒業を優先する不文律に従って実に自然に、「効率的」に、やっていたら、「それは違法じゃないか」とよそ者に怒られる事態が生じたわけですから。

もっとも、学生時代と違って今では、日本の立法担当者に冒頭で指摘したような想像力が欠如したのも、こうした不文律の強さゆえ、というところがあるだろう、と同情的に思うところもありますが。鶏・卵ですね。

こういう事態は名実共に法治国家であれば、処理は実に簡単な話ですが、日本ではもめるはずで、そのもめ方が不文律の力の強さの現れであるとみることができると思います。

Posted by bun : 2006年10月26日 20:00

>gumonkozoさん

愚問ではないと思いますが、質問の意図によって幾通りの答えがある話ではないかと思います。
一つの答えは、1)も2)も、実際に左ハンドル車で右側通行をすれば、あるいは、あるいは車間距離が十分とれずカーブや勾配の設計においてリミッターを超える速度を想定していない日本の道路網でリミッターを超える速度を出せば、運転者自身が危険に晒されるでしょう。
あとは、そうした実利に結びつかないデザインや機能で満たされるオーナーの個人的な満足感については、それを馬鹿らしいと思う人もいれば、「左ハンドルでなければ外車を持つ意味はない」とか「200馬力の非力なNAよりも280馬力のターボだよね」とかいう人もいるわけで、そうした所有すること自体による個人の選好についてはどうぞご自由に・・・という辺りが一つの回答ではないかと。

ただ、先に述べたように、問題の立て方によって、色々な回答はできると思うので、これは飽くまで「一例」ですが。

Posted by 47th : 2006年10月26日 20:40

こんにちは。ご紹介いただき、ありがとうございます。
切り口がおもしろく、47thさんの視点も非常に参考になります。一口に事前規制から事後規制の社会へ、と言ってしまったら誤解があるかもしれませんが、小さな政府を標榜する以上は、法の内部化が社会に及ぼす影響やコスト問題なども今後十分検証されるべきだと思います。先日、NT法律事務所のT先生の講演を拝聴しましたが、さかんに「ソフトロー」の重要性をおっしゃっていました。法律家以外の方が研究主体になれる法学領域として、今後の研究成果が期待されるところだと思います。
また勉強させてください。

Posted by toshi : 2006年10月26日 22:06

>ろじゃあさん
この状況って、日本の企業法務が直面している(きた)状況と似ているような気がしたんですよね。
単にルール違反が悪いという話ではなく、ルールが機能するための前提条件は何なのかというところまで踏み込まないと、巻き込まれた子供達にもよく分からないことになってしまうんじゃないか、と。
もっと広げていえば、昨今の医療を巡るルールとも似たようなところがあるのかも知れません。

>bunさん
本当の法治国家とは何かというのは、開発関係で色々と考えたことでもあるので、その問題意識はよく分かります。
今、日本のニュースを見ていて、都心の学生へのインタビューをやっているのですが、この問題は、更に突き詰めれば、地方と都市部での学校以外の教育インフラの差を無視した単一ルールの無理というところにもつながってくるような気もします。

Posted by 47th : 2006年10月26日 22:12

>toshiさん
渡米後に日本でもソフトロー学会が活動を始めたりと、ソフトローへの注目も高まっているようですね。
今のところ、ソフトローの理論的基礎の中心はゲーム理論や比較制度経済分析なので、ローエコへの関心が高まるんではないかと、個人的にはそっちの方向でも期待しています。

Posted by 47th : 2006年10月26日 22:16

47thさんへ
ろじゃあが了知する限りではある特定の業界におけるコンプライアンス担当セクションの組織立ち上げや組織対応において同様の問題があったと思います(過去形かどうかは不知)。
「コンプライアンス=所轄官庁の規制枠組みの遵守」という「狭義のコンプライアンス」が原則とされる「世の中」というのは47thさんや「我々(^^;)」の知るコンプライアンスとは異なるんじゃないかと思うのですが、他方、その「狭義の世界」も「コンプライアンス」の中には「当然」入ってるわけで、ここの部分を除いて(というか視野に入れず)なされているお話というのも47thさんや「我々(^^;)」の知るコンプライアンスとはちょっと違うような感じを抱いております。

Posted by ろじゃあ : 2006年10月26日 22:44

こんにちは。
学校ぐるみで、大学に通るためなら何をしてもいいという姿勢が染みついているとしか言えない話ですね。

こんな学校で学んだ人たちは、自分の目的のためには何をしてもいいと短絡的な思考に嵌ったりするのかなあ。

Posted by とーりすがり : 2006年10月26日 23:52

こんにちは。うまくトラックバックできないようですが、記事をアップしましたので、時間があったらのぞいてみてください。しかし、記事をアップした瞬間にスパムトラックバック多数。「未履修問題」というキーワードに反応しているのですかね。

Posted by taka-mojito : 2006年10月27日 00:18

>ろじゃあさん
ここ数年でコンプライアンスは人口に膾炙するようになりましたが、ロビーイングはまだのような感じですね。
よいルールが作られるためには、情報を多く持つ主体が積極的にルール作りに関与していくことも重要なはずで、その意味で正当なロビーイングはコンプライアンスと両輪で、今回の場合も、指導要領と実態のニーズのズレについて早い段階でそれを止揚する動きがあれば、問題の様相は変わっていたのではないかと思います。
もっとも、日本の場合にはそもそも公私の使い分けや利益相反問題への敏感さの低さ、因習的な権益問題というのがあるので、「正当な」ロビーイングは難しいところはあるのですが・・・この本音と建前の世界のある中でのコンプライアンスの姿というのは、アメリカなどで議論されているものとは随分違うわけで、そこに自覚的である必要がありますよね。

Posted by 47th : 2006年10月27日 11:17

>とーりすがりさん
そういう人もいるでしょうし、逆に、自分にとって必要なものとそうでないものを主体的に選択することの必要性を学ぶ人もいるんではないでしょうか。
逆に、文科省の定めたことだからと、それが必要かどうかを考えることもなく教えられたら、外から定められた枠の中でしか生きられない大人になるんでしょうか?・・・そんなことはないですよね。
教育方針や、こういう事にあたったときの対応というのは、生徒の成長に色々な影響を及ぼすでしょうが、その影響の受け方は色々ですから、我々大人にとって必要なのは、出自のようなもので若者のあり方に予断を持たないことじゃないでしょうか。

>taka-mojitoさん
すいません。
最近TBの受付が悪いようです。MTの方なのか、サーバーのせいなのか分からないのですが、帰国して国内のネット環境に復帰してからサーバー移転なんかは考えてみようと思っていますので、それまでしばしお許し下さい。

>皆様
ちなみにtaka-mojitoさんの記事はこちらです。

Posted by 47th : 2006年10月27日 11:30

47thさんへ
ホント、どうもTB調子がよくないようですね(^^;)。
現状の枠組みの中でも結構やれることはあるのではないかと学校教育法等を見てみたのですが、工夫の余地はあるのではないかと思います・・・というエントリーをアップしましたのでご参考まで。
ただ、これを検討して思ったんですけど・・・理系の学生に世界史の単位を取得させる前提としての授業を常日頃から「工夫」することは可能だったかもしれないし、学習指導要領自体はむしろそれを前提にしているのではないかというところが結構含まれていると読めるところもあるわけで。
ちょっとこの点は考えてしまいました。

Posted by ろじゃあ : 2006年10月27日 13:30

例えば株式のインサイダー取引規制は
守らないほうがメリットがありそうですよね。
先生の論理からすると真面目に守っている
ほうがアホだという結論になるのでしょうか?

Posted by 無名 : 2006年10月28日 06:56

>ろじゃあさん
ご迷惑をおかけしています。

ろじゃあさんのエントリーはこちらになります。

>無名さん
面白い問いありがとうございます。
そもそもインサイダー取引については、個々の主体としてはインサイダー情報を外部に秘するのが合理的でも、皆がそれをしてしまうと市場の流動性が損なわれ、結果としては皆損をするという状況があるので、全廃すれば自然に合理的な線に落ち着く契機がない(寧ろ、囚人のジレンマ的な状況に陥る)という点で交通規制とはまた違う状況がある点は指摘しておきたいと思います。
ただ、例えば、条文の上だけで「インサイダーはけしからん」と定めて、実際にそれが守られるようなコストがかけられなければ、結局、「正直者が馬鹿を見る」ことになるかも知れません(アホというよりは、守りたいと思っていても、守ることで他人の分までコストを負担しないといけないので続けていけない)。
もっと生々しい話でいえば、弁護士が「それは趣旨からいえばダメです」といっても、そのアドバイスに従ってくれなかったり、OKといってくれる弁護士に鞍替えしたりということになれば、いくら条文で書いていてもそれは守られません。
なので、規制をする以上は、それだけのコストを覚悟しなくてはいけません。アメリカでいえば数千人のSEC職員がそれであり、原告代理人に多額のインセンティブを与えて民事訴訟を提起させるシステムがそれだということです。
翻って、日本は・・・というところは長くなるのでやめておきますが、規制を維持するためには相応のコストが必要となるという認識はインサイダー規制でも必要ということです。(但し、目立つ人間を解釈上のグレー・ゾーンで引っ張って一罰百戒というのは安易だと思いますし、別の副作用をもたらしていると思いますが)

Posted by 47th : 2006年10月28日 11:37

初めまして。ライブドアによるニッポン放送株の買い付けの頃にこのブログを知り、以来時々読ませていただいています。法学にも経済学にも興味がなかった僕が両方に興味を持つきっかけになりました。いつも丁寧なエントリを書かれていて、ためになります。ありがとうございます。

必修科目というルールを設定するなら、罰則なりその他適切な手段を使って「守ろう」という気を起こさせなければ、正直者が馬鹿を見るだけになってしまうので良くない、という点には同意します。

ところで、もしも必修科目を教えよう・受けようと思わせるようなインセンティブが罰則しかないのであれば、そこまでして必修にする必要はないのではないかとも思います。

必修科目というものを撤廃して、高校で何を教えるかは各高校の裁量に任せ、その代わり教える内容を公開することを義務付けた場合、どういう問題が考えられるでしょうか。

真っ先に思いついた批判は「日本国民の教養水準が下がる」というものですが……本当に? なんだか世界史の授業をすることで教養水準が高くなるなんて話、胡散臭く感じるのは僕だけでしょうか。それに、各高校の開講科目がきんと公表されて、それが容易に比較できる場合に、「入試で必要な科目しか教えません」と公表しているような高校に進学したい人はそんなにいるのだろうか、というのも疑問です。

法の話というよりも教育の問題になってしまう気もしますが、法という枠を超えて広い話題を法と経済の観点から扱っている 47th さんにこそ伺ってみたいと思い、差し出がましいコメントをいたしました。今後ともよろしくお願いします。

Posted by fcp : 2006年10月30日 13:22

一つ前のコメントの第 5 段落で、「きんと公開」→「きちんと公開」です。失礼しました。

Posted by fcp : 2006年10月30日 13:27

>fcpさん
仰るところは教育においてどこまで市場原理的なものを入れるのかという問題なのだと理解しました。
開示の上で後は選択させるというのは一つの考えだと思いますが、なお、躊躇せざるを得ないのは、多くの場合、子供の教育機関選定の選択は制約されているという点です。
例えば、学校選びにおいて相当の意思決定への影響力(特に経済的な面を考えれば教育機関にとってはクライアントは寧ろ親といえるかも知れません)を有する親の選好と子の選好が一致するとは限りません。また、選択の幅は子供自身の能力よりも親の能力や環境に左右されてしまいます。
極端な例(どこかのテレビドラマのような話)を考えれば、離島で子供は医者になることを夢見たとしても、その島には数学なんかより漁業を教えて欲しいと願う親が多く、市場原理に従って数学を提供する学校はできないということもあるかも知れません。
それも一つの道かも知れませんが、たとえ親の選好やその時点での子の選好と反していても、一定の基礎的な教育を必修化するというのも、あながち不合理とは言えない気がします。
もっとも、高等教育に進めば進むほど、国家介入の必要性は低くなるわけですし、また、そうした子の選択権確保のための必修と現実で求められている教育のバランスは常に意識する必要はあると思います。
・・・と、長くなってきて、これ自体一つのエントリーを立ててもいいような気もしてきましたが、教育における国家の介入と市場原理の導入という場合には、こうしたバランスを自覚的に考えていくことが大事な気がしているところです。

Posted by 47th : 2006年10月31日 00:48

こんばんわ。
47thさんのおっしゃることを実証するコメントが出てきました。
先ほどのNHKニュースで出て来たのですが、熊本は今のところ履修漏れがなかったのですが、そこの教育長のコメントが次のとおりでした。
「5年ほど前に履修科目を履修していないことが内部で問題になったので、基本的に学校の主張を鵜呑みにせずに抜き打ち検査も含め、確認を行っているので履修漏れは発生しない。」
やはり、規制を遂行するときには、それを遂行する動機か遂行させるべきコストは必要なんですねぇ。

 個人的な考えでは絶対に世界史(特に近代史)は必修にするべきだと思います。文型の方にとっての数学のように、必要ないと思ってもやっておくべきものでしょう。まぁ、国によってその差は大きいので、何が必要なのかについての議論はいるんでしょうね。

Posted by うみゅ : 2006年10月31日 09:46

47th さん
お返事ありがとうございます。「市場原理」という言葉が出てこなくて長々と書いてしまいましたが、ご推察の通りの意図です。
以前は、何が生徒の将来に役立つかを国が決める (悪く言えば「押し付ける」) ことに対して若干の違和感がありました。また、その具体的な内容にも不満がいろいろありました。そこにもってきて、義務教育ですらない高校の必修科目の不開講という形で問題が取り上げられて、「大学入試偏重はけしからん、必修科目を何だと思っているんだ」というような意見をテレビやよそのブログで見聞きして、ますます違和感が強くなっていたのですが、必修科目という制度の意義をようやく納得できそうです。ありがとうございます。

Posted by fcp : 2006年11月01日 12:31

>うみゅさん
そうなんですか。
それで熊本の高校の進学率や授業負担(教師側、生徒側)はどう変化したのかというのも見てみると興味深い話が出てきそうですね。
何れにせよ、少なくとも5年前には認識されていた問題だとすれば、何故、今になって表面化してしまったのか・・・何ともやりきれないですね。

>fcpさん
こちらこそ、いい問題提起を頂きありがとうございます。
「必修」とか一定の水準の設定というのは、ある程度は必要なんだろうと思いますが、どの段階で、何を(どこまで)「必修」とするのか、そのインセンティブ付けをどうするのかは、より深く考えないといけないと思います。
世界史が必修で、日本の憲法や政治制度を教える現代社会・公民が必修でないのはケシカランとか、確率・統計を必修にしないのはケシカラン、いや、物理法則こそ・・・と、知っていた方がいいに超したことはないことはいくらでもあるし、それぞれの人の個人的経験に大きく依存しているわけです。
そのことを踏まえた上で、本当に「必修」に値するものなのかは問われるべきだと思います。

Posted by 47th : 2006年11月08日 14:12

 
法律・経済・時事ネタに関する「思いつき」を書き留めたものです。
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