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誰が屏風の虎を追い出すか?

通常営業に戻るといいながら、また水伝絡みになってしまいますが、finalvalentさんの日記経由で知った『「水からの伝言」を信じないでください』と言うのならやるべき事は一つだろう?(音極道茶室)が興味深かったので、みんな知っている(よね?)一休さんの屏風の虎退治のお話と絡めて、ちょっと軽めで。

先日紹介した田崎教授の「『水からの伝言』を信じないでください」のQAに、次のような一節があったのを覚えているでしょうか?

もし、「実験に対しては実験で反論するのが科学のルールじゃないのか?」と思われている方がいらっしゃれば、それは、まったくの考え違いです。 ・・・もし、これが科学者どうしであれば、話は単純です。 これまでの考えとは違う新しい説が本当かどうかが問題になるときには、新説をだしている科学者の側に、説得力のある証拠をだす責任があります。

これに対して音極道茶室さんは、次のように仰っています。

で、いざ「キッチリ叩く」となった時に、「新規なことを主張する側が立証責任を負う。」などと「科学者の論理」を持ち出すのはナンセンスこの上ない。相手はそもそも科学者ではないのだし、それよりも「科学者側から反証実験はしない」と言われて一番喜ぶのは似非科学を提唱する側だから
原理原則を理由にして敵を喜ばせてどうする。つくづく学者というのはケンカが下手だ。

と、これを拝見していて思い出したのが、一休さんの屏風の虎退治の話です。

もしかして世代の違いその他で一休さんの屏風の虎退治をの話をご存じない方のために、Wikiによる解説を引用しておきます。

「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。

子供の頃はダジャレ系の「このはしわたるべからず」の方が分かりやすく、こっちの話は余りピンとこなかった・・・というか「それでいいのか将軍様!」という感じだったんですが、今考えると、もの凄い深いお話だなという気がするわけです。

どの辺がかというと・・・この話が教えてくれるのは、「誰が虎を追い出すか」を変えただけで、完全にとんち比べの勝ち負けが入れ替わってしまうということです。


元々、屏風の虎なんか退治できないわけで(※)、客観的な状況というのは何をしても変わりません。ところが、将軍様と一休さんという人間同士のとんち比べというシチュエーションでの勝ち負けは、「退治は一休さんの仕事」ということに含まれていなかった「追い出し」という仕事の役目をどちらに押し付けるかでがらりと変わってしまいます。

実は、この「とんち比べ」のエッセンスをひたすら追及して実際に日々使っている分野というのが、世の中にはあって・・・まあ、もったいつけることもなく、それが法学だったりするわけです。
とりわけ、ドイツから始まって日本にも輸入された「要件事実論」というのは、この「虎を追い出す役目」の押し付け方一つで勝ち負けが全く変わってしまうことを避けるために、「虎を追い出す役目」をどんな場合に誰が負うのかを、ことこまかに定めようとしているわけです(※2)。

余談になりますが、弁護士というのは、こうした「虎を追い出す役目の押し付け」を含めて、少なくとも一見での議論に負けないためのテクニックというのをたくさん持っています。なので、原被告の主張書面を読み比べる限りでは一見議論が拮抗していることもあるんですが(※3)、プロ同士から見ると印象が違うということも出てくるわけです。

法学の場合、訴訟というケース・バイ・ケースの事案を扱う中でこの辺りを独自に精緻化してきたわけですが、「虎を追い出す役目の押し付け」の持つ重要性はあらゆる学問で認識されているわけで、それが「既存の学問に退治(反証)の役目を負わせるのであれば、まずは虎を追い出してみよ(立証してみよ)」というルールなわけです。

これは、議論の進め方一つで新しい説がたまたま勝ってしまうという事態を避けるための長年の知恵で(※4)、むしろ「ケンカ下手な学者がケンカに負けないための知恵」ともいうべきものではないかという気がします。そういう意味で、田崎教授が「虎を追い出す役目」を負わされないように注意深く、上記のようなQAを用意したのは慧眼かなと思うわけです(※5)。

というわけで、反証をしないというのは、それ自体は極めて正しい態度だと思うのですが・・・問題は、「屏風の虎退治」の場合は、勝ち負けの判定者である将軍様は一休さんの返しの巧みさを理解できるだけのリテラシーをもっていたし、訴訟の場合は弁護士の用いる立証責任の押し付けのテクニックを知っていて、それにごまかされないリテラシーをもった裁判官が最終的な勝ち負けを判定してくれるわけです。

これに対して、「水からの伝言」のような場合には、その判定者である一般人とか、更にいえば児童というのは、まさに「水からの伝言」を信じてしまう程度に、そうしたレトリックにひっかりやすい人々なわけです。
例えば、「屏風の虎退治」でいえば、機転の利かない新右衛門さんが「これこれ一休さん、将軍様にそんなことを言うものではない。虎の追い出しも一休さんの役目でいいではないか」とか、将軍様が「何屁理屈をこねてるんじゃぁ」(って、とんちを挑んだのはあんたでしょ)と逆ギレしたら万事休すなわけです。

その辺りで、①既存学問側が「虎の追い出し役」を引き受けてしまい、(その結果、そもそも相手側の主張立証の内容が明らかではないので)完全な反証などしようがないことを逆手にとられて、「既存学問の反証は失敗した」と相手側に声高に主張されてしまうリスク(※6)と、②学問的にいくら意味がなくても、一般人にアピールするような「反証」をしてみることによって思いとどまる人が現れるメリットをどう評価するというところが、最終的にはポイントになるんでしょうね。

ということをつらつら考えると、最終的には音極道茶室さんのところのkumakuma1967さんのコメントに一票をということで。

 科学者としてどうかって事になると、反証実験のしようがないんだけどさ。
でも、人として、今日学校でこの話聞かされてきた小学生にであった時に、反証実験を試みてるデータを示してる人がいるとうれしいかもね。
たぶん、それもまた科学じゃないんだろうけど。

   

(※)もちろん、「退治」というコンセプトを勝手に変更して、屏風を破いたり、燃やしたりして、「退治したことにする」ことはできるわけですが・・・きっと高価な屏風なんでしょうから、そんなことをしたら自分で言い出したかどうかなんて構わずに専制君主の将軍様に切り捨てられるかもしれないわけで、それはちょっとリスキーかな、と。

(※2)ロースクールや司法修習生として現に「要件事実論」を学んでいる方向けに、柄にもなくちょっとしたアドバイスでいうと、実務では厳密な要件事実論によるわけではなく、双方共に自己に有利な証拠を持ってくるのが普通なんで、勉強した要件事実論がそのまま役に立つことは少ないかも知れません。ただ、間接事実や事情的なもの、更にいうと訴訟以外の場面での交渉などでも、「誰に虎を追い出させるか」ということはしばしば極めて重要になってきます。
相手が使うそうしたテクニックにごまかされることなく、また、(使いすぎはよくないのですが)自分でもそうしたテクニックをうまく使えるようになるという意味では、「要件事実論」、とりわけ、どうやってその要件事実の振り分けを正当化するのかという部分は、実務法曹になるのであれば、たとえ訴訟に関わるつもりがなくても重要になるので、手を抜かない方がいいですよ。

(※3)更にいえば、相手の筋の悪さを際だたせるために、わざと木で鼻をくくったような対応をすることもありますしね。

(※4)これに対しては、「本当は正しいはずの新説」が最初の立証責任を果たせないために日の目を見ないという批判があるかも知れません。ただ、「最初の立証責任」すら果たせないものが「本当は正しい」確率が極めて低いであろうということと、「既存の学問」はその学問の過去の歴史の中で同様の検証に耐えてきたものであって、その意味でそれらが新説よりも正しくない可能性は低いということからすれば、「本当は正しいはずの既存学問」が誤って淘汰される危険性よりは遙かに低いということは言えるはずです。(まあ、典型的なType I errorとType II errorの話ですが)

(※5)もっとも、音極道茶室さんのコメント欄から辿った事象の地平線(山形大学天羽助教授のブログ)での水伝に対する反証の適否の話を拝見すると、科学者の側からも反証すべきではないかという議論はあったようです。
このエントリーの中での天羽先生のコメントが自然科学の世界での立証責任転換の危険性を具体的に指摘されていますが、これまた慧眼というかケンカ上手だな、と(笑)。

最初の立証責任を主張する側に課すというのは、そうしなかったら、実験条件の細部でとことん言い逃れされて、追試する側に大きな無駄を発生させる可能性が 高いからです。「追試をしましたが結果は否定的です」「細かい**が違ってます」「それも押さえてもう一回やりましたがダメでした」「まだ○○が違ってる でしょ」のループになりかねないってことです。で、その間、相手は「実験を再現できない無能な科学者グループ」「実験で否定されていないので主張は正し い」と宣伝しまくることもできますよ。
まず最初に、必要な情報を論文の形で全部出させてからなら、検証実験で何をすればいいかがはっきりします。そうでない状態で検証実験をするのは、おそらく相手に逃げ道を与えるだけではないですかね。
つまり、反証するタイミングは、相手が科学の土俵に完全に乗った時になるだろうということです。それまでは、科学を装っているだけの相手の土俵に踏み込む必要はないし、却って相手に言い逃れの余地を与えてしまうのではないですかね。 

 

(※6)すぐ思いつくやり方としては、例えば・・・

水は人の嘘を見ぬきます。
「水からの伝言」を信じないエライ学者の人たちが、「ありがとう」「ばかやろう」という言葉だけを変えた水で結晶に変化が出るかを実験したことがあります。
ところが、結晶の出来方に違いはできませんでした。
実験は失敗したのです。
何故でしょう?
それは、水は人がその言葉を心から言っているかどうかを見ぬくからです。
エライ学者の人達は、水にそんな力なんてないと最初から馬鹿にしていたから、心から「ありがとう」という言葉をかけることができなかったから、実験に失敗したのです。
「ありがとう」という言葉をいうときに、それを心から言わなければ、その言葉は伝わりません。大事なのは、言葉そのものではなく、そこに込められた気持ちなのです。

お遊びとしてもう一歩踏み込んでみると・・・

私たちはエライ学者さんたちが実験したのと同じ条件で、心を込めて「ありがとう」と声をかけ続けた水と、言葉だけで心のこもらない「ありがとう」という声をかけ続けた水の結晶の出来方を比較してみました。
その結果、驚くべきことに、心を込めて「ありがとう」と声をかけ続けた水ではきれいな結晶ができたのです。
こうして、エライ学者さんが決めた「科学的な条件」の下でも、水はちゃんと私たちに伝言を伝えてくれることが科学的に確かめられたのです。

というお話ですかね。
もちろん、たくさんのサンプルの中で、どれに心を込めて、どれは込めなかったは、声をかけた人だけが分かるお話なわけですが、「今の科学で心の中が確かめられないからといって、それがないということにはならない」と・・・悪のりが過ぎたようです。

Posted by 47th : | 12:19 | Foundations of Law

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コメント

関係あるのかないのかわかりませんけど、政治的議論では「批判するだけでなく具体的に対案を示せ」と迫ってくる御仁が多いようですが、これはじっさいそうした義務は批判する側にあるのでしょうか?

Posted by すなふきん : 2006年11月11日 20:31

>すなふきんさん

印象だけですが、政治の世界は、自然科学でいうところの新説と既存説のような関係が成立していないんで、単に時の与党・野党とうい関係だけでは立証責任の配分は決められないような気もしますね。

ただ、法案の承認とかを求める場面では、やはり求める側が立法事実に関する情報を多く持っているわけですから、その必要性を立証する責任を負うというのが、ひとまずは妥当な気がします。

もっとも、最期は判断権者が誰かという話になってくるので、世論形成の場面で、一般国民やマスコミといったギャラリーを意識すれば、多少強引でも立証責任の押し付けをするというのは効果的になり得ますよね。
権力の番人を標榜する方々が、この程度のレトリックに騙されないリテラシーを持っていれば、この戦術は無駄なわけで、却って信用を失う危険もあるわけですが・・・さて、日本の現状はどうなっているのか?というところでしょうか。

Posted by 47th : 2006年11月11日 21:05

例えば勝訴してもかえって世間から反発されるから、勝てる裁判でも和解することってないでしょうか。誰が屏風の虎を追い出すかではなく、誰を味方にするかじゃないでしょうか。一休さんはとんちに勝ったのではなく、より多くの町民の共感を得たのではないでしょうか。

Posted by fuji : 2006年11月11日 23:06

>fujiさん

和解一般の話でいえば、直接の金銭的なものだけでなく、レピュテーションを考慮に入れることはあるでしょうし、一休さんの話も実話かどうかはっきりしないので、普通はWikiのように「義満を感じ入らせるかどうか」という勝負と考えられていると思いますが、義満が感じ入らなくても町民は共感するという話にしてもいいとは思いますが(でも、この話で室町の町民の得る「共感」って何でしょう?義満を凹ませたんで、胸がすっとしたというぐらいのことはあるかも知れませんが、義満を負かすことができなかった場合、どこで共感するんでしょう?)・・・
何れにせよ、今回の立証責任の分配が議論の趨勢に及ぼす話とは別次元のお話という気がしてしまうのですが。

Posted by 47th : 2006年11月12日 00:54

それとも、「味方につける」ということのいう意味が、本文で書いたように、必ずしも論理的な議論構造に慣れていない判断者にアピールするために、敢えて泥仕合(水伝でいえば反証)に踏み込むべきではないか、ということなら、私もその戦術の可能性は否定しませんよ。
ただ、結局、そうなるともう泥仕合になって、どちらが撤退せずに粘るかというガッツとかプライドの勝負になってしまうんで、そうすると、泥仕合に付き合うモチベーションの低い真っ当な議論をしたいと思っている側の方は負けてしまうんで、やはり踏み込まないか、あるいは、先に撤退ラインを明らかにしてそれ以上は深入りしないというのが賢明かなという気がするわけです。

Posted by 47th : 2006年11月12日 01:13

いえいえ私が言いたいのは論理的に勝負すればするほど、論理的に言い負かせば負かすほど反感をかって結局勝ったつもりが何だか負けた様な気がすることもあるでしょ、ってことなんです。水伝を信じる人は占いを信じているのと同じで、それを非科学的だと論証したところでそれはもう勝ち負けの話ではなくなるということです。だったらもっと共感できる話をしてよ、って素人は思うんですね。結局危ない方向に進まない程度に見守るのが得策なんではないかと。

Posted by fuji : 2006年11月12日 03:14

>fuji様
>水伝を信じる人は占いを信じているのと同じで、それを非科学的だと論証したところで

横から失礼いたします。水伝は科学を装っているので、その擬装部分について科学からツッコミを入れるのは有意義だと思います。なにしろ水伝のステキ科学を前提として認めれば、既存の科学体系が根こそぎにされるような超科学としか思えませんので(これを「コペルニクス的転回」と言ったら悪質な冗談でしょうか)。
できる限り補助線の少ないエレガントな説明をとるべきだとかオッカムの剃刀っぽくなりますかね。鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん、ゴチャゴチャした泥仕合に踏み込むまでもなく門前払いですっぱり解決できる道があるならそっちを選ぶ、というのは法律論と親和性が高いですね。

Posted by ft : 2006年11月12日 04:04

>すっぱり解決できる道があるならそっちを選
>ぶ、というのは法律論と親和性が高いですね
水伝を完全否定することが双方にとって大切なことでしょうか。win-winな解決があるならそちらを選択すべきでないでしょうか。ADRも注目されてますし、DIPファイナンスなんてのもありますよね。学者同士で水伝を否定しても悪しき方向に進まない限りは声高にそれを言う必要性は無いように思います。

Posted by fuji : 2006年11月12日 05:31

>fujiさん
「win-winの道があれば」それをとるべきということは誰も反対しないと思いますよ。
ただ、その道を探すためのコストと、もしそれが見つからなかった場合のリスクを誰が負担するのかという点を見逃していると、現実のシチュエーションには適用できません。
また、水伝の場合には、少なくとも田崎先生は科学者以外の人に対して「科学的に正確な情報を与える」という試みをコストをかけてやっているので、そうしたwin-winシチュエーションを探すためのコストをかけていないわけではありませんし、私なんかから見ると、「大切なものは水に任せるのではなく自分で探しましょう」というメッセージは、道徳教育という点からでもとても力強いもので、科学的真実と道徳のあるべき関わり方の一つを提示しているという意味で、win-winの道を示したとすら言えると思いますよ。(もっとも、それを水伝論者、特に道徳教育全体ではなく、水伝という話に特定しているコミットしている論者がwinと受け取るかは別だと思いますが。)

>ftさん
外から見ると門前払いですっぱり切る方を好んでいるように見えるかも知れませんが(笑)、実は、法律家自身は訴訟そのものが持つ「ガス抜き機能」というのを結構重視していて、泥仕合でもそれがガス抜きになるのであればやらせておくということもあったりするんですよね。
逆に、泥仕合をさせることでガスが抜かれるどころか、よりガス圧が高まりそうなものについては、すっぱりと引導を渡します。
私も、断片的にしか見ていませんが、「水伝」の場合は、後者のような感じかなという感触はしています。

Posted by 47th : 2006年11月12日 11:40

なんか想定外の話題に進んでるみたいなのでこっそり質問させてください。もともとの発端は「もう経済成長はいらない」という発言に対して各方面から議論が噴出して来たんでしたよね。その経済成長なんですが、例えばソフト会社が会計ソフトを1年かけて作成し販売しようとしていて、一方でネット上の有志達(≒無限大)が×1ヶ月(≒ゼロ)で=それに勝る会計ソフト(Something)をつくりフリーでソフト会社に先駆けて公開しました。よくできたフリーソフトだったのでソフト会社の会計ソフトの方は完成して販売しても全く売れませんでしたし従業員は大幅に解雇されました。こういった現象は経済成長にどのように評価されるのでしょうか。

Posted by fuji : 2006年11月13日 07:53

水伝のことはよく分からないのですが、根っこにあるのは「子供なんて無知だから、嘘だろうが本当だろうが適当なこと言って、それでコントーロルできるなら、それでOKだ」という教師、より広く大人の都合なんじゃないでしょうか。その一つの現れのような気がするんですけど

Posted by ふま : 2006年11月13日 09:48

>fujiさん
全ての流れを書き出すと大変なので、おそらくポイントは前者は経済成長の数字の中に取り込まれるのはイメージできるけど、後者のパターンは経済成長の数字に取り込まれないんではないかという疑問じゃないかと勝手にポイントを絞ってお答えしてみます(ポイントが違ったら、また教えてください。あと、私はマクロの経済成長の推計については素人ですので、それこそ誤解があるかも知れないので、そういう考え方もあり得るぐらいで、興味があれば、これをヒントにご自分で調べて見てください。)。
確かに無償の労働そのものには賃金が支払われないので、その時点では数字に表れませんが、そのソフトが本当に価値をあげるものであれば、それが使われることによって生産性があがるので、それはGDPなり経済成長に反映されます。
逆に、「無償」で開発した人の努力の分、GDPや経済成長は水増しされているんではないかと思うかも知れませんが、bewaadさんがよく強調されているように、見かけ上のコストが払われていなくても、「機会費用」(その時間や労力を他に振り向けていれば得られたであろう価値を得られない事による損失)は発生します。そうした有用なソフトを開発するのに貢献できるだけの能力のある人であれば、その時間を収入を得られることに使えるので、その分はコストとなっているので、やはりGDPなり経済成長にコストとして跳ね返ってくるわけです。

お金の動きそのものがなくても、理論的には、こうやって経済活動というのはGDPや経済成長にとりこまれていくわけです(ちなみに「ゆとり」に本当に人々が価値を見出すのであれば、それもまた経済活動に反映されていきます。リゾートで成り立っている国や経済を考えてみて下さい。そうした経済成長が止まるのは、人が人との関わりをやめたときではないかというのが私の印象です)。
理論としては把握されるとしても、その「測定」が完全かといえば、それは完全ではありません。けれども、そもそも社会活動を計測することは凄まじいコストがかかるわけで、そこを統計学の知見を用いながらコストとベネフィットのバランスがとれた計測手法を地道につみあげてきた実証の歴史があるわけです。

なので、そうした理論面、実証面での経済学の知見に言及せずに、あたかも「今までの経済学者は大事なことを気づいていない」と言われれば、(芸風もあるんでしょうが)「怒る」方が出てくるのは、私には分かる気がするわけです。

ただ、私がその「怒り」の感覚にシンパシーを覚えるのは、次のエントリーで書いたように経済学の歴史的な文法というかお作法にコミットしているからなので、それにコミットしていない方は逆に反発を覚えるのかなという気はしています。

Posted by 47th : 2006年11月13日 11:46

もう一つ、後段に解雇の話があるようですが、競争者同士での競争というのはネット時代以前から普遍的にあるわけで、ビデオでもβは使われなくなったり、セガサターンはいなくなったりということはありますよね。
一つは、こうした競争により、よりよい技術が生き残り、非効率的な企業が退出することによって、生産性が向上します。
解雇によって生じた余剰人員が生じることで、新興産業や新興企業、特に労働集約型の産業は、その生産をあげることが可能になります。

もちろん、そうした経済サイクルの調整には時間がかかり、その調整期間の苦しみ(余談になりますが、これを緩和する意味でも消費者金融は重要なのですが、それをするとまた長くなるので(笑))や、サイクルに取り残されてしまう層は出てきます。
そうした層はGDPや経済成長そのものには出てきませんが、社会保障政策を実施する過程で当然に把握されていますし、経済学では、そうした社会保障政策やそこにおける政府の役割の重要性についても把握されています。
ちなみに、社会保障や所得の再分配を考えても、総体としてのパイ(GDP)の拡大は重要です。パイの大きさが大きくなれば、その分配における対立の解決は相対的に容易になります。(年金問題を思い出してください。)
なので、上のような層が生まれるから経済成長が悪いというのは、私もやはり筋違いだと思います。

(最後に、fujiさんの質問とは別の文脈での蛇足で、分かる方には分かるという話ですが、上のように競争による企業の退出のような話を書くと構造改革支持にように思われるかも知れませんが、経済の自然のサイクルの中で上のような現象が生じるという記述的な話と、それを不況を用いて人為的に促進すべきかという規範的な議論(あるいは、そうした自然のサイクルが行き詰まった場合に創造的破壊が必要かどうかという議論)は、私は別次元の問題だと思っています。で、後者については、マクロ音痴の私としては結論は留保しています(まあ、リフレにシンパシーを抱いていないといえば嘘になりますが(笑))、ということでご理解いただければ幸いかと)

>皆様

あと、私の経済学の知識・理解は極めて偏っていて、マクロについては、本当にさっぱり分かっていない(IS,LMも使いこなせていない)ので、致命的な間違いがあれば、ご指摘頂ければ幸いです。

Posted by 47th : 2006年11月13日 12:05

>ふまさん
仰るとおりだと思うのですが、悲しいのは、騙されるのは子供に限らないという辺りではないかと思います。
水伝でも、世の中にはその発想の延長上での大人向けの「水商売」というものがあるようですし、大人向けの似非科学とそれを利用した各種の(宗教に限らない)「布教」は結構あるようです。(私もこの辺りは幻影随想さんのところで勉強させているだけなんですが)
もちろん、大人になるとそれにひっかかる人は少なくなるが、その代わり一度ひっかかるとその思い込みを覆すのは逆に大変なんじゃないかという印象もあるところです。

Posted by 47th : 2006年11月13日 12:18

>大人になるとそれにひっかかる人は少なく
>なるが、その代わり一度ひっかかるとその
>思い込みを覆すのは逆に大変なんじゃない

そうすると子供のうちに無菌状態におくよりも
という考えもありうるのではないか、と。そこら
辺の大きな意味での教育のデザインはどんな
感じがいいのかは、ちょっと具体的には分から
ないんですけどね。

Posted by ふま : 2006年11月14日 01:59

>ふまさん
そうですね。
思想以外の点でもいえますが、無菌状態が同じぐらいに危険というのは同感です。
水伝も、それを真実として教えるのではなく、それを巡る論争そのものを世の中で真実を探すことは難しい例の一つとして使うのであれば、非常に有益な気がしますし。
ただ、教育のデザインというのも、その根本的な発想の問題や、現実的なリソースの問題もあるので、これはこれで難問ですよね、確かに。

Posted by 47th : 2006年11月14日 09:49

>おそらくポイントは前者は経済成長の数字の中に取り込まれるのはイメージできるけど、
>後者のパターンは経済成長の数字に取り込まれないんではないかという疑問
まさにその後者のパターンそれ自体に注目してほしいのです。全世界の人が瞬時に作り上げるその行為自体を。47thさんのブログで私が質問すれば瞬時に答えが返ってくること。47thさんが問題提起されたことに各方面から瞬時にいろんな意見がコメントされること。リアルな世界なら、まず、47thさんにアポをいれ何日もまって運よく面談できて相談料を払ったり又は47thさん執筆の本を本屋さんに出かけて購入したりして47thさんのお考えなりがようやく理解できるかもしれない。それがブログではトラックバックやコメントで47thさんだけじゃなくもっと多くの方のご意見を拝見できる。それもたった1日程度で。私の様な素人はそれは革命的なことの様に思うのですが、それが一方で日経新聞の一面でGDP年率2%成長とでかでかと載っても、ハア?っていう気分になるんです。経済成長って何なのよって気分に(それでも14日の日経経済教室には経済統計改革の視点としてサービス化反映を、といったことも言われてるのでそのタイミングの良さには驚きますけど)。

Posted by fuji : 2006年11月14日 10:02

> 水伝も、それを真実として教えるのでは
> なく、それを巡る論争そのものを世の中で
> 真実を探すことは難しい例の一つとして
> 使うのであれば、非常に有益な気が
> しますし。
そうですね。頭ごなしにダメだとやらずに、
水伝を子供同士の議論のタネにするとか、
そういうのもありなのかも知れませんね。
なかなか判断の難しいところですけども。

Posted by ふま : 2006年11月14日 10:50

>fujiさん
逆の考え方はできないでしょうか?
確かにネットやブログによって通信コストは飛躍的に下がった。けれども、少しぐぐればいくらでも手に入る情報の中で、どれが信頼に足り、どれが信頼に足りないかを判定するコストは高まった。あるいは、結局、人々はネットにちらばる情報を自分に都合良く集めるようになったために、逆に知識の分断化は進んでしまった・・・
そうした見えにくいコストが、実感と数値のズレなのかも知れない、と。
実感という面でいえば、私の専門分野でいうところの企業法務の知見をダイレクトに伸ばしたいのであれば、おそらくネットを彷徨っている時間を使って、専門書籍を読んだり、案件をこなす方が効果的でしょう。
ネットが役に立つ場面は勿論ありますが、それが生産性の向上に結びついているかどうかは立ち止まって考えるべき話だろうと思います。
逆に、インドなどは、ネットによる通信コスト低下を活かして、欧米企業の電子データ処理のアウトソーシング・センターとしてGDPを着実に伸ばしています。
ひょっとしたら、「2%」という数値の方が客観的に状況を現しているのかも知れない、と、fujiさんには申し訳ないのですが、私はそういう非常に慎重な考え方をするわけです。
もちろん、現実を理論が適切に記述しているかについては不断の見直しが必要です。ただ、個々の人間はバイアスの影響を受けやすい生き物です。
実感が正しいのかどうかを検証するための一つの効果的な手法が、長年の学問の蓄積と照らし合わせることではないかというのが、私の基本的スタンスなので、余り面白くない話になってしまうんですよね。

Posted by 47th : 2006年11月14日 11:06

なるほどです。
>実感という面でいえば、私の専門分野でいう
>ところの企業法務の知見をダイレクトに伸ば
>したいのであれば、おそらくネットを彷徨って
>いる時間を使って、専門書籍を読んだり、案
>件をこなす方が効果的でしょう。
ごもっともです。

Posted by fuji : 2006年11月14日 11:20

>fujiさん
逆に納得されてしまうと不安になってしまう天の邪鬼な私としては、自分で言っておきながら何なんですが、自分の専門分野の生産性を伸ばす方向で突っ走ればいいのかというのも、また立ち止まって考えるべき話で、私自身は、ネットでの道草とかfujiさんを含めた他の人たちの対話から得られるものも貴重だと思ってるからやっているのも確かなんですよ。
でも、その貴重さを専門分野につなげることの難しさもあることは意識しておかないと、例えば、経済学や開発の教科書や論文を読んで勉強したりということとつなげないとネットで議論が成立しているかのような体裁で満足して終わりになっちゃうこともあり得るんで気をつけないといけない、とネガティブ面を考えてしまうわけです。
で、このネガティブ面を考えるというのは、もう職業病なんで(笑)、私のネガティブ・チェックは半分(かそれ以上)に割り引いて受けとめてもらうと助かります。

Posted by 47th : 2006年11月14日 11:30

一区切りされるとのコメント拝見しました。感謝の気持ちでいっぱいです。neon98さんのコメントを拝見すると、もしかしたら・・・と思うのですが新しい形で出会えるのを楽しみにします。

Posted by fuji : 2006年11月14日 17:38

 
法律・経済・時事ネタに関する「思いつき」を書き留めたものです。
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