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異種格闘技戦の文法

水伝絡みのエントリーが続きましたが、この話が何とも言えず私を引きつけるのは、いろんな意味でブログ上で展開される意見交換とか、もっというと論争で起きていることに示唆的だからです。

今さらながらですが、書き手の素人/玄人分布もさることながら、受け手の素人/玄人分布もものすごいばらけているわけで、そういう意味で、例えば法律専門誌に論文や記事を書いたり、最初から興味のある人しか手にとらないであろう本を書いたりということとは違う・・・と、この辺りまでは、そういうコミュニティでの議論に慣れ親しんだ人でもすぐに分かるんで、前提知識のない人にも分かりやすいように書こう、とか、前提となる理解部分で重箱の隅をつつくようなことをやめよう、ということは心がけるんだと思うんですよね。

でも、慣れるのが難しいのが、誰が議論の決着をつけてくれるのかというところなのかな、と。


何だかんだアカデミックな世界では、その世界で共有されてきた「よい議論」「悪い(ダメな)議論」の判断基準というのがあるんで、例えば、誰も反論 をやらない論文があったとして、それが「誰も反論できないほど完成度が高い議論」なのか、それとも「反論する価値もないほどダメダメな議論」なのかは、全 員一致とは言いませんが(だって書いた人はそれだけの価値があると信じているわけですから)、自ずからそのコミュニティの中での評価というのは固まってく るような印象があります。

ところが、そのコミュニティを一歩外に出てしまうと、評価軸が共有されていない世界というのは無限に広がっているわけです。

でも、それでもブログが普及する前は、そもそも素人がある専門分野に言及するチャンネルというのは限られていて、多分、マスメディアにとりあげられ るカギ括弧付の「専門家」が多少イタイことを言っていると思っても、まあ気にしないようにすれば気にしないでいられたんじゃないか、と。
そもそも、そうしたカギ括弧付の「専門家」の権威というのは、究極的にはアカデミックなコミュニティの権威に根ざしているわけなんで、彼らとしても余りにもアカデミックなコミュニティを敵に回してはいけないわけで、彼らとしても、(まあ、意図せずに虎の尾を踏んでしまうことはあっても)そのコミュニティの文法をあからさまに無視することには遠慮があったんじゃないでしょうか。

ところが、ブログの世界になると、リアルな世界でのアカデミック・コミュニティからの制裁を回避しながら発言する人や、そもそもリアルでもそのアカデミック・コミュニティに負い目を全く持たない人が発言することが頻度的にも多くなる上に、しかも、その発言が少なくともネット上では「いい議論」としての扱いを受けているように見える(※)ことが多くなってきたのかなぁ、と。

そういう意味でいうと「専門家」と「素人」という知識・理解の多寡という対立軸(※2)というよりは、そうした既存のコミュニティの文法に対するコミットメントの度合い(※3)が違うんじゃないかという気がしてきています。

こういう場合、既存のコミュニティの文法の下では決着がついていなければいけないはずの議論が生き残っているのを見ると、最初は途惑い、次にその相手に腹が立ち、最後は、その文法を理解していないギャラリーに腹が立ってきてしまうという段階を辿ることが何となく推測されたりします。

まあ、それ自体はどっちが悪いという話でもないんですが、そうすると、結局「オウムは森へお帰り」ということで、アカデミックなコミュニティとブログ上の言論の断絶は深まっていく可能性もあるような気もするところです。

night_in_tunisiaさんのコメントに返事したときには、もっとアカデミックな人々がブログに参入してくるんじゃないかという希望的観測をしていたんですが、ひょっとしたら逆の方向への慣性が働く可能性もあるような気もしてきたところです(※4)。

ネットから撤退することはないとしても、それはアカデミックなコミュニティがネットに場所を移すだけであって、そこにあった外の世界との敷居は残ったまま、ネット上にいくつものサブコミュニティが誕生するだけで、今の日本のブログ界にあるような異種格闘技戦の趣を持った議論というのは廃れていくのかもなぁ、と。

どっちかに歩み寄りを要求するという話でもないんですが、異種格闘技戦は異種格闘技戦なりのメタルールというか、そうした言論での文法が求められるのかなぁ、と。
今までにも、何となくそういうものもあったような気もするんですが、芸風が多様になったり、あるいは、更にそれを進める中で、そうしたバランスが崩れ始めているのかも知れないと思うこともあり・・・また、落ち着くところに落ち着くものなんで、そんなに心配?することでもないのかとも思ったりもするんで、あんまりまとまんないですけどね。

まあ、単なる思いつきで、明日になればまた考えが変わっているかも知れませんが、何となく、そんなことも思ったりしたんで、メモ代わりということで。
 

 

(※)実際にどの程度の影響力を持っているのかは、よく分からないところはあります。例えば、このブログでいうと、コメント欄で議論が盛り上がるエントリーとはてブの数には、余り強い相関はないような感じがあって、やはりはてブのようなツールを積極的に使っているのはいわゆる「理系」の人が多く、このブログの固定読者層の中心を占める企業法務業界の人たちにはあんまり利用されていないからかな、と推測してみたりしています。
なので、ネット上で目に見える形での影響力というのは、よくも悪くも割り引いて考えなくてはいけないんじゃないかという気がするわけです。

(※2)そもそも、どこまでいけば知識・理解において「専門家」と言えるかは、極めて相対的ですし。そりゃあ、全く法律を勉強したことない人から見れば、ロースクール生は法律の専門家に見えるかも知れませんが、学者や実務で経験を積んだ人間から見ればロースクール生はまだまだ素人かも知れませんし、更にいえば、学者や実務家でも分野が違えば、それに特化している人間から見れば素人ということもあるわけです。
じゃあ、例えば、日本の司法制度の基本的な構造について、ロースクール生が授業で学んだ知識を下に説明することは信じられないかといえば、そんなことは勿論ありません。
当たり前の話ですが、学問の中でも基礎的な部分については、ロースクール1年生の知識も最高裁判事のそれも同じです。ただ、最高裁判事は、その基礎的な知識に加えて、経験や長年の勉強の積み重ねで得た引き出しをたくさん持っていますから、議論のレベルが上がれば、それが差として現れてきます。
ある議論をするときに、どの程度の「専門性」が必要なのかは、その議論のレベルによるわけで、学部生レベルの知識・理解でも十分に議論できることもあれば、修士・博士号を持っていても十分に議論できないものはあるわけで、議論のレベルを鑑みずに「専門家」かどうかを論じることには、ほとんど意味はない、と、私は思うわけです。

(※3)「コミットメント」って、便利な言葉なんでつい使いたくなるんですけど、要するに、対象となるものから得られるものに対する一定の期待があって、対象となっているものの価値とか意義を否定するようなことに抵抗を感じるようなもの、という感じなんですが・・・って、全然分かりやすくありませんね。
まあ、あるアイドルの熱烈なファンをやっていて、周りにも宣言してきたし、そのファンのコミュニティでは一目を置かれるようになってくるようになると、本当は、新人で気になるアイドルが出てきたけど、そっちに乗り換えるのは憚られるといったような事態です。
もちろん、そんな時に、元のアイドルの熱愛報道とかがなされた場合、乗り換えのいい口実ができるので、「オレはつらいが○○の幸せを祈る。だが、今までと同じように応援はできない」というわけですが。

(※4)マンキューもベッカー・ポズナーもそういう意味でいうと、経済学にコミットしてないネット上での言論は全く無視している(とりあげるのは同業者、学生、政治家、マスメディアの言説)ようにも見えるわけで、そういう意味では、はっきりと断絶しているのかも知れません。

Posted by 47th : | 15:13 | 雑感

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ふぉーりん・あとにーの憂鬱: 異種格闘技戦の文法 http://www.ny47th.com/fallin_attorney/archives/2006/... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年11月13日 02:12

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超メジャーブログ、「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」に、ブログ上で展開される意見交換、論争に関する興味深いエントリ「異種格闘技戦の文法」がアップされました。そ... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年11月14日 15:00

コメント

サイードの『知識人とは何か』(ASIN:4582762360)、読まれました?嫌なタイトルの本なんですけど(笑)、そこで展開されている「アマチュア」であることの価値に関する記述に、どこか通じる議論じゃないかな、と思います。

Posted by NED-WLT : 2006年11月13日 02:23

>NED-WLTさん
すいません。勉強不足で存じ上げませんでした。
図々しいお願いですが、もしお時間が許せば、NED-WLTさんの感じたエッセンスだけでも教えて頂けると幸いです。

Posted by 47th : 2006年11月13日 12:30

私の場合、素人が玄人に話を聞くような仕事ばかりを数多くこなしているのですが、こういった場合、素人側に玄人の持つバックグラウンドに対するリスペクトがないと、議論というより話自体が成立しないですよね。

あとネットで議論する場合、素人側は文章の中に玄人が突っ込みたくなるようなスキを作ること、そして多忙のなか突っ込んでくれた玄人の人に楽しんでもらえるようなリアクションを、素人側できっちりすること、この2つが求められるのかなと思っています。

といっても、これが完全にこなせるような素人とは、ある意味高度な文章&コミュニケーションスキルを持つ専門家、ともいえるわけですが。

Posted by とむけん : 2006年11月13日 13:25

>とむけんさん
そうですねぇ。
ネット時代で万人がコミュニケーション・コストの低下の恩恵を受けたように見えるのですが、実は、その恩恵を本当に享受するためには一定のコミュニケーション・スキルが必要ということなのでしょうね。
これがないと、いくら物理的にアクセスしやすくても、誰も自分の時間を使って文章を読んでくれないわけで、ましてや、専門的な知識をもっている側がその知識を労力を使って教えてくれることは期待できなくなってしまいますよね。
更に進んで考えると、専門家と素人の知識・情報のフローをうまく取り持つコミュニケーション・スキルこそ、ブログをメディアとして成立させる鍵なのかも知れないという気もしてきました。

Posted by 47th : 2006年11月13日 15:08

とむけんさん、47thさんへ
とむけんさんがおっしゃるようないわば「仕込み」というか知的な配慮ってものにお互いが気がつく、気がつけるというのは、ものすごく気持ちがいいもので、なお且つよいコミュニケーションのお作法のような気がします、ろじゃあも。
ただ、これが理解できるということは、優しい言葉の言外の意味というものが自然と見えてくるということでもございますので、それはそれで自分自身の身を引き締めないといけない場合も多くなるということなんですけどね。
はい、ろじゃあは引き締めないといけない場合が多いっす(^^;)。

Posted by ろじゃあ : 2006年11月13日 23:16

こんにちは。
47thさんが常々お嘆きになっている、日本でローエコ的なやりかたが取り入れられない、も、同じような問題なのではないかなと思ったのですが、どうでしょう。

Posted by Apricot : 2006年11月13日 23:39

しまった、僕、地雷踏んじゃいましたね(笑)。47th先生のように理路整然とは行きませんが、自分なりにもう一度考えてからエントリにしてTBします。

Posted by NED-WLT : 2006年11月14日 01:12

>ろじゃあさん
優しい言葉ほど怖かったりしますよね。確かに・・・
私も気をつけよう、っと。

>Apricotさん
どうなんでしょうねぇ?
アカデミックな世界で考えれば、同じ社会科学ですし、メタ・ルールという面では、法学と経済学とで全くお互いの文法が分からないために生じる壁というのは比較的小さいような気がするので、単に、そこに興味を持つ人の絶対数ということかも知れませんし・・・
もっとも、実際の政策決定場面への応用という意味でいうと、確かに、科学的な知見の現実の政策への応用というところに断絶があるのかも、という感じもしてきますし、その断絶は経済学だけに限らないのかも知れませんね。

>NED-WLTさん
プレッシャーに感じられてしまったようで、すみません。
急かしませんが、楽しみにしています(笑)。

Posted by 47th : 2006年11月14日 09:44

 
法律・経済・時事ネタに関する「思いつき」を書き留めたものです。
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