ブログを書く際の「コスト」の中心が「時間」であり、そのコストは「機会費用」(その時間を使ったら他に何ができるか?)の大きさに左右されるという観点からみたとき、ブログを書くという一連の作業の中にある過程の意味は異なっているようにも見えます。
自分の経験を下にブログを書くという作業のコスト構造をみると、次のような感じで分類できるような気がしています。
「探す」コスト:ファインディング・コスト
端的にいえば、「ネタ探し」の時間です。
新聞(全国紙)のHPやポータル・サイトのヘッドラインをチェックするだけであれば、そんなに時間はかかりませんし、そもそも世の中から取り残されないためには、何れにせよ必要になるコストですから、それ自体は「どうせやらなきゃいけないこと」です。
これに、他の人のブログが入ってくると、少し大変になってきます。もっとも、これも「どうせ必要な情報収集という側面もありますし、RSSリーダーやぶくまを使えば、大部効率的になります。
「調べる」コスト:リサーチ・コスト
次に、書きたいなと思うネタが見つかったときに、前提となる知識や関連する情報を調べるための時間が必要になってきます。
私の場合、このリサーチ・コストは、記事によって大部変わってきます。
中には手持ちの知識だけで何とかなるものもありますし、中には自分が感じたもやもやをもう少し形にするために、文献や教科書に当たらないといけないものもあります。
あるいは、その論点について他の人がブログで何か考えを発信していないかを参考にするために、普段の巡回先に入っていないブログに行ってみたりということもあります。
もっとも、リサーチの部分に力を入れる時というのは、結局、紙媒体の出版物につなげる予定があったり、ロースクールの授業の理解とつなげていたり、あるいは、何れきちんと調べておこうと思っていたことであったり、ということも多いので、イメージほどには追加的なコストがかかるわけではありません。
そもそも、ブログのよさの一つは、このリサーチ・コストを節約して「思いつき」や「印象」レベルでも書けるというところにあるので、リサーチ・コストは、それほど大きな負担ではありません。
私のように一応紙媒体へのアクセスがある場合はなおさらそうですが、そうでない人にとっても、専門論文に必要なレベルの前提知識の習得は不要という点で、リサーチ・コストの負担がネックでブログが書けなくなるというのは、それほど多くはないような気がします。
この「リサーチ・コストの負担が少ない」というのは、ブログのメリットの一つですが、ブログでの意見交換の今後を考えたときには、逆にボトルネックの一つともなり得る気がしますが、それは、また後にして、先に進みましょう。
「考える」コスト:シンキング・コスト
リサーチが終わった後で、そのリサーチ内容をブログにそのまま書く場合は別として、いろいろと調べて知識や情報を得た後で「考えをまとめる」という作業が必要になることがあります。
この内容も二つのパターンがあって、一つはリサーチ・コストと重なる部分もありますが、膨大な情報を自分の中で理解して整理するために必要なコストで、専 門的な論文だと、この部分の労力というのが、かなりの割合を占めることがありますし、ブログでも一つのテーマについていろいろな意見が示されているときに は、それを整理するためのコストというのは、それなりに必要になってきます。
もう一つは、もっと純粋に自分で「考える」時間です。
これは分かりやすいといえば分かりやすいのですが、人間は「自分で考えている」ようにみえて、単にどこかで見た人の考えをそのまま繰り返しているだけと か、水伝絡みでちょっと考察してみたように、「考えている」ように見えて、実は単に自分にとって「都合のいい」あるいは「耳障りのいい」結論に理由をこじ つけているだけということもあります。
そうしたものを排除して、純粋に自分の「考え」をまとめていくことというのは、本当はそれなりに時間がかかるものです。
私の場合、企業法務ネタなんかは仕事や原稿書きの中で一回このプロセスを経ていることが多いので、そういうものは苦労しないのですが、そうしたプロセスを 経ていないものの場合は、道を歩いているときとか、食事をしているときとか使って、そういう頭の中に浮かんだことを自分なりに
整理する時間というのが必要になってきます。
この「考える」時間の確保というのは、結構重要な気がします。
日本で仕事をしているときは、経済学や開発といったことについて考えたいと思っても、なかなか考える時間すらとれないというのが実際でした。食事をしたり 風呂に入っているときでも、今とりかかっている案件の方が大きい比重を占めていることの方が多いわけで、ブログのための「考える」時間のコストというのは 忙しくなると、かなり大きくなります。
かといって「考える」時間を使わないエントリーを書くことが、読者や、何より私自身にとってどれだけの意味があるのか、というと・・・この辺りは、 また改めて検討するつもりですが、何だかんだこのブログを続けられたのは、この「考える」という点(と、次の「書く」という点)にある程度のコストを割い てきたからじゃないかなと思うので、ここにエネルギーを注がない(注げない)「ふぉりあと」の存在意義には?がついてしまいます。
というわけで、ちょっと長くなってきたので、今日はこんなところで。
次回は「書く」コスト、「伝える」コスト、「副作用」コストについて考えたいと思います。
(続く)


















