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「法的議論の何たるか」を考えてみる

法学の多重人格性の続きみたいなものですが、法的議論が何かということを考える上で、何となくヒントになりそうな材料が小飼弾さん(404 Blog Not Found)の書かれた以下の記事とそこへのコメントであったので、これをベースにちょっとつらつらと考えてみたいと思います。

まず、この件に関する個人的な「好き嫌い」でいえば、親が被疑者であるという理由で入学を拒むことは「好きではない」ですが、それが「違法かどうか」と言われると、非常に微妙だろうという感覚を持っています。その根拠は、やはり春日部共栄中が「私立」であり、これは私人間の問題だからである・・・というと、小飼さんには、「法の何たるかを全く理解していない」とお叱りを受けてしまいそうです。

「想定の範囲内」だったのは、賛否両論のありよう。特に反論のほとんど全てが、「春日部共栄中は私立であり、『受け入れざるを得ない者』は公立へ」というものだった。

申し訳ないが、諸君は法が何たるかを全く理解していない。

小飼さんは、こう続けます。

法の下では、私的存在は最大限尊重されるものではあるが、治外法権では全くないのだ。私的存在が幸福や利益の追求が許されるのは、あくまで法が許す範囲内においてなのだ。
(中略)
同校がこれ(47th注:憲法12条後段「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」)に違反していることは明らかだろう。この国では、いつから私的存在が無条件に幸福と利益を追求されることを許されるようになったのか。私が知らない間に憲法って改正されたのか?

私にとって興味深いのは、この議論の進め方は、一見極めて「法的」なのですが、法律家からみると、法的知識があるないという話ではなく、そもそもロジックに飛躍があるように思われる点です。そして、そのロジックの飛躍に小飼いさんのようにプログラムというロジカルな言語を使い慣れている方が気づかなかったという点です。(あるいは見抜いていて、あえて上のような論法を使われたんでしょうか?)

まず、小飼さんが仰るように、私人と私人の関係において、私人の権利行使には憲法12条の「公共の福祉」による制約がかかる(後で見るようにテクニカルには日本では私人間の関係に憲法12条が適用されるというのは一般的見解ではありませんが、とりあえず大事なのはロジックなので無視します)としましょう。

そうすると、次の問題は何でしょう?
小飼さんは、「学校側の児童を受け入れる権利の行使(この場合入学拒否)に「公共の福祉」に反するか?」という問題(命題)を設定した上で、学校側の権利行使は「公共の利益」に反すると結論づけているわけですが、もし、反論する側が次のようなロジックを用いたとすればどうするのでしょう?

児童が特定の私立の教育機関で学びたいという権利は最大限尊重されるべきであるが、そうした幸福や利益の追求が許されるのは、あくまで法が許す範囲内においてである。
私立の教育機関の中には、固有の教育方針や一定の等質的な児童層を有することで、他の教育機関との差別化を図り、あるいは、児童・保護者に対して質の高い教育サービスを提供するものがあり、このような教育機関においては、どのような児童を受け入れるかは教育機関としてのサービスの本質に関わる問題であり、こうした教育機関側の利益を無視して、自らの入学する権利を主張することが「公共の利益」に反することは明らかであろう。

もちろん、これに対しては、小飼さんは「さすれば一般企業は客のためには何をしても許されるということになる。これを認めれば、「信者のため」にサリンを撒いたオウム真理教も当然免責されねばなるまい」と仰るかもしれませんが、これに対しては、全く鏡のような反論が可能です。例えば、「さすれば児童の入学する権利のためには何をしても許されるということになる。これを認めれば、男女による差別を行う非共学校はすべからく禁じられなければなるまい」とか・・・

以上の議論は、私が心からそう信じているということではなく、全くもって「ためにする」議論ですが、ポイントは、ロジックの問題として、「私人の行為に公共の福祉の制約がある」という議論は、次に来る命題の立て方次第で、全く異なる結論をもたらし得るというところです。

おそらく命題のセットが予め明らかになっているシチュエーションでは、一定の命題の組み合わせから次の命題の真偽を導き出すというスキルにおいて法律家は小飼さんのようなプログラマーや数学的論理を扱う分野の方々には適わないのでしょうけど、ごちゃごちゃとした社会関係の中から解決すべき命題を抽出したり、そもそも与えられた命題のセットが十分なのかとか、(実際にプログラムを走らせる前に)矛盾齟齬を見つけ出すということでは、法律家には一日の長があるのかも知れません。その辺りが、お世辞にも「科学」ではない「法学」固有のスキルなのかも知れません。

・・・と、ロジックに問題があると言いっぱなしのまま、「法学」も捨てたもんじゃないかも、という感慨に浸って終わるのも何ですので、じゃあ、こういう場合に法学はどういう解決をするのかということですが・・・簡単にいえば、①「何れの問題の立て方が正しいのか」というメタ命題を立てるか、②2つの命題の「あてはめ」段階においてコインの裏表のように、一方が真ならば他方は偽という関係が維持されるように調整するか、という何れかの処理を行っています。(ちなみに、立証責任の配分というテクニックは、まさに①の解決手法ですね。ただ、実際には、①の体裁をとりつつ、②の解決方法を指向することがあるのが実務というところもありますが)

具体的に、今回の事案についていえば、日本の憲法学や判例における一般的な見解は、先にあげた2つの命題の立て方は何れも妥当ではなく、妥当な命題の立て方は、「それぞれの私人が被る利益・不利益を総合的に比較衡量して(バランスを見比べて)、決するべき」というものです。(テクニカルには、憲法を直接適用するのではなく、民法上の規定に憲法の趣旨を読み込んだ上でバランスをとるということで「間接適用説」といわれます)
つまり、「公権力」と「私人」との関係では、前者が「加害者」、後者が「被害者」という立場が固定しているけど、私人間では、どちらを立てても相互の権利に制約を加えざるを得ないから、ケース・バイ・ケースで利益と不利益を考慮していきましょうという考えです(Wilipediaの「私人間効力」に簡単ですが、参考となる記述があるのでご参照を)。

もう一つの解決の仕方は、私人であっても、「公権力」になぞらえることができる場合には、「公権力」とみなしてしまうという方向性です。アメリカでは、まさに憲法の規定を私人間に適用するために"State Action"法理という、私企業であっても、その私企業が補助金を受けていたりとか特権措置を与えられているような場合には公権力と同視するといった形で、立場の互換性を封じてしまうというテクニックが用いられます。(もちろん、どのような場合にState Actorといえるかでどうかで、争いがあるわけですが)

最後は、理論的には、2つの命題の立て方があり得ることを容認しつつ、実際に適用する段階で、命題の立て方によって結論が変わることがないように「公共の福祉」の内容を調整するという手法があり得ます。これだけに頼るというのは、見ないと想いますが、実際には日本の裁判所で間接適用説が採られる場合には、「公共の福祉」の内容を具体的事案に沿って明らかにすることで、命題の立て方による結論の差を縮小していく努力は採られているに思われます。

というわけで、何れにせよ、本件では、私人間である以上、スタートポイントは入試要項や入学手続案内などの私人間でのルール(契約)において学校側の裁量権にどのような位置付けが与えられていたかというところであり(そもそも契約違反であれば、憲法論以前に債務不履行の問題であり、少なくとも損害賠償は与えられるべきことになります)、その先に、学校側の拒否事由にどれだけの合理性があるのかと、児童側にとって「その学校でなければならない」という合理性がどこまであるのかのバランスが問われなければならないでしょう。

その意味で、法律家からみると、「憲法12条」や「公共の福祉」は、学校側の考えを支持する相手方へのsilver bulletにはなり得ないと言わざるを得ません。結局、泥臭い、最後は価値観の違いや水掛け論になっていく議論をやっていくしかないわけです。こうした泥臭い線引きの積み重ねが、法的議論の実体であって、「法の何たるか」という原理原則(真理?)があれば、あらゆることがクリアーになるというものではないんですよね。

Posted by 47th : | 14:13 | Foundations of Law

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コメント

今回の件は、一旦入学を許可したのに、学校側から一方的に取り消したのが問題となったのでしょう。
私人間でも、契約を一方的に取り消すことが出来るとは思えませんが。

Posted by オオタ : 2006年03月06日 20:52

>オオタさん
もちろん契約の内容が明確であれば、実際の裁判では、単なる債務不履行の問題として処理することも可能です。
ただ、議論の問題としては、明確な契約上の義務違反の問題としてではなく、憲法上の権利の侵害の問題として処理することも可能なんですよね。
実際の裁判においても、単なる損害賠償(慰謝料)の話だけではなく、憲法上保護されている利益の侵害があ(り、金銭だけでは損害は填補されない)たという形で特定履行(実際に入学させる処分)を求めることも考えられるのではないかと思います。

Posted by 47th : 2006年03月07日 14:49

学校側が入学を許可した後でそれを取り消すケースと、学校側が親のことを理由にそもそも入学を許可しないケースは分けて考えた方が良いと思います。

今回の事実関係は前者ですが、ここでの議論は後者を前提にしているようですね。前者のケースでも損害賠償だけでなく、契約の強制履行は求めることができると思います。

前者のケースで学校側は、「錯誤無効」だとか「公共の福祉」などの議論を持ち出すでしょう。ただ、「私学だから生徒を選ぶ権利がある」という議論は持ち出しようがないと思います。

管理人さんはあえて後者のケースで議論をされようとしているのでしょうから、差し出がましいことを申し上げた点はご容赦ください。

ついでながら、民事法の目的は「私人間の紛争の解決」であり、とにかく喧嘩を止めさせることであり、その解決が「正義」に合致するかは2の次であると思います。解決が「正義」に合致するようにするのが、立法論、解釈論共通のテーマなのでしょうが、「正義」とは多様であり、永遠のテーマではないかと思います。

Posted by オオタ : 2006年03月07日 23:09

>オオタさん
元々、このエントリーは、小飼さんが「法の何たるかを分かっていない」という形で反対派の方の意見を憲法12条を根拠に批判されたことに対応して書いたものであり、例えば、裁判の行方を予想するような趣旨のものではありませんし、「裁判」と「正義」を同一視するものでもありません(むしろ、私自身は、そこから最も遠い立ち位置に立つ者です(多分))。
それを踏まえて、以下に引用する本文の最後の2つのパラグラフが何かのお答えになればと思います。
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というわけで、何れにせよ、本件では、私人間である以上、スタートポイントは入試要項や入学手続案内などの私人間でのルール(契約)において学校側の裁量権にどのような位置付けが与えられていたかというところであり(そもそも契約違反であれば、憲法論以前に債務不履行の問題であり、少なくとも損害賠償は与えられるべきことになります)、その先に、学校側の拒否事由にどれだけの合理性があるのかと、児童側にとって「その学校でなければならない」という合理性がどこまであるのかのバランスが問われなければならないでしょう。

その意味で、法律家からみると、「憲法12条」や「公共の福祉」は、学校側の考えを支持する相手方へのsilver bulletにはなり得ないと言わざるを得ません。結局、泥臭い、最後は価値観の違いや水掛け論になっていく議論をやっていくしかないわけです。こうした泥臭い線引きの積み重ねが、法的議論の実体であって、「法の何たるか」という原理原則(真理?)があれば、あらゆることがクリアーになるというものではないんですよね。

Posted by 47th : 2006年03月08日 01:06

 
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