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「法」への幻想 (2)

<前回までのエントリー> 

 

「法」(あるいは「違法である」「適法である」ということ)を内心的価値観に関する議論において「権威」として用いることを危険だと思う2つめの理由に入る前に、議論において、相手に「それは違法であって、許されるものではない」というときに、ここでいう「違法」という判断はどうやって下されるんでしょう。

次の2つの事件を比べてみましょう。

  • 私立中学による松本被告の次男に対する入学拒否
  • 私立大学による松本被告の三女に対する入学拒否 

後者は、立教大学に対する仮処分と和光大学に対する損害賠償事件で、東京地裁では何れも松本被告の三女側の主張が認められています。

で、前者の件ですが、後者の事件で東京地裁の仮処分判決と損害賠償事件が認められたということで、前者でも松本被告の息女側の請求が認められることになる・・・かというと、必ずしも、そういうことではありません。

「法」というのは、あるパラメーターを入れれば、いつも決まった答えが返ってくるという性質のものではありません。大ざっぱにいえば、①事案そのものの違い、②当事者の主張・立証を中心とした手続の違い、③判断者(裁判所)の違いという要素によって、外から見れば「同じ」事件に見えても、出てくる答え(違法かどうか)は変わり得ます。

我々弁護士は、そうした要素を考慮に入れた上で結果に対する最善の予測を行うことが求められる職業ですが、統計学で有意と言われる95%の信頼度はおろか、70%の確率でも訴訟を実際に提起する前に結果を予測することは困難です。

今回の件でいえば、事案として、大学と中学の差があり、少し考えるだけでも、義務教育という受け皿があるか否か、周りにいる児童(学生)の人格的な成熟度の差や外的環境からの影響への感度、父兄レベルでの活動の頻度、入学後の是正措置(休学・退学措置)の難易という違いが存在します。これらの要素について、学校側がどれだけ具体的な証拠や主張を行い、あるいは児童側がそうした学校側の主張に対して有効な反論・反証を提出できるかという当事者の主張・立証活動の程度によっても結果は変わり得ます。
そして、係属する裁判所、あるいは裁判官が代われば、結果も変わります。東京地裁といっても、民事事件を扱う20以上の異なる合議体がある上に、その中の裁判官の構成も変わります。過去の類似の裁判例は一つの重要な要素ですが、地裁レベルの裁判例の影響力は、東京地裁の中でもそうですが、高裁、最高裁まで見据えれば、それに依拠できる割合は低くなります。

そうは言っても、現に類似の裁判例で勝訴していることは、原告からみれば心強いことは間違いありませんし、本件でも、裁判所で勝訴できる確率は半々よりは上であるということは可能だろうと思います。ただ、「95%違法だ」と言い切ることは難しいはずです。

更にいえば、仮に95%であっても、そこには五分の魂が残っているわけです。そして、法という過程は、一見身勝手や不合理にみえる主張であっても、その意見を尊重します。司法がしばしば天秤が現されるのは、司法は絶対的な価値を体現するものではなく、どちらも重さを持ち、それ故に、それぞれの価値を持つ者を秤に乗せるからです。

それ故に、一見どんなに不利に見える側にも、常にチャンスは残っています。法は、そういう意味において少数意見を決して排斥しないし、切り捨てません。多数派のエゴと見えるものですら、その意味を真剣にとりこむのが法であって・・・そう、だからこそ、「法を分かっていない」として切り捨てるのは、「法」から最も遠い場所にあるという違和感を感じてしまったのです。

「法」というのは、ある特別な事案において、そこにおける当事者と裁判所の対話の過程を経て下される結論に過ぎません。具体的な訴訟の結果が起きる前に、「法」を「権威」として用いようとすることは、自らが当事者でもあり裁判所でもある仮想の法廷で下されたものでしかなくなってしまいます。
でも、そんな自分が独裁者の法廷で下された「法」と、単なる個人的な善悪観はどこが異なるのでしょう?
そして、そうした自分の中のバーチャルな法廷で下された「法」の、他人に対する「権威」はどうやって得られるのでしょう?

昨日、参考文献としてあげた毎日新聞の社説にこんな一節があります。

たとえば道端で1円玉を拾ったら、どうするだろう・・・しかし、落とし物を着服すれば、法的には占有離脱物横領罪の対象となる。社会のモラル低下が目立つ折、この違法性を明確にせず、あいまいにしてはならない。

この論調そのものはおいておくとして、「法的に」正確にいえば、むしろ、こういうことになります。

1円玉を着服すれば、法的には、占有離脱横領罪の構成要件には該当するが、1円玉程度であれば可罰的違法性を欠き罪は問われない可能性が高い。モラルとして1円玉でもおろそかにしてはならないという考えを持つ人がいてもいいが、モラルと違法性をあいまいにしてはならない。

笑い話のようですが、こうして自分にとって都合のよい「法」の姿を使って、それを「権威」として用いる試みというのは、意外と多いような気がします。

そして、そうやって自分に都合のいいように「法」を使う人々は、往々にして、自分にとって都合の悪い「法」を黙殺しようとしたり、そうした「法」を否定しようとしたりするのではないでしょうか?

とはいえ、「法」には、事実として「権威」を持っています。「違法」という言葉は、普通の人にとっては、相当のインパクトがあるはずです。そして、「法」は外延において曖昧な領域を持っていて、「違法かどうか」というのは、裁判にいかなければ分からないものだからこそ、逆に、好き勝手に自分の価値観に合わせて「法」の姿を演出することは、ちょっとした「知識」があれば可能です。

それこそが、私が「法」を「権威」として利用することが危険だと感じるもう一つの理由です。

Posted by 47th : | 16:26 | Foundations of Law

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コメント

米国やカナダの弁護士は学部で哲学を専攻することが多いという説を聞いたことがあります。結局、正しさを追求することにおいて同じなのかもしれないような気がしてきました。

Posted by さなえ : 2006年03月09日 00:01

こういう問題もあったりするわけですが。
http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060122#p2
http://www.asahara-kousoshin.info/news/touron.html

私がわからないだけで、問題ではないのかも。うーん。

Posted by foo : 2006年03月09日 13:45

>さなえさん
法の中で追求されるべき「正しさ」は、「法」という世界の中でのものであって、それは個人が内部に持っている価値観の正邪や善悪を決めてしまうものであるべきではないというのが私の立場なんですよね。
例えば、昨年最高裁大法廷で永住外国人の女性に対する東京都の管理職試験受験拒否は「適法」とされたわけですが、だからといって、東京都が「正しく」、永住外国人の原告女性が「誤っている」ことにはならないし、例えば、今回の入学拒否事件で訴訟が起きて、そこで児童側が負けたとしても、それがさなえさんや弾さんの意見の価値を貶めることにはならないと思うんですよね。
>fooさん
松本被告の鑑定問題については、何か申し上げるほどの知識も経験もないので、申し訳ありません。
ただ、こうした精神鑑定を含めて刑事手続きに詳しい方々もブログをやっていらっしゃるようなので、そういう方のところには、参考になることがあるのかも知れませんね。

Posted by 47th : 2006年03月10日 00:31

 
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