朝の日本語放送のニュースを見ていたら、耐震偽装問題で拘留中だった木村建設の篠塚被告が保釈されたという件をやっていました。
私がこっちで見ることができるぐらいなので、日本でも多くの方がご覧になっていたんじゃないかと思うんですが、見る影もないほどやせこけ、ふるえた声で話す姿を見ていると、何だか見ている方がつらい気持ちになってきました。
もちろん、耐震偽装の被害者の方々も経済的にも心理的にも深い傷を負ったわけで、篠塚被告の姿だけをとらえて同情するのは片手落ちなわけですが、私が何だか複雑な気持ちになってしまうのは、こういう組織の一員として罪を犯してしまった人(※)の逃げ場のなさです。
一緒に見ていた妻が「堀江君はいい感じでやせたのに」と言っていたのと比較したわけですが、堀江氏の場合には、会社は追われましたが個人財産はそれなりにありますし、元々個人の才覚で世の中を渡ってきたキャラクターで、一段落つけば、今回の事件をバネに再起という望みもあるわけです。また、公判に向けてのポジションとしても「悪いことはしていない」ということで固まっていて、それを主張するのに誰に対しても気兼ねもなさそうです。
対して、篠塚氏は、経歴的にも年齢的にも木村建設という会社に負うものが非常に大きそうですから、一から出直しといってもそう簡単にはいきません。会社の罪であることを認めれば、その拠って立つところの会社の存亡が危うくなるし、たとえ会社が生き残っても、会社に不利なことを言ったということになれば、復帰は難しいところ。また、会社の罪を認めたとしても、それで個人の罪が免れるわけでもありません。家族構成や個人財産などは存じ上げませんが、40代半ばの会社勤めの方の標準で考えれば、就学中の子供もいるでしょうし、住宅ローンなどもあるかも知れません。今回の件がどうかは分かりませんが、あるいは不動産絡みの話ですし、家族の安否なんてことまで考えないといけないこともあるかも知れません。
私のほんの僅かな修習時代の経験なども考えると、真実をぶちまけてしまえば、どこかあきらめにも似たすっきりしたものが出てくるものですが、篠塚被告の表情や口調にはそうしたものも感じられないわけで、未だに夜も眠れぬ迷いと苦しみに苛まれているような印象を受けました。
まさに行くも地獄、帰るも地獄、というところですが、耐震偽装のように制度的な問題や複数の組織が関与している中での個人への責任追及のあり方ということに関して、何だかもっと知恵は絞れないんだろうかという気がしたわけです。
こうして個人を追い込んだ先にあるのは、結局、個人が組織の罪を全て被って世間的な勧善懲悪感情が満たされた後で旬が過ぎたら忘れられ、真実は藪の中、か、つるし上げられた個人が自らの命を絶って終わり、それへの後味の悪さをごまかすために世間はその話題に触れなくなり、そして真実は藪の中・・・の何れかになってしまうんじゃないでしょうか。
もちろん、そうした「つるし上げ」自体が、一つの犯罪抑止効果を持つことも否定できないわけですが、そうした形での犯罪抑止は刑事被告人への適正手続きの確保や苛酷な刑罰を禁止する憲法の精神からは外れてしまっているような気もします。
印象だけですが、アメリカあたりだと司法取引などを使って、過度に個人を追い込むことなく真実発見と犯罪抑止のバランスをとろうという試みも見られるような気がするところで・・・もちろん、司法取引には、それ自体偽証のインセンティブを生み出したりといった問題はあるわけですが、組織犯罪の中で過度に個人に責任を負わせない司法システムの設計ということも考えなきゃいけないんじゃないかと、すっかりやつれてしまった篠塚被告の姿を見て想ったりしたわけです。
(※)もちろん、まだ公判中であって無罪推定の原則があるわけです。最終的に無罪だとすれば、より痛ましい話ですが、以下の話は、仮に有罪だったとしてもということで考えたことということで。


















