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何故、人は過大なる罰を欲するのか?

・・・と、偉そうなタイトルを書きましたが、別にそんな大層な話ではなく、Behavioral Law & Economicsの授業でならった「懲罰的損害賠償」に関する話です。

懲罰的損害賠償というのは、その名の通り「懲罰」的な損害賠償です。以上。

・・・だと刺されそうなんで、Wikipediaによりますと、「損害賠償請求訴訟において加害者の不法行為が強い非難に値すると認められる場合に、裁判所の裁量により、制裁を加えて将来の同様の行為を抑止する目的で、実際の損害の補填としての賠償に加えて上乗せして支払うことを命じられる賠償のことをいう」とあります。
例えば、自動車の欠陥で怪我をした人に対して、その人自身の治療費や慰謝料相当分に加えて、自動車会社が将来的に同種のことを繰り返さないように(抑止効果)とか、会社に反省を促すため(懲罰効果)に、賠償額を上乗せしましょう、というのがこの制度です。

なぜ、英米法に特徴的かというのも考えると面白いんですが、今回問題になったのは、陪審員による懲罰的損害賠償が凄まじく高額になるという点について。

たとえば、 マクドナルドのコーヒーで火傷をおった女性に2700万ドル(約3億円)(実損16万ドル)とか、クライスラーのミニバンの転倒で子供が死亡した事件の親に2億5000万ドル(約280億円)(実損1250万ドル)とかいう、凄まじい金額が懲罰的損害賠償として認められています。この懲罰的損害賠償の金額がどう決まっているのかというところが問題なのですが、実は、規則性というのを見出すのが非常に難しく、そこでBehavioral Law & Economicsの格好の研究対象となってくるわけです。

いろいろな実験をしてみると、陪審員は、いくら裁判官からの説示で、賠償金額を決めるにあたって、同種の事案への抑止効果をコスト=ベネフィット計算の上で考えるようにと明確に指示されていても、ほとんどそうした分析を無視して、「被告企業を罰したい」という感情に動かされるということが分かったわけですが、問題は、「何故、そこまでして被告企業を罰したい」と思うのかというところです。

そこについて、いくつかの仮説が提唱されていて、いろいろと含蓄の深いところがあるので、ちょっとご紹介です。

 


  • トンネル・ビジョン

    日本語的にいうと視野狭窄的とでも言うんでしょうか、例えば、副作用のある薬があることで救われる人がいるという事実を忘れて、その副作用にばかり注目して、「そんな重大な副作用のある薬を売るなどとけしからん」ということになったりする・・・というわけです。

  • 後知恵バイアス(Hindsight Bias)

    結果として重大なことが起きた場合に、その当時の水準で適切な注意をしていたかどうかを考えるのではなく、遡って重大な不注意があった(reckeless)と考えてしまう傾向を言います。

  • 過剰反応(overreaction)

    陪審員にとっては、法律や、そもそも「事件」自体が、非常に縁遠いもので、それに触れたときに、必要以上に過剰に反応してしまう・・・つまり、経験のある裁判官や法律家にとっては「よくある」事件であり、余り感情的に左右されないけど、陪審員は、ついつい過剰に反応してしまうというものです。

  • ゼロ=リスク心理(Zero-risk Mentality)

    人々は、しばしば、企業というのは「間違いがあってはいけない」と考える傾向があって、「どんなに費用がかかっても」あるいは「リスクをゼロにすることが別の大きなコストを生み出すとしても」、「企業はリスクをゼロにしなくてはいけない」という考える・・・というものです。

  • コスト=ベネフィット分析への拒否反応

    また、陪審は、人の健康や生命がかかったものについて、そもそも企業がコスト=ベネフィット分析をするということ自体に拒否反応を示す傾向があり、それが企業に対して不合理なまでに厳しい賠償を生み出す原因となっているのではないかという仮説です。

日本には懲罰的損害賠償制度はありませんが、今度裁判員制度が導入されるにあたっては、こうした「厳罰化への心理」というものに対しても十分な配慮をすることが求められるような機がします。

また、ここにあげたのは、何も懲罰的損害賠償の文脈だけで生じるものではなく、世の中で起きる色々な側面に起こり得る話なので、世の事象に対しての自分の印象について、上のようなバイアスが入り込んでいないかを考えてみると、色々と発見があるのではないかということで、簡単ながらご紹介まで。

Posted by 47th : | 11:06 PM

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トラックバック時刻: February 6, 2006 09:05 AM

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トラックバック時刻: February 6, 2006 06:32 PM

コメント

およそ3000人の死者を出した真珠湾攻撃の報復として、原子爆弾によって30万人以上の人を殺したこととも関係があるのでしょうか。恐ろしいです。

Posted by 502 : February 4, 2006 11:19 PM

はじめまして^^ しばらく前から見させてもらっています


アメリカでは陪審員が賠償金額を決定するのですか......
算定の基礎となる数式なんかを素人の陪審員がきちっと理解して決定しているのでしょうか?
また多額の損害賠償はどのように処理されるのですか?被害者は実損金額以上に受け取るのは問題のように感じますが....なにかの基金にでも寄附されるのでしょうか?

Posted by kiyo : February 5, 2006 02:13 AM

大変興味深いですね。
医療訴訟や中国ダイエット食品で死人が出た例など、
人の命が関わった訴訟では「懲罰的」になりやすかったり
しそうですね(そういう視点で分析した研究とか
あったりするんでしょうか・・・)。

以前コメントしていただいたように、結果責任について
あまりに「懲罰的」になると医師その他専門職の過剰な
防衛姿勢が生じて医師患者関係がおかしなことに
なったり、製薬企業その他の新規開発が停滞し結果
的に患者の利益を損ねたり、という負の側面が
出てくるように思います。

でも心情としては「懲罰的」になってしまう人の
気持ちもわかったりして・・・・
人が人を裁く、ということの難しさでしょうか。
(しかも法的に素人が)

勉強になりました。

Posted by taka : February 5, 2006 05:39 AM

こんにちは。

日本で生きていこうと思うと米を食わねばならず、米を食おうと思うと土地を持たねばならず、そのために一箇所に定住していると戸籍・身分制・五人組などの連帯責任制度を作りやすく刀などの武器を狩りやすく犯罪も防止しやすい・・・ので歴史的に懲罰が過激になりにくいのではないかと思います。日本だけでなくたとえばブータンの犯罪発生率の低さなどもこういう説明でわかる気がするのですが・・・アメリカはまだ刀狩も行われたことがないのではないでしょうか。

Posted by bun : February 5, 2006 08:44 AM

この辺りの話は、大変興味深く感じております。

最近どうにも「何か事件が起こる⇒罰が足りないから抑止力にならない⇒だから厳罰化しなきゃいけない」という論調を見ることが多いのですが、この論調にも同じようなところに根っこがあるような気がします。(同じような展開で「義務化」の論調も見られます。)

最近の個人情報保護に関する動きなども、「たとえどのようなプロセスをとっていても、何か事を起こしたらアウト」というような流れになっているのことが、かえって企業側の過剰防衛をもたらし、コスト増大という形で当の個人にもマイナスにはたいている面があるように感じます。

この問題は企業内のマネジメントなどにも通じるお話であり、さらに深堀りしていきたいと感じました。貴重なきっかけを頂きありがとうございました。

Posted by Swind : February 5, 2006 08:46 AM

>502さん
戦争に関しては、「合理的」な選択の結果としても多くの命が奪われることがあります。それを考えると、人の命について「合理的な選択」という観念を否定したくなる気持ちもよく分かるところです。
>kiyoさん
実は、別の実験によると、まさに算定の基礎となる数式の意味を正確に理解できるのは15%に過ぎなかったという、恐ろしい話もあるようです(- -;)
被害者には、多額の賠償金が入るのですが、英米法的には、法の実現に積極的に関与した者への報酬であるという考え方があり、こうした私人による法の執行を奨励するところに特殊性があったりするんですよね。
>takaさん
そう、takaさんの分野ともかぶるかなぁ、と思ってエントリーを書いてみました。
「健康や命」を「ゼニカネ」と天秤に乗せるなんてケシカラン・・・という感情は、やはり万国共通のようです。
それ自体は健全だと思うのですが、そうした「感情」がダイレクトに政策や法的なシステムに採り入れられてしまうと、不都合も出てくるんですよね。
>bunさん
「刀狩り」どころが、子供に自己防衛のための銃を持たせるべきと言う話もあるような国ですからねぇ・・・
ただ、日本の場合は、法的な制裁において寛容な代わりに社会的な制裁が過剰になる場合もありそうな気がするんですよね・・・それはそれで悩ましいところで
>Swindさん
どこでもそうですが「人の命の尊さ」と言われると、コスト=ベネフィットということを言い出しにくくなるんですよね。
それでも、アメリカの場合は、最高裁で「過剰抑止」の危険性があるということや、法的なサンクションはコスト=ベネフィット判断においてなされるべきであるということが議論されたりするんですが、日本では、そうした議論をしようとすると感情的な議論で遮られたりもするところで、これまた悩ましいところです。

Posted by 47th : February 5, 2006 03:30 PM

田中英夫先生と竹内昭夫先生が「法の実現における私人の役割」を共同で「法学協会雑誌」に発表されたのが1971年から72年にかけてで、東京大学出版から本になって出版されたのが1987年。その後色々なところで懲罰的賠償のお話とクラスアクションのお話は検討されてきたのでしょうが・・・いまだに日本では実現を見ていない・・・これは日本人の社会的な規制の「文化」と「構造」からしてそれぞれの時期の方々が意識的無意識的に価値判断をされてきたからなんだろうと思ってます。
問題は、現状が当時に比べて導入に「適した」時期なのかという検討がまじめにされているんだろうかというところであります。
料理人に適した包丁を「みたてる」視点も重要でしょうし、料理人が包丁の切れ味と「砥ぎ」を含めた管理とその使い方に自覚的であるか・・・このいずれもが「妥当性」を欠くと・・・。ろくなことにならないと思うのですけどね。

Posted by ろじゃあ : February 6, 2006 02:34 AM

>ろじゃあさん
最近、開発なんかの視点とかも見ていると、社会における総量としての懲罰意識というのは、そんなに洋の東西はないのかも知れないと思うようになってきています。
ただ、米国ではバックグラウンドの多様性と分裂への危機感から暗黙の村八分だけでは社会が成り立たなくなってしまったために、社会的な制裁も法や国家の領域にとりこまれていったのに対して、日本では少なくともここまでのところは、インフォーマルな制裁に多くを負ってフォーマルな制裁の部分を軽くしてきたのではないのか、と。
ただ、そうした「暗黙の了解」の領域が相対的に小さくなってきたときには、暗黙の了解に基づくメカニズムは、歯止めを失う危険があるわけで、否応なしに、フォーマルな部分に軸足を移していかざるを得ない時期に来ているような気がしています。

Posted by 47th : February 6, 2006 01:59 PM

こんにちは
厳罰化の原因と言う部分は、人事考課における陥りやすい誤りの要因(halo効果(印象を優先してしまう)、中心化・厳格化、対比誤差(自分の能力を基準にしてしまう))などとも重なるところがあるなぁ、と思いながら拝読しました。
人が人を評価したり裁いたりすることの判断のぶれ、というのは避けられないわけで、その恣意性を排除するための法治主義なのわけですが、それもデメリットがあるという判断の元にコスト(リスク)=ベネフィット的な発想でこういう制度ができたのでしょうね。

ところで日本の「村八分」というのは残り二分(火事と葬式というひとりではできないこと)については付き合いを維持するところから来た言葉らしいですが、共同体意識が希薄化している中で、最近の日本のように社会的制裁が厳罰化すると、特に個人に対してはより過酷なことになるんじゃないかという危惧も持っています。

Posted by go2c : February 6, 2006 06:28 PM

不勉強なので適当なことをいいますが、
「判断を下すときに、当事者全体の効用が最大となる方向に判断を下したがる。」
というのはありそうな気がしますが、どうでしょう?

大手外食チェーン社にとって3百万ドルははした金ですが、個人にとっては大金である。だから大手外食チェーン社から個人に多額の賠償金が渡ることはトータルの効用が+である。
ということを無意識的に考えて判断しているような気がします。

スポーツの審判が「試合が面白くなる方向にジャッジを下したがる」というのも同じかなと思います。

で、そういう傾向は、プロフェッショナルな判断者(裁判官とか、プロの審判とか)よりも、素人(陪審員とか、子ども会ソフトボール大会の審判とか)のほうが強いように思います。

Posted by Apricot : February 6, 2006 10:37 PM

>go2cさん
Behavioral Economicsという分野自体が、元々認知心理学の分野の知見を経済学に応用していこうというものなので、人事マネッジメントなどとも共通の根っ子があるのかも知れませんね。
なるほど、確かに本来の日本的観念の中には「二分」を残すというセーフガードがあったんですよね・・・そうしたファジーな歯止めが失われつつあるのかも知れませんね。
>Apricotさん
限界効用の違いということになるのでしょうかね?
ただ、この場合、実損や抑止効果を超える部分は単なる所得の再分配であって、そうした所得の再分配をたまたま何かの事件の契機に行ってしまうというのは、やはり合理的とは言い難いような気もするところです。

Posted by 47th : February 6, 2006 11:46 PM

47thさんへ

たまたまの契機というか、人は利他主義(altruism)的側面も利己主義(egoism)的側面も両方持っていて、人はこれを満たすことによって満足感を得るというのがまず前提です。

おっしゃるとおり、所得の再分配をすると社会全体の効用は高まります。ですので、人は所得の再分配をすることによって満足感を得られます。(利他主義)

じゃあ、自分の財布から、貧しい人に施しをするか? 確かに利他主義により満足感を得ますが、自分の富が減るので利己主義的には不満足です。ですので、まぁ普通はそんなに大金を施しはしません。

ならば、富める者からお金を奪って、貧しい人に分け与えるか(義賊)? これも、普通の人はルパンではないので、多分捕まって罰を受けてしまうので利己主義的には不満足です。(もしくは、利他主義的にも、個人の財産が守られない社会になるということに効用の減少を感じるかもしれません。)

それならば、自分が陪審員で、自分の判断に責任は伴わない(=利己主義的には影響がない)とすると? 利他主義が判断の基準となり、所得の再分配を行い社会全体(もしくは関係者間だけでも)の効用の増大をする動機があることになるんじゃないか? と思うのです。

Posted by Apricot : February 7, 2006 10:50 AM

>Apricotさん
確かに、陪審員が、強気をくじき弱きを助けることで満足感を感じるというのはありそうですね。
ただ、企業というのは究極的には株主であり従業員であって、最終的には個人間の財産移転なので、一般的にこれによってパレート効率性が改善されるということは考えにくく、むしろ実質的に企業に対するTaxとして機能する結果として厚生損失が生じてしまうんではないかという気がします。
ただ、こうした社会的な厚生損失は外部化されてしまう(社会全体によって負担される)ので、その意味で陪審員が自らの効用を満足化するために勧善懲悪を行うというのは、効用最大化原理に従った行動として説明できそうですね。こういう観点からの検討がなされていないか、機会があれば見てみます。興味深い視点ありがとうございます^^

Posted by 47th : February 7, 2006 11:08 PM

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