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「法」への幻想 (1)

「法」の限界には、いろいろな形があると思うのですが、まず議論における「権威としての法」の役割を考えてみましょう。

そもそも他人を説得する場合には、色々な手法がありますが、その一つに「権威」を用いて説得するやり方があります。
小学生の口喧嘩で相手を負かすときに「先生がいけないことだと言っていた」と、「先生」という権威を持ち出すことに始まり、「権威」は、そのときに応じて出版物であったり、権力者であったり、学者であったりとさまざまですが、本質的な特徴は、「それがおかしいと思うなら、先生に言ってくれ。言えないのなら、それ以上ごちゃごちゃ言うな」という形で議論に一つの決着をつける力を持っていることです。


実際、「法」の内部では、この類の議論は非常にしばしば見られます。曰く「法律に○○と書いている。文句があるなら法律を変えてくれ」「最高裁判例 に○○というのがある。文句があるなら、最高裁まで上告して判例を変えてくれ」「高名な学者は○○と言っている。文句があるなら、その学者の人に言ってく れ」etc...
むしろ、訴訟をはじめとした実務的な場面で、最も力を持っているのは、この「権威」による説得です。
そういう意味で、この「権威」による説得という手法自体は非常に普遍的ですし、このやり方を否定することはできないし、すべきでもありません。(例えば、 「会社・株主間ではエイジェンシー問題が生じ得ることは、ファイナンス理論において一般に認知されている」ということを、いつも一から論証しないといけな いと言われたら、議論は前に進みようがありません)

では、「法」、より正確に言えば、ある事案が「違法である」、あるいは、「適法である」という事実自体を「権威」として用いることはできるんでしょうか?

結 論からいえば、少なくとも「法」を「権威」として用いようとする試みは、常に存在してきましたし、これからも存在すると思います。ですので、私がこれから 述べることは、そうした現実を無視した、繰り言の類かも知れません・・・が、それでも、やはり私は、「適法か違法か」ということそれ自体には、モラルや信 念の対立を止揚するだけの「権威」を持っていないし、持つべきではないと思っています。例えば、今回の入学拒否の事件について、「適法か違法か」ということは、学校側の処置を「正しい」と信じる人と「間違っている」と信じる人との間の議論に結論を与える力は持っていない、と。

そもそも、「正しい」「間違っている」という内心的な価値観(モラルとか信念とか思想・良心とか呼び名は色々だと思いますが、以後「内心的価値観」という言葉を便宜的に使います)と「法」の役割・機能は異なっています。
内心的価値観という、それぞれがそれぞれに必然的に違う意見を持つ分野を確保しつつ、社会における集団としての相互作用や協力を確保するという、相反する 要請を調整する場面に「法」は必要となります。例えば、働くことや金を儲けることは罪悪だと思っている人がいたとしても、租税という形で社会への貢献を求 めるときには、内心的価値観は、その限りで犠牲にされます。ただ、そこにあるのは社会の都合、あるいは、必要性であって、租税が課されることそのものが、 「金を儲けることが悪」という内心的価値観が間違っているという証明にはなりません(よね?)。
もっとも、歴史的に見れば、「法」を、「内心的価値観」を同一化することで、為政者や権力者が人民の「内心的価値観」をもコントロールしようとする試みは いくらでも行われてきました。曰く、地球が動くという発想は神の定めた「法」に反する、あるいは、私的財産権を否定する共産主義は私的財産権の保障を中核 的な価値とする「憲法」に反する・・・

これが、「内心的価値観」に関する議論において、「法」に「権威」を与えることが危険だと思う一つめの理由です。
「法」もまた、一つの国家権力です。「法」が「内心的価値観」の優劣を決する「権威」を持つとすれば、それは国家権力が「内心的価値観」の優劣を決めるということにもつながるのではないでしょうか?
私には、国家権力が内心的価値観をコントロールする力を持つことが望ましいという根拠は見つけられません(望ましくないと言う根拠は、効率性に始まり、色々と見つけられますが(笑))。それが、「違法か適法か」という結論は、内心的価値観に関する議論に決着をつける力を有しないし、また、そうした力を持たせるべきではないという第一の理由です。

・・・と、大分長くなってきましたので、今日は、この辺りで。

(追記)

参考文献: 社説:落とし物拾い物 1円玉にも知恵を絞って (毎日新聞)

Posted by 47th : | 02:40 PM

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コメント

>内心的価値観という、それぞれがそれぞれに必然的に違う意見を持つ分野を確保しつつ、社会における集団としての相互作用や強力が確保するという、相反する 要請を調整する場面に「法」は必要となります。
私も、この点が、様々な内心的価値観を持つ小集団を内包する近代社会における法の主たる役割ではないかと思います。特に、現代社会は、非常に動的で、開かれた社会なので、社会の変遷のスピードが速く、それに従い法も素早く変化せざるを得ないと思います。ですから、「法」を「権威」としてもちあげる必要はなく、むしろ、国家権力に強制される、集団のその時その時の戦略・方向性程度の認識の方が害がないように思います。分野によっては5年や10年の単位で法が変化するように、同一の事案でも、政治的又は社会的な文脈において、その意味づけが変化する場合があります。ですから、法を常に普遍的な権威と位置づけるよりも、ある程度弾力的に運用でき、かつ集団を一定の方向に向かわせるスポーツのルールぐらいの認識の方が妥当なような気もします(例えが不適切かもしれませんが)。
ルールがあって初めて、スポーツが成立するように、法規範があって初めて人間社会が成立するのでないでしょうか。また、ルールによってはそのスポーツの面白さが半減するように、法によって人間および人間社会の質が問われている面もあるのではないでしょうか。

P.S. 47thさんのブログは、いつも読むたびに深く考えさせられます。日常業務に追われて、多少近視眼的になりかけている時でしたので、自分なりに考える良い機会でした。ありがとうございました。

Posted by taghit : March 8, 2006 05:54 AM

>taghitさん
こちらこそ、参考になるコメントありがとうございます^^
スポーツのルールという喩えは、私も好きですよ。
法というものを、普遍的な価値観とか、絶対的な価値観を体現したものとして扱おうとすれば、無理が出ますが、そうした価値観の対立ではなく、同じ目的を達成するために用いられる場合には非常に有効なツールだと思っています。

Posted by 47th : March 10, 2006 12:12 AM

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