「法」への幻想 (intro) [ March 06, 2006 ]
先ほどのエントリーに小飼弾さんから、早速レスポンスのエントリーを頂きました。
「信念」の問題として、親が被疑者というだけで入学を拒否するべきではないということには、私は、ほとんど異論はありません。自分の子供でも友人でも、あるいは自分自身ですら、それを理由に人の見方を変えるというのであれば、私は、それに異を唱えると思います。
でも、私は、そのときに「それが違法だから許されない」とは言わないと思います。
おそらく、大筋の発想では、小飼さんの仰ることが非常に健全な考えであり、更にいえば、「正しい」と思っているにもかかわらず、私が異を唱えたくなったのは、その「正しさ」の拠り所を「法」に求めようとされたからなのかも知れません。
私はこう言いたかったかのかも知れません。
・・・「法」というのは、そんな偉いもんではないし、「正義」に代替できるようなものではないんですよぉ。裁判所にいって「違法だ」って言ってもらっても「慰謝料30万円」で終わりかもしれない。
言い方を変えれば、裁判所とか法なんて、人の権利を侵害するときの値段を決めているようなもんでしかないかもしれないし、裁判所だって、30万円なら気軽に「違法」と言うかもしれないけど、30億なら「違法」とは言わないかも知れない・・・
よくも悪くも、「法」というのは、そのぐらいの代物かも知れないじゃないですか。
そんな危ういものに頼るよりも、小飼さんの言説というのは、もっと人の心の根っ子に届くじゃないですか?
そんなに、「法」を偉いものに見立てたりしないでくださいよ。「法」なんて、もっとあやふやで、そこから何か「答え」を導き出せるような、そんな偉いものではないんですよぉ・・・
ライブドアへの強制捜査の時にも同じように、私は、「「法」は、そんな偉いもんじゃなくて、世の中に起きることの、ほんの一部をコントロールしているだけに過ぎないんだから、「法律違反」があれば、8000億円の会社と22万人の株主に生じる不利益を考える必要がないなんて、そんな偉そうなもんじゃないんだ」と言いたかったわけです。
そして、また、これは「開発」の文脈で、経済発展において、法的権利の確立や「法の支配」こそが重要だという考え方に対する反感にも通じていくわけです。
法律家のくせに、「法」の意義を否定するかのような発言かと思うのかも知れませんが、法律家だからこそ、いつも「法」の限界が気になってしょうがないわけです。
・・・でも、ひょっとしたら、これは「逃げ」なのでしょうか?
「法」は、もっとちゃんとした役割を期待されていて、それを果たさないといけないんでしょうか?
とりあえず、小飼さんとのやりとりの中で、そんなことを思いました。これは何となく私にとって、非常に大きな宿題のような気がしますんで、また、何れ折りに触れ、考えていこうと思いますが、とりあえず今日のところは頭出しだけ。
Posted by 47th : | 05:35 PM
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このリストは、次のエントリーを参照しています: 「法」への幻想 (intro):
» オーム麻原被告の次男の入学拒否について from あんなこと、こんなこと。どんなこと?
先に「ライブドア問題で思うこと-知識人の人権意識」で最近の心配事を述べたばかりなのに、やれやれ、オームの麻原被告の次男が私立中学への入学を拒否されたという... [続きを読む]
トラックバック時刻: March 7, 2006 02:37 AM
» Professionals are those who dare from 404 Blog Not Found
それはむしろ47thさんがプロとして「健全」な感覚の持主であることの証拠だと思います。
ふぉーりん・あとにーの憂鬱: 「法」への幻想 (intro)法律... [続きを読む]
トラックバック時刻: March 7, 2006 08:34 PM
はじめまして。仕事の休憩時間中ですが、エントリを読ませていただいて、どうしても書きたくなったのでコメントします。
前の記事のロジックについてはおっしゃるとおりだと思います。また、「違法だから許されないというのはおかしい」というのは、私は大賛成です。特に専門家の方に言っていただいたことは、私のようなアマチュアが言うよりも説得力がありますから、意見を代弁してもらった感じがして、勝手に嬉しい気持ちになっています。
ただ自分が思うに、そもそもロジック以前に、価値判断はどうなんだ?ということを私は強調したいです。これは専門家である管理人さんには釈迦に説法ですけども。
春日部共栄中学の問題は、おっしゃるとおり理想は次男の入学を認めることでしょう。そして、その理想を実現するためのロジックを構成することも可能でしょう。すでに和光大学のときに地裁がその論理を明らかにしていますね。
しかし、そもそも社会の現状はどうなっているのか?春日部共栄中学を取り巻く環境は、入学を認めるような決断を下すことのできるものだったのか?このように現実をふまえて議論をしなければならないのではないか?と思います。
刑法には、「期待可能性」という考え方がありますよね。まあこれは刑事関係の問題であって今回の民事で取り上げるのはおかしいし、最高裁判所はまだこの考え方を採用している例はないようですから、暴論といえるかもしれません。
それでも勇気を出して言うと、春日部共栄中学は、入学を拒否しないという「期待可能性」はなかったと思うんです。春日部共栄中学がおかれた社会的環境(国民が持つ激しい差別感情や厳しい生き残り競争など)を考えると、入学を認めるという選択肢を取らせるのは酷だと思うわけです。
期待可能性なんて、専門家の方の前でエライことをのたまってしまいましたが、まあ大目に見てください。また長文申し訳ありませんでした。
Posted by すべりしらず : March 6, 2006 11:03 PM
小飼さんが自然法説で47thさんが法制定説とか思いました。
初学者のたわごとですが。
Posted by 通りすがり : March 7, 2006 01:08 AM
原則として拒否できる自由があると考えるかどうかで結構変わってきますよね。47thさんの考え方は、私人の自由というところから出発して、それが公的機関であれば拒否できる自由はその公的性から制限されるということでしょうか。そう考えると全くの私人かある程度公共性を有するかどうかによっても変わってきそうですね。鉄道は鉄道営業法がなかったら被疑者の子息であるという理由で乗車拒否をしても何ら違法ではないのでしょうか。マクドナルドがハンバーガーを売ってくれなかったらどうでしょうか。学校生活が「継続する」ということはこの判断に影響を与えるでしょうか。今度は全く逆に、学校が入学を許可することについて、他の生徒及び父兄全員が反対した場合はどうでしょうか。生徒及び父兄ではなく理事全員の場合はどうでしょうか。はたまた学校ではなく会社への入社に株主全員が反対した場合はどうでしょうか。さらに飛躍して自治体は住民票の受理を拒否できないのでしょうか。他の住民全員が受理を拒否すべきと考えていた場合はどうでしょうか。また、反社会的勢力については、反社会的勢力であることを理由として何でも拒否できるのでしょうか。何だか思いつくままに疑問形で書いてしまい申し訳ありませんが、ぼくは、もう少し「公序」としての法の役割に期待しているのかもしれないと、これを書きながら思いました。
Posted by taka-mojito : March 7, 2006 06:55 AM
次の文章は、どこかのヨタ話から始まった「科学」騒ぎで思い出した文章を機械的に書き換えたものです。すなわち、 Jean-Pierre Bourguignon, A Basis for a New Relationship Between Mathematics and Society. (日本語訳は「社会と数学の新しい関係」として「数学の最先端」 asin:4431709630 に所収) からの引用を元に、数学を法学に変えた上で読みやすくしただけです。ですから妥当性は分かりません。
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○ 法学は現在も「生きている」
多くの人々が、法学は「死んだ」学問のように思っている。素人やメディアから発せられる質問に「全てが既に分かっているのに、いまさら何をすることがあるのか?」がある。そうではないことを示すのに多くの例があるにもかかわらず、学生に対してさえ我々は何も例を示さずにいる。
私の意見では、法学がまだ発展の途中にあること、そして世界中の法律家がさまざまな問題で仕事をしていることを伝える必要があると考える。さらには、一見すると普通に感じられるものにも社会に大きなインパクトを与える極めて重要な問題があること。そしてその中には日常生活に係わるものもありえることを伝えるべきである。
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閑話休題。
LD 騒動にも関係するとは思いますが、今回の topic からは「法は最小の道徳である」が変に人口に膾炙しているんだなと。反語表現を使いますが、もし「全ての法は最小の道徳である」であるならば、法学は「死んだ」学問であり、残っているのは瑣末な技術論なんでしょう、たぶん。
Posted by 小僧 : March 7, 2006 11:11 AM
>すべりしらずさん
裁判所での審査という観点から見たときに、父兄からのプレッシャーや入学者獲得競争において置かれている地位を斟酌することが当然に「違法である」とはいえないでしょうし、具体的に守ろうとした利益と児童側の利益の何れを優先すべきかは、実際の主張・立証のあり方まで考えないと結論が出ないだろうと思います。
他方で、私個人としての(違法かどうかということではなく)社会環境に対する認識についていえば、教育の現場におられる方から見ると「甘い」と仰るのかも知れませんが、あえてそうした児童を受け入れることによって、却って学校自身の評判を高めたり、父兄からの信用を獲得することもあるのではないかと思います。
企業活動でもそうなのですが、困難を避けて安全策をとるよりも、困難をあえて採る方が、それだけの能力があるというシグナルとなって、却って投資家の信頼を得るということも往々にしてあるものです。
そういう意味で、当事者の認識としては「期待可能性がない」状況のように見えても、実はそうではなく、学校側にとっても、難を心得た上で児童の将来性にかけるというメッセージを送ることが、今いる児童や将来の児童に対しても価値があったんではないかという気がしています。
ただ、繰り返しになりますが、ボトム・ラインは、これは私がそう信じているというだけのことであり、これを「法」として、違う考え方(しかも現場にいる人々の考え方)に押し付けることが、当然にできるとは思っていないわけです。
Posted by 47th : March 7, 2006 03:01 PM
>通りすがりさん
うーん、どうなんでしょうねぇ。私は自然法説を否定するものではありませんが、自然法説もまた、一つの思想的な背景の中で誕生したものであって、例えば、憲法改正の限界といったところでは出てくるかも知れませんが、アメリカでも日本でも自然法から当然に具体的な法規範を導くことは、極めて稀ですし、自然法に基づくものであれ、私人間を自然法で規律するかは、また別の話ですよね。
もっとも、こう言っている辺りからして、今まで意識したことはありませんでしたけど、私は法実証主義なのかも知れませんね(ベンサムなんて読んだことありませんが(笑))。
Posted by 47th : March 7, 2006 03:07 PM
>taka-mojitoさん
全ての疑問は、私の抱いている疑問でもあります。何れ書こうと思っているのですが、「法」「法」っていうけど、その「法」の内容と実際の事件への適用というのは、そんな機械的に答えの出るものではないんだよ、と。
和光大学のケースと今回のケースをとっても、中学か大学か(周りの児童・学生の人格形成段階の差、義務教育かどうか)、児童の機会損失の程度の差異、入学資格に関する方針(公表されているもの、慣行として認知されているもの)、より制限的でない手法の有無(事後的に問題が実現化した場合に退学措置などをとれるかどうか)、etc...に、主張・立証の程度も絡むわけですから、裁判所がどう判断するか・・・信頼度95%の予測をすることができる法律家がいるとは思えないわけです。
だからこそ、今回のケースにおける議論が、「法の何たるかを分かっていない」という形で片付けられてしまうことに非常な違和感を感じたんですよね。
「公序」としての法の役割については、ちょっと、私なりの考えをまた別にアップしてみましたので、またご意見を聞かせてください^^
Posted by 47th : March 7, 2006 03:16 PM
>小僧さん
含蓄が深いですね。
ある意味、「法が単なる技術」でしかない社会というのは、幸せなのかも知れませんが、逆に、「法を定める力を持つ者は最小の道徳を定める力を持つ者である」とも言えるのではないかと・・・別エントリーで、その辺りの懸念をもう少し書いてみましたので、そちらにも宜しければご意見を頂ければ幸いです。
Posted by 47th : March 7, 2006 03:25 PM
法の意義や役割について,考えさせられるところがあったので,コメントします。
弁護士として仕事をするようになってから(47thさんと同期です),人々が法に対し過大な期待を抱いているのではないかと感じることがあります。そこでの期待は,法が正義を実現してくれるというものであり,かつ,往々にしてその正義とはその人自身が正義と考えているものである場合が多いため,その期待に対してどうあるべきかというのは悩ましい問題だと実感しています。
他方で,日本社会では,法が軽視されていると感じることも多いです。
この相反するような現象がどうして起きているのかということに興味を感じます。
ところで,「『法』なんて、もっとあやふやで、そこから何か『答え』を導き出せるような、そんな偉いものではないんですよぉ・・・」というコメントには共感を感じるのですが,私は,ケンジ・ヨシノ教授の 「法律家になるということは、人を救ったり時に世の中を動かしたりする強力な物語の語り手になることを意味する」という言葉により魅力を感じます(このヨシノ教授の言葉は,awake in a muddleさんのブログから引用しました。http://hardlyablawg.txt-nifty.com/home/2005/06/index.html)。
これからも47thさんの記事を楽しみにしています。
Posted by T.S : March 7, 2006 07:24 PM
>T.S.さん
はじめまして(同期ですので、リアルではお会いしているのかも知れませんけど^^)
法を自分の正義と同視しようとするから、自分の意に沿わない法を軽視するんではないでしょうか?(自分のことを持ち上げる部下が反抗した途端に嫌悪するようなものですかね?)
法の限界を知り、それが自分の内心的価値観とは別の原理で動いているものであることを知り、それでも、法があるからこそ、それによって自分を含めて社会の構成員が一定のものを犠牲にしているからこそ社会は成り立っているのだということを知ってはじめて、それだけのことをなしている「法」を畏敬の念を持って見ることができるような気がします。
「法」が大したことはない・・・というのは、ちょっと言い過ぎかも知れませんね。私の言いたい気分というのは、法は「市場」と同程度に限界を持っているが、同時に、その活躍する範囲では「市場」と同程度に偉大なメカニズムであるというものです・・・というと、経済学の人には怒られてしまうかも知れませんが^^
これからも、宜しくお願いいたします。
Posted by 47th : March 8, 2006 12:56 AM
>ライブドアへの強制捜査の時にも同じように、私は、「「法」は、そんな偉いもんじゃなくて、世の中に起きることの、ほんの一部をコントロールしているだけに過ぎないんだから、「法律違反」があれば、8000億円の会社と22万人の株主に生じる不利益を考える必要がないなんて、そんな偉そうなもんじゃないんだ」と言いたかったわけです。
禿同!
Posted by kenji47 : March 8, 2006 08:40 AM
> 含蓄が深いですね
そのような賛辞はまことに恐縮です。とはいえ、深いわけではなく、次に続く言葉が思いつかなかっただけで結果としてアフォリズム風味となり故、誤解なされませぬよう。それに場所を間違えると「質問攻め」を食らって即時撃墜されるだけだと思いますので。
Posted by 小僧 : March 8, 2006 09:14 AM
>法律家のくせに、「法」の意義を否定するかのような発言かと思うのかも知れませんが、
>法律家だからこそ、いつも「法」の限界が気になってしょうがないわけです。
>「法」は、もっとちゃんとした役割を期待されていて、それを果たさないといけないんでしょうか?
私は会計に携わるものですが、同じことをよく会計に関して思いますね。
まあ、法ほど一般的に人に意識されることは多くないのかもしれませんけど。
会計なんて絶対的なものではなくて、あくまで人が作った道具に過ぎなくて、って。
人は自分の専門外の権威(?)には、絶対的なものを求めてしまいがちなのかもしれないですね。
Posted by K : March 9, 2006 11:24 AM
>kenji47さん
ご賛同いただきありがとうございます^^
>小僧さん
「場所を間違えると撃墜される」・・・恐いですねぇ
あえて想像するのはやめておきますけど^^;
>Kさん
本当に「権威」だと思ってくれるのであれば、それはそれで助かるんですが、ほとんどの場合は、自分の意見をサポートする場合には「権威」として扱い、そうでない場合には無視されたり、あるいは、力の濫用みたいに扱われたりもするんですよね・・・
Posted by 47th : March 10, 2006 12:19 AM
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