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証券取引と民法95条適用の可否(3)

前回は、次のような事例について錯誤無効の適用を認めるのかどうかということを問題提起してみました。

Case 2
一般投資家のXは、有料配信の速報ニュースで"TCI"に対するSECの調査が入ったことを知り、即座に手許に保有していたTele- Communication Inc.の株式の売却を証券会社Aに委託した。その際XはAの担当者aに対して「"TCI"にSECの調査が入ったという話を聞いた。なので、Tele- Communication Inc.を早めに処分したい」と伝えてた。その直前にAの自己売買部門のディーラーbは、たまたま同じニュースを知り、過去の経験から誤解をする投資家が出ることを予想し、ブローカー部門の担当者全員にTele-Communication Inc株式の売却注文が入った場合には注文を取り次ぐ前に自分に知らせるように指示をしていた。aは、そのニュースの存在を知らなかったが、bからの指示に従ってXがTele-Communication Inc株式の大口売却をしようとしていることを連絡した。その際に、Xが注文の際に話した売却の理由についてもbに伝えていた。bは、Xの売り注文と合わせる形で買い注文を出し、最終的にXとAとの間で取引が成立した。その後、Xは"TCI"がTranscontinental Realty Investor. Inc.の証券コードであることを知った。

前回UPした後で「証券会社が客の不利なことをやったら、それには反感がありそうだよな」と思ったので、ちょっとパターンを変えてみて、単なる友達のYさんが取引相手だった場合なんて、どうでしょう?


Case 3
一般投資家のXは、有料配信の速報ニュースで"TCI"に対するSECの調査が入ったことを知り、即座に手許に保有していたTele- Communication Inc.の株式の売却を友人の投資家Yに持ちかけた。その際にXは、Yに対して、「"TCI"にSECの調査が入ったという話を聞いた。なので、Tele- Communication Inc.を早めに処分したいと思っている。」として理由を話していた。
Yは、たまたま同じニュースを聞いており、”TCI"がTranscontinental Realty Investor. Inc.の略称であって、Xが勘違いをしていることが分かったが、特に何も告げることなく、取引に応じ、株式の購入に応じた。

一応、この事案の場合は、民法95条の要件には全部当てはまりそうです。
にもかかわらず、ちょっとひっかかるのは「勝手に勘違いをしたのはXであって、取引相手にはXの勘違いを指摘する義務はないんじゃないの?」という部分です。
そもそも、なんで民法95条は、勘違いや思い違いをした人間を保護することにしているんでしょう?消費者事件の文脈のように企業vs消費者という形だと、消費者を「保護」する必要があるというのは何となくしっくりくるんですが、証券市場のように投資家vs投資家、あるいは、商取引のような商人vs商人の場合にまで適用するのは妥当なのか?といわれると、少し考えなきゃいけないような気もします。

そもそも何故錯誤は保護されるのか?

民法の教科書とかだと「表意者保護」ということが書かれているような気がするんですが、そもそも何で「表意者」を「保護」しなくちゃいけないんでしょう?
「相手の失態につけこむべきではない」という話もあるかも知れませんが、それだけではしっくり来ないところで、ここでは、ちょっと「ローエコ」(法と経済学)的な視点からこの制度趣旨というのを考えてみます。
まず、事後的な観点から見ると、そもそも錯誤に基づく取引の効力を認めることは効率性には寄与しないことが指摘できます。
典型的な錯誤の例としてあげた「ミカン」を「リンゴ」と言い間違えた例でいうと、「ミカン」を食べたい人に「リンゴ」を売ったとしても、その人にとっては「リンゴ」は払ったお金に見合う価値はないわけで、この人にしてみれば払った代金は無駄になってしまいます。
売った方にとっては、お金が入るので、それだけで見れば単なる富の移転ですが、買った人が「リンゴ」を嫌いで腐らせてしまった場合には、結局、社会全体で見れば、「リンゴ」は無駄になっているわけです。
・・・というわけで、「錯誤無効」はこうした非効率的な取引を事後的に是正する効果を持っているといえそうです。
でも、これだけなら「およそあらゆる錯誤(勘違い)は無効にした方が効率的である」ということになってしまいます。
実際の世の中には、取引を実行するにも、それを巻き戻すのにも、いろいろな取引費用(transaction cost)がかかるわけで、非効率的な取引を是正するのに要する取引用が大きくなってしまうと、結局差し引きでみれば錯誤無効を認めない方がいい場合が出てきます。
民法95条が錯誤の中でも「要素性」(意思表示の重要部分であること)を要するのは、この取引費用とのバランスを考えた基準と考えることができるような気がします。
けれども、これだけなら「事後的に」「取引費用も考慮した上で」それでもなお取引を無効にするのが効率的な場合には、錯誤無効を認めるべきということになりそうです。
ただ、効率性について、もう一つ考えなくてはいけないのが、「事前の」効率性です。
つまり、そもそも「錯誤に基づく取引が起きないように当事者をインセンティブづける」ことができれば、非効率な取引や、それにまつわる取引費用の問題は出てこないわけです。
そこで、たとえ、個別の件では非効率性が残るとしても、一定の場合、取引の無効を認めないという不利益によって、当事者に錯誤に基づく契約が生じないようなインセンティブを与えるという考え方が出てくるわけです。
これが、民法95条のうち「表意者の重過失」がある場合には無効主張が認められないようにしている理由ではないかと思われます。
ただ、なぜ「重過失」なのか・・・「軽過失」や「無過失」ではだめなのか、この匙加減には議論の余地があり得るところです。元々、法的にも「重過失」というのは、かなりファジーな概念で、なかなか明確に定義しがたいところです。
「無過失」や「軽過失」でも無効主張ができないようにすれば、表意者の軽率な意思表示は減るでしょう。ですが、その一方で、「軽過失」あるいは「無過失」ですら許されないということになれば、表意者は事前調査を徹底的にやるようになるかも知れませんし、意思表示は必ず書面化して、相手方に提出する前に弁護士のチェックを受けるようになるかも知れません。
これによって非効率な取引は減るかも知れませんが、同時に効率的な取引に要する取引費用も増加するため、社会的にみれば新たな非効率性が生まれるかもしれません。
この辺りの匙加減の悩みが「重過失」というびみょーな要件に現れているような気がします。
余談ですが、日本の民商法の規定は、相当に考え抜かれて制定されて、起草時の文書や起草者の文献にあたると、びっくりするほど先駆的な考え方みられてびっくりすることがしばしばあります。もちろん、制定当時にローエコはなかったかも知れませんが、起草者の頭の中には、こうした意味でのバランス論はあっても不思議はないと思っています。
さて、では、最後の要件である「相手方が悪意でないこと(錯誤について知らないこと)」というのは、どういう観点から説明できるのか・・・ちょっと長くなったので、今回はこの辺りで。
なお、上のローエコ的説明は、私の中で考えている妄想に過ぎず、何ら文献の裏付けがあるものではないので、その辺りはどうか話半分に聞いていただけると助かります。

Posted by 47th : | 09:12 PM

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コメント

fujiと申します。
錯誤の問題を「ローエコ」(法と経済学)的な視点で考えられているのは非常に興味深いと思いました。私は、錯誤の問題は私的自治の原則、すなわち、「契約は何故守らねばならないかというとそれはその人自身がそれを欲したから」という原則からだと考えてきました。契約当時者の「意思の合致」があるからとも言えます。錯誤にはその意思がないので契約は成立しないのだと。この場合の意思とは法的な効果を欲する意思(=効果意思)で単なる希望や動機は考慮されない。一方で重過失にはその効果意思が存在したと認められるのだと思います。この原則の結果が経済学的に検討する外観を呈しているのにすぎないのではないかと思っています。いずれにしろ、いろいろな視点で考えるのは非常に参考になりますね。これからも勉強させて頂きます。

Posted by fuji : December 28, 2005 04:07 PM

若輩者の商法学者のけんけんです。
fujiさんのお立場(職業・経験・志望など)を存じ上げないので、失礼な表現になってしまうかもしれないのですが、コメントに対する私の感想を申し上げます。

「その人自身がそれを欲したから拘束力を認めるという原則」や、「錯誤には効果意思がないので契約は成立しない」という命題は、現行法を言い換えたものであり、なぜそのようなルールが妥当であるのかという原理的な問に対する答えになっていないと、私は考えます。経済学的思考によって直ちに正答が導かれるわけではないのですが、少なくとも「ルールの正当性を疑う」ことによってルールへの理解が深まったり、ルール適用の難しいケースへの洞察が得られることは少なくないと思います。私は、法律家になろうとする方には、「意思自治の原則」などといった無難(で無内容)な説明を鵜呑みにしてしまうのではなく、ときにはそれを疑う視点を持ってほしいと希望しています。

以上は、あくまでも個人的見解ですので、お気に触ったら済みません。

Posted by けんけん : December 28, 2005 07:42 PM

>fujiさん
コメントありがとうございます。
けんけん先生のコメントで言い尽くされているところもありますが、経済学に限らず、心理学や社会学など隣接社会科学の知見を借りることによって見えてくることが多いと思っています。
その一方で、従来培われてきた概念との整合性も重要であることは間違いないところです。
今後とも何かお気づきのことがあればご教示下さい。
>けんけん先生
コメントありがとうございます。
「意思自治の原則」に限らず、そうした旧来からのを説明の基礎を疑いつつ、また、その底にある(かもしれない)深い洞察にも目を向け、安易な「実務上便利説」に走らないように常に自戒しながらやっていきたいと思います。
これからも、どうか宜しくお願いいたします。

Posted by 47th : December 28, 2005 11:24 PM

>けんけん先生
失礼だなんてとんでもございません。貴重な見解を頂いて光栄です。浅学な私ですがこれからもよろしくお願いします。
>47th先生
コメントありがとうございます。先生のブログがなければ先生やけんけん先生にコメント頂くことなど到底かなわないところ非常に感激しております。
 私としましては、こと錯誤の問題に関しては、わざわざ経済学的な思考過程を辿らなくとも古典的な考え方で解決できるものと思っておりました。契約当事者の意思以外に経済学的な視点で法的に拘束されてよいのかなあと。私がりんごを買うべきところ錯誤でみかんを買ってしまったときに、それが経済学的思考過程から無効となるといわれても腑に落ちないし、無効となった結果を経済学的な視点で検討することと民法が錯誤を無効と規定していることとは別物だと思ったのです。また、「ローエコ」(法と経済学)的な視点は、むしろ「意思自治の原則」では解決できない証取法や独禁法、会社法の一部でこそ生かされるものじゃないかと思ったのです。先生方のコメントの奥の深さで、ますます勉強したいと思いましたのでこれからもよろしくお願いします。

Posted by fuji : December 29, 2005 07:53 AM

>fujiさん
ローエコは契約法や不法行為法でも非常に盛んに用いられていて、「契約は何故守らなければいけないのか?」といったことについても非常に新鮮な見方を提供してくれますので、勉強してみると本当に面白いと思いますよ^^
これからも何か気づいたらコメントしてください。

Posted by 47th : December 29, 2005 11:15 AM

どうもです。「『意思自治の原則』などといった無難(で無内容)な説明」と書き込んだ後で、「いくらなんでも『無内容』はマズイだろう(無内容な議論ならすでに死滅しているはずで、死滅していないということは意味があるはず)」と悩み、もし読者の方々の逆鱗に触れたらどうしようかと心配していました。実際には大きな誤解なく意見交換できたということで、安心いたしました(上記の「悩み」に関する私なりの回答については、別の機会に)。今後とも宜しくお願いします。

Posted by けんけん : December 29, 2005 08:12 PM

若輩ものにコメントありがとうございました。実は早速、以前に買った宍戸先生と常木先生の共著「法と経済学」と神戸先生の「入門 ゲーム理論と情報経済学」も併読して勉強しているところです。何しろ基礎的知識が無なので。でも、ゲーム理論関係のノーベル経済学賞が続いているせいか、最近ではお手軽ビジネス雑誌にもゲーム理論が紹介されたりして身近なものになりつつある一方で、なんとなく交渉術的ハウツーものになってしまっているようです。そういう意味でも47th先生にはこのブログで最先端の見解を披露していただけたらと思います。

Posted by fuji : December 30, 2005 08:25 AM

ちょっと話がずれるかもしれませんが、動機の錯誤というのは、よく考えると結構奥深い世界です。ご存知のとおり通説・判例は動機が表示されて初めて意思表示の内容となると考えており、「新駅ができたら駅前スーパーを建てようと思って、その動機を相手方に伝えた上で土地を購入したら実は新駅ができるという話は事実無根であった」というような例がよく挙げられます。では、「新駅ができたらその土地の値段が上がると思って、その動機を相手方に伝えた上で土地を購入したら、新駅はできたが土地の値段は上がらなかった。」という場合はどうでしょうか。直感的には、土地の値段が上がらなかったからといって錯誤無効を主張できるというのはおかしいように思います。おそらくこのおかしさは、土地の値段が上がるか上がらないかは、意思表示の時点ではどちらにも転びうるというところにあるのでしょう。そうでなければ、「株価が上がると思って購入する」と表示をして取引が成立すれば、株価が下がった場合に錯誤無効を主張できてしまうことになるからです。逆に言うと、動機の錯誤が認められるのは、意思表示の時点でその表示された動機に基づく目的が達成できないこと(例:新駅がおよそできないこと)が明らかな場合に限られるのではないでしょうか。以上は、たまたま、まったく別件でこのようなことを考える機会があったので、多少このエントリーにも関係するかなあと思い投稿するものです。

Posted by taka-mojito : December 30, 2005 10:27 AM

>fujiさん
交渉術はゲーム理論の豊かな内容の一部分に過ぎないというのは仰るとおりだと思います。ゲーム理論の基礎を勉強中の私には、とても先端を紹介することはできませんが、現実への関わりについては、思いついたことを書いていくつもりですので、これからも宜しくお願いいたします。
>taka-mojitoさん
実は私も似たようなことを考えていました。
最近の一括借上方式の賃料価格の事後的引下げを認める裁判例との関係などを考えていて、将来の結果に対するリスクの割当て方法を決める部分では動機の錯誤は働き得るとしても、実現したリスクの割当てが期待と異なる部分は保護されるべきではないのかなと漠然と思っていて、この辺りも何れエントリーを立てようかと思っているところです。

Posted by 47th : December 30, 2005 11:12 AM

こんばんは。たくさんの方のコメント、興味深く拝読させていただきました。
「なぜ錯誤の表意者が保護されねばならないのか?」といった問題は、「なぜ条文に要件として掲げられていない悪意の相手方は無効主張に甘んじねばならないのか」といった問題と共通したものがあると思っています。
おっしゃるとおり、これは法学の領域を超えて、社会学や歴史学など社会科学の範疇まで広げて議論をしないと回答を得られないものと思います。現在の民法95条や関連する最高裁判例が通用する世の中、つまりある程度の文化的教養を日本人が共有しており、「裁判制度」といった解決方法が紛争解決手段として(とりあえずは)担保されている世の中だからではないでしょうか。そういった社会制度や文化、慣習が変遷した世の中になれば、また違った要件が加わるかもしれませんし、「悪意者にも無効を主張できない」といった最高裁判例が出てくるのかもしれません。法律家が(単に経済学だけでなく)世の中の動きや、そこで通用する常識、ルールの変遷などを含め広く興味の対象としなければならないのは、そういった法律を支える基盤から議論をしなければ「法学」自体が社会的なインフラにはなりえないと思うからであります。こういった視点は、このたびの証券取引における民法95条適用の可否についても必要であろうし、私自身も説得的な論証がえられれば、無効であるとの結論を望むものではありません。

今年はいろいろと47thさんには、勉強をさせていただき、ありがとうございました。弁護士を16年もやっておりますと、日常の法律業務のほとんどが「ルーティンワーク」と化してしまい、それで食べていくことも可能なわけでして、向上心に「錆」が生じておりましたが、こういったブログを拝読するなかで、そういった「錆」を取り除き、もう一度「法律を学ぶおもしろさ」を体感するきっかけとなりました。
また、来年もよろしくお願いいたします。

Posted by toshi : December 30, 2005 11:46 AM

>toshiさん
こちらこそ、色々とありがとうございました。
仰るところの社会的な環境と法制度の関わりは、私の来年のテーマのひとつで、とりあえずLaw & Developmentという分野をとっかかりに、法が社会的なインフラとして機能するための条件みたいなものを考えていこうと思っています。
そこらで考えたことも書いていこうと思いますので、来年も宜しくお願いいたします。
よいお年を。

Posted by 47th : December 30, 2005 01:42 PM

内田先生の民法Iの錯誤のところをパラパラ読んでいたら、【もう一歩前へ】の欄で次のような記述がありました。以下引用。「このように考えると、錯誤の要件論で重視すべきなのは、相手方の単なる知・不知(悪意・善意)ではなく、表意者の錯誤を利用することが許されるかどうかの判断ではないかと思われる。しかし、それは、単なる表意者の意思表示の過程や相手方の主観だけではなく、当該取引をめぐる経緯や、さらにはその背後にある慣行や社会関係が分からなければ判断できない。つまり、意思主義か表示主義かといった対立を超える問題がここには含まれているのである。」このエントリーについての議論を通じて、自分の頭で考えることで、学者の先生が考えているような問題点を肌で感じられるというのはブログの一つの効用だなあと思いました。余談ですが、内田先生の民法は、初版からどんどん進化していますよね。特に債権総論のところなんかは、債権譲渡登記とかネッティングとかもはや民法典の枠を超えた話が多く載っていて、改めて読んでみると大変勉強になりますよね。

Posted by taka-mojito : December 31, 2005 12:25 AM

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