Beckerが語る臓器移植論 (2)

前回はBeckerが、移植臓器の需要超過状態に対して市場メカニズムで対処することを提案しつつも、それに対する強い批判を予想しているという話をしました。そこで、予想される批判とそれに対するBeckerの反論を見てみましょう。

臓器に値段をつけることは利他主義に基づく臓器提供者を少なくしてしまい、結果として提供される臓器数は少なくなってしまうのではないか?

→ 潜在的に移植に利用可能な臓器のうち、ほんの僅かしか用いられていないことからすれば、そのようなシナリオの実現可能性は極めて低い。

(That scenario, however, is extremely unlikely since presently only a small fraction of potentially useable organs are available for transplants. Compensating persons either for allowing their organs to be used after their death, or for kidneys and livers to be used while they are alive, would enormously widen the scope of the potential organ market.)

臓器の売り手の中心は貧しい人々であり、結局、貧しい人々から金持ちに対して臓器を売るように仕向けられてしまうのではないか?

→ 貧しい人々が、同意の上で、臓器を売却し、それが遺族に遺産として渡ることに反対する理由はない。生体移植に対しては、より強い批判が考えられるが、それで貧しい人々からその選択の余地を奪ってしまうことが、貧しい人々の状況をよくするわけではない。もし、本人がそう望むのであれば、臓器を売却することで貧困にあえぐ人々の暮らしはよくなるのではないか。
また、中流の人々でも、その対価が自分の家族にわたるのであれば、自らが死亡した後で臓器が売却されることを望む人は出てくるかも知れない。従って、実際に臓器提供者は貧しい人々ばかりになるかはなかなか予測できない。

(It is hard to see any reasons to complain if organs of poor persons were sold with their permission after they died, and the proceeds went as bequests to their parents or children. The complaints would be louder if, for example, mainly poor persons sold one of their kidneys for live kidney transplants, but why would poor donors be better off if this option were taken away from them? If so desired, a quota could be placed on the fraction of organs that could be supplied by persons with incomes below a certain level, but would that improve the welfare of poor persons?
Moreover, it is far from certain that a dominant fraction of the organs would come from the poor in a free market. Many of the organs used for live liver or kidney transplants are still likely to be supplied by relatives. In addition, many middle class persons would be willing to have their organs sold after they died if the proceeds went to children, parents, and other relatives.)

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Upham教授の"Law & Development"を振り返る (3)

日本はGWに入り皆さんもゆっくりされているんではないかと思います・・・が、こちらではいよいよ試験期間スタートです。とりあえず、私は、Distribution関係に特化した反トラスト法科目のテストに備えて、ひたすら判例を読み込んで(MTで)データベース化しています。

ただ、ひたすら反トラスト法の判例を読んでいるとさすがに飽きてくるんで、ここらで気分を変えて「法と開発」の回想にひたりましょう。

前回までの記事は、Upham教授の"Law & Development"を振り返る (1)Upham教授の"Law & Development"を振り返る (2)ということで。

Strutural Adjustmetn and the IMF/ World Bank

世銀とIMFが'governance'は'politics'とは違うというパラダイムの下にStructural Adjustmentを途上国に条件付けることが、実際には発展への道筋について一定の政治的選択を伴っていることを、「国家」の役割を6つの面から分析したBiersteker(1990)を使って見た上で、実際にはStructural Adjustmentが途上国の貧困層に苛酷な結果をもたらしているというSAPRIN[2002]で確認しました・・・ただ、何ででしょう、単に私がぼーっとしていたせいかも知れませんが、何だか余り印象は強くありませんでした。

Corruption

開発の場面で「問題」とされることの多いCorruption(不正とでも訳せばいいんでしょうか)ですが、経済理論的にはその功罪は必ずしも自明ではありません。
また、法的にみても「贈賄」が金銭を使って自己に有利な政策の実現を試みるものだとすれば、「合法的な」政治献金との区別は相対的なものでしかありません。
ここでも、Corruptionは、外形的に「ルール」をもって判別できることを前提に政策を組み立てようとするエコノミストからの視点と法律家の視点の対立が描かれます。

ただ、ここで印象的だったのが、Upham教授のKaufmanに対する苛立ちです。Corruptionが統計的な数値に出ないときには無視して、開発にはgovernanceが重要だと主張していたKaufmanが、corruptionについて定量的なデータを入手した途端、それが重要だと主張する・・・

「彼らにとっては、定量化されなければ目に見えないのと同じなんだよ」・・・異例の時間の割き方でKaufmanの二つの論文を比較させたのは、そうしたスマートなエコノミストたちの変節ぶりを学生自ら感じ取って欲しいという願いだったようですが、残念ながら、私を含め、Upham教授のこの苛立ちを共有するには、まだまだ苦い経験が不足していたのかも知れません。

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Beckerが語る臓器移植論 (1)

このブログにも時々コメントを下さるさなえさんのところを経由して5号館のつぶやきさんの「移植臓器の売買はどうしていけないのか」と「臓器移植というパンドラの箱」というエントリーを拝見。

この問題は複雑すぎるんで深入りする気は全然なく、数か月前にBeckerとPosnerが、この話題を採りあげたときにも、一瞬紹介しようかと思ってやめておいたんですよね。ただ、最近消費者金融の制限金利問題についてローエコ的な発想をすると、「何寝ぼけたこと言うてんや、おまえは」という反応をされることもあるんですが(洒落ですよしゃれ)、世の中には、私の比なんかではないもっと凄い発想をする人がいるということを示すために、昨日紹介したFreakonomics日本版のついでに、Beckerによる「Should the Purchase and Sale of Organs for Transplant Surgery be Permitted?」(移植用の臓器の売買は解禁されるべきか?)を簡単にご紹介しようかと思います。(それにしても、よく見ると、このエントリーは今年の元旦じゃないですか・・・Beckerの気合いを感じますね)

ちなみに、Beckerって誰?っていう方のために簡単に紹介しますと、シカゴ大学の経済学の教授・・・そういわゆるシカゴ学派の代表的経済学者で、犯罪とか家族関係とか従来市場が成立しないと思われていたところにまで経済学を適用してしまうという恐るべきお方で、その経済学の版図拡大の功績が認められて1992年にはノーベル経済学賞を受賞しています。(もっと詳しいプロフィールはこちら(英語)を)

そんなBeckerのスタート地点が、現実に起きている現象を「需給のアンバランス」という観点から見つめることは、ある意味自然なことです。

There were about 50,000 persons on the waiting list for kidney transplants in the United States in the year 2000, but only about 15,000 kidney transplant operations were performed....In 2000, almost 3000 persons died while waiting for a kidney transplant...
If altruism were sufficiently powerful, the supply of organs would be large enough to satisfy demand, and there would be no need to change the present system. But this is not the case in any country that does a significant number of transplants.

(米国では西暦2000年の時点で腎臓移植のウエイティング・リストに約5万人が登録していた。しかし、わずかに15000件の腎臓移植手術がなされたのみである。・・・2000年には、ほとんど3000人の人々が腎臓移植を待っているうちに亡くなった。
仮に利他主義が十分に力強いものであるならば、臓器の移植は需要を満たすのに十分存在するであろうし、現在のシステムを変える必要もないであろう。しかし、臓器移植を相当な数行っている国の何れにおいても、これは当てはまっていない。)

Beckerは、経済学の観点から、この状況の原因と対策を次のようにまとめています。

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Freakonomics = ヤバい経済学

前に原書の方を少し紹介したことのあるFREAKONOMICSが、「ヤバい経済学 ─悪ガキ教授が世の裏側を探検する」というタイトルで邦訳されたようです。
 

非合理なはずの世の中の、更に非合理なはずの部分が、意外なほどに経済学的な手法や発想で説明されるんだ、へぇという醍醐味を味わえる(はずの)佳作ですので、未見の方はGW中に是非どうぞ^^(・・・ただ、ヤバい経済学とは・・・邦題の評価は分かれそうなところですね。)


FREAKONOMICS.bmp

Upham教授の"Law & Development"を振り返る (2)

前回に引き続きFrank Upham教授のLaw&Developmentの授業を振り返っていきます。

Legal Theories of Development

「開発」と「法」の関わりを見ていく上で、最初に読んだのはScott, SEEING LIKE A STATEです。
Scottは、国家による統治の根源にはlegibility(可視性?)の向上があると喝破します。税金の徴収を容易にするために、土地台帳や地図をつくり、そのために度量衡を統一していく・・・Scottは、こうした営みによって近代的な経済社会が発展してきた一方で、可視性を高めるために目的とは関係ない情報はあたかも存在しないもののように取り扱われ、規格の統一化にとって邪魔な地域的特殊性は捨象されていく・・・「法」は、まさに国によるそうした単調的な社会の再構成の手段として描かれるわけです。

例えば、所有者に使用収益・処分の自由性を与える近代的な「所有権」は、徴税の便宜や市場の促進のために採用されたものですが、これは実際に人々の間で採用されていた土地の利用制度の実態からは大きくかけ離れたものでした。こうした手段は地域社会で実際に発展していた様々なシステムを破壊したり、あるいは、破壊されずに残った慣習と公の「法」との間の葛藤を生み出すことになります。

近代ヨーロッパでも長い時間を必要としたこうした統治者にとっての可視性を高めるための規格化が、現代の開発の場面で有効に機能し得るかについてScottは疑問を呈します。

しかし、実際には世界銀行は、「"rule of law"が発展を基礎付ける」という考えの下に、それを"governance"と名付けて、途上国への援助・貸付けにあたって、それを条件付け、あるいは、"governance"こそが発展の鍵であるという「実証」データを積み上げていきます。

そうしてエコノミストたちが「法の支配」の重要性を強調していく一方で、当の法律家たちは、「開発」と「法」、あるいは、「法の支配」の開発における重要性について悲観的な見方を強めていきます。実際に「法」を扱う法律家たちの目からは「法の支配」は、単に西洋的なシステムを具現化した「ルール」を定めることや、それを守らせることのみにあるのではありません。
近代的な所有権制度や契約法を「ルール」化すれば、途上国はうまく発展するという希望は早い段階で打ち砕かれ、法律家はあるべき「法」と「開発」の関わりについて答えを見出せずにもがき苦しむ・・・

「法」を知る法律家が「開発」における「法」の役割について答えを見出せないその脇で「開発」に携わるエコノミストたちが「法の支配」を布教して回っている・・・この今の「開発」をめぐる現状のアンバランスさこそ、Upham教授が強調したかったことではないかと思います。

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格差社会とベル・カーブ

(4/27 追記あり) 

数日前にThe Becker-Posener BlogBecker(と一応Posner)が、所得格差の拡大は全然悪いことじゃない!・・・と、言い切ったときには、さすが筋金入りのシカゴは違う、と感心、というか受けていたわけです。

Beckerの主張のエッセンスは、要は現在の所得格差の拡大は、学歴による格差、特に大学卒業者とそうでない層との所得格差の拡大にあり、それ自体は教育という人的資源への投資が高いリターンを生み出しているということであり、それによってアメリカ経済は全体として成長しているのだから問題はないんだというものです。

これ自体はデータとその解釈の問題というところもあるので、まあ前提となるデータが正しいのであれば、という留保付で一つの見方だし、いかにもBeckerらしいということでにやにやしていたんですが、最後のまとめ的なところで、何かしっくりこないものを感じていました。

Why have not more high school graduates gone on for college education when the benefits are so apparent? And why did the fraction of American youth who drop out of high school, especially African American and Hispanic males, remain quite constant at about 25 per cent of all high school students?

The answer to both questions lies partly in the breakdown of the American family, and the resulting low skill levels acquired by children in broken families. Cognitive skills tend to get developed at very early ages, while my colleague, James Heckman, has shown that non-cognitive skills, such as study habits, getting to appointments on time, and attitudes toward work, get fixed at later, although still relatively young, ages. High school dropouts certainly appear to be seriously deficient in the non-cognitive skills that would enable them to take advantage of the higher rates of return to greater investments in education and other human capital.

So instead of lamenting the increased earnings gap by education, attention should focus on how to raise the fraction of American youth who complete high school, and then go on for a college education. These pose tough challenges since the solutions are not cheap or easy. But it would be a disaster if the focus were on the earnings inequality itself. For that would lead to attempts to raise taxes and other penalties on higher earnings due to greater skills, which could greatly reduce the productivity of the world's leading economy by discouraging investments in human capital.

要はBeckerは所得の再分配なんて考えるのであれば、大学進学率を上げた方がいいと言っているわけです。
こうなると、開発の場面でもしばしば出てくる、卵が先か鶏が先かみたいな議論で、家庭が貧しいからその過程における教育の優先づけが低くなるー教育を行うことが将来的には有利でも、家庭の予算制約のために子供に高等教育を受けさせることが困難という事態が生じる(ちなみに、これは消費者金融でも問題となった時点選好の制約の問題で、この場合に貸付けを受けられれば、将来のより大きな収益をとることができることになるわけです。余談ですけど)・・・という話になってくるので、前段のBeckerの分析が仮に正しくても、後段の政策的インプリケーションの導出は、ちょっと短絡的と言わざるを得ないように思います。

・・・と、それだけなら、それはそれで、まあいいわけですが、途中のHeckmanの研究やらを引っ張り出して、認知的スキルは小さい頃じゃないとだめだとかいう辺りは、結局何を言いたかったんだろうというのが、もやもやしていたんですが、マンキュー先生のブログの今日の記事(On Just Deserts)で同じ類のもやもやが。

Behavioral geneticists tell us that a large fraction of the variation in life’s outcomes (50 percent or more) can be explained by the genes you have when you are born. Suppose that one day we could identify the high-IQ gene, the attractive symmetrical face gene, the tall gene, and so on. Optimal tax theory says that we should levy special taxes on the lucky people with those genes. After all, you don’t deserve the fruits of those genes.

適正な課税形態の話に絡めた話ですが、ここにある生まれつきのIQが社会における成功を規定するという辺りの発想というのは、意外なほど根強くアメリカのトップエコノミストに受け容れられているんじゃないかという気がしたわけです。(ちなみに、マンキュー先生自身は、その直後で本当にどうかは分からないけどとお茶を濁していますが、積極的に否定しているわけでもありません)

まあ、私も積極的にどうのこうのという程でもないんですが、法律家として、この手の話にはもやもや感が残るということで、とりあえずは、このもやもや感を忘れないようにということで。

(ちなみに、マンキュー先生のブログと言えばMicro versus Macroも面白かったですね。最近すっかりお気に入りです)

(4/27 追記)

今日のマンキュー先生のブログでも、所得の高低は遺伝的要素が大きいという話がされています。

Sacerdote suggests that income is like height. Having a tall father means you are likely to be tall, but it is because he has given you the tall gene, not because he has created an environment that fosters height. The same appears to be true for income. Sacerdote's Table 3 shows that although there is a positive correlation between the incomes of parents and their biological children, the positive correlation disappears when we examine the incomes of parents and their randomly-assigned adopted children.

貧乏お父さんの子供が金持ちお父さんにもらわれていっても、金持ちにはなれないというのは面白い話ですが、私の関心からいうと、金持ちお父さんの子供が貧乏お父さんの養子となった場合にどうなるのか、貧乏に遺伝的な要素はどの程度占めるのかという話の方が興味があります。

また、この研究結果を受け容れた場合の政策的な対応に関するマンキュー先生のお考えもうかがいたいところです。以上、とりあえずメモの延長ということで。

開発におけるPrivate Normsの可能性と限界 (3)

前回までのエントリー

製品市場による規律の限界と制度設計へのインプリケーション

とりあえず私が文献を渉猟した範囲なんですが、製品市場による規律メカニズムについては、後述の認証制度における集合行為問題の解消を除いては経済学的なモデルを使って分析したものは見かけませんでした(もしご存じの方がいらっしゃいましたら、教えていただけると大変に助かります)。

余りにも自明だからということかも知れませんが、念のために確認しておきましょう。

基本的な発想は、例えば「途上国での生産活動において労働条件に関する一定の規範を守る」ということが、一種のブランドと同じ効果を持っており、「規範を守る」ということによって、より高い価格で製品を販売できるというものです。本格的にモデルをつくろうとすると、元々の製品の市場へのフィードバックも考慮しないといけないのですが、ひとまず、「規範を守る」ということによるメリットは、本体の製品自体の価値に比べれば十分に小さく、短期的には本体製品の競争条件(各生産者による製品自体の生産量)には影響を与えないということにしましょう。更に、単純化のために、「規範を守ること」を本体とは異なる独立した財Xとして扱い、本来の製品の生産者が十分に低い投資で市場に参入退出できる状況を仮定します。

ここで、製品1単位辺りのXの価格(p)は供給量(y)と消費者のXへの選好の強さ(u)に依存するものとします。
Xの生産、つまり規範を遵守することによる限界費用を一定(C)とすると、ある企業が規範を守るかどうかは、pCの大小関係に依存し、p>Cであれば、企業は自発的に規範を遵守することになります。

ある意味当たり前のことですが、①製品市場における規律が有効かどうかは、規律を守ることに対する消費者の評価の高さとそのためのコストの大小によって定まり、②価格は供給量に対する減少関数で与えられるので、多くの企業がこの規範に従うにつれその価値は下がり、一般にはp*=C*となる生産量y*で釣り合うことになります。
(②については解釈が難しく、規範に従うかどうかは、本体の製品自体の競争条件に全く影響を与えないとすれば、全ての製造者が規範に従うとは限らないことを意味します。この場合に、各企業が純粋戦略だけしかとれないとすると、誰も規範に従わないという選択肢が均衡として成立する可能性もあるわけですが・・・実際には、何らかのフィードバックがあると考えられることと、混合戦略的な対応(工場の一部についてのみ規範を遵守するとか?)もあり得ることからすれば、今回はこれ以上詰めて検討するのはやめておきます)

これだけなら何ということのほどもありませんが、少しモデルを拡張して、製品市場が分断されている状況を考えてみます。典型的には、アパレルメーカーが中国の工場で製品したスニーカーが、日本やアメリカなど複数の地域に出荷されている状態です。このとき、コストは出荷先によらず一定(C)ですが、選好の強さが市場によって異なるとすると・・・長期的にみて、本体製品の生産条件にも影響を及ぼすとすれば、(規範に従わない、市場による選好の弱い市場への出荷を増やす)(規範に従う、市場による選好の強い市場への出荷を増やす)という分化が進む可能性があります。この場合、途上国における規範遵守による効果は、選好の弱い市場の存在によって希釈化されることになります。実際には、規範の内容によっては、例えば労働基準の場合、途上国内部での賃金相場の上昇という形で明示に規範を採用しなかった企業に対するスピル・オーバー効果が生じる可能性もあるので、必ずしも希釈化がそのまま起きるわけではありませんが、単独市場による規律付けは必ずしも十分な効果を持ち得ない可能性があるという点は心に留めてもいいように思われます。

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磯崎さん、ありがとうございます

まだ自分の目で確認したわけではなく、ろじゃあさんの記事経由なんですが「AERA」で、磯崎さんがよくご覧になるブログの一つということで、当ブログをあげていただいたとのことです。

ちなみに、磯崎さんがあげられたブログはこちらということで、錚々たる顔ぶれです。ぐっちーさん以外は、このブログでも絡ませていただいたこともありますし、どのブログもその筋では有名ですから皆さんご存じかと思いますが、もしご存じなければ、これを機に私も購読を薦めさせていただきます。

元々、このブログを始めたのも、よい読者の方にめぐまれたのも、匿名を放棄したのもw、磯崎さんのおかげですので、本当に足を向けて寝られません(・・・て、前にもどっかでこのフレーズは使ったような気が・・・)。

一応、初めていらっしゃる方のために、このブログの構成を紹介しますと、管理人の素性などはこちらにあります。

当初は専門のM&Aネタ敵対的買収ネタが中心だったのですが、最近は話題が拡散してきて、「法と開発」(発展途上国の開発における法の役割を考える分野)ネタ「ローエコ」(法制度を経済学的な手法を使って分析する分野)ネタが増えつつあります。

私が既に日本を離れて2年近くになり段々と浦島太郎状態になっていることもあって、磯崎さんがあげられていた他の方のブログに比べると実用性は落ちつつあるかも知れませんが、ちょっとひねくれた方向から物事を眺めてみたい方には楽しんでいただけるんではないかと思います。

アイルライドの学生、マンキュー先生にネタを投じるの巻

人のブログ読んでる間があれば勉強しろ、ってな話ですが、マンキュー先生の今日の記事・・・っていうか、アイルランドの学生がマンキュー先生に送ったメールがツボにはまったので、ご紹介。

ツボその1

I put the question 'why is ireland rich and africa poor?' to many of my friends recently, who study law, science and even business (but not economics), and their response was depressing. The main answer was that Africa was 'dominated by western multinational companies', with variations on it being that ireland stole goods from the third world or conducted 'unfair' trading practices, to the alarming 'ireland is rich because it has a minimum wage'
(ぼくは、最近友達で法律とか科学とか、なかにはビジネスとか経済学以外の勉強をしている奴らに「どうしてアイルランドは裕福でアフリカは貧乏なんだと思う?」と聞いてみました。主な答えは、アフリカは「西洋の多国籍企業に支配されていた」からというもので、そのバリエーションとしてはアイルランドは第三世界から財産をかすめ取っているとか、「不公正な」貿易慣行をやっているからとか、なかには「アイルランドが裕福なのは最低賃金制度があるからだ」なんて言うんですよ)

友達の答えもなかなか味があるんですが、この質問で経済リテラシーを試そうとするその度胸に座布団一枚・・・っていうか、これに「正解」を与えることができたら、ノーベル経済学賞か平和賞もんですよ。

ツボその2

Think about it, in the time it has taken to read this email (if you have, of course) you could be writing a popular economics book, each extra minute costs you money. What are you waiting for? You would not only make a lot of money, but you would do the world a favour. The positive externalities resulting from its publication, showing people how the world really works, or, as Harford puts it showing 'why poor countries are poor' would be enormous. Write write write!
(考えてみてくださいよ!このメールを読む時間があったら(もちろんあったらですけど)[訳者注:アイルランド人にも一人つっこみの文化があると思われる]、大衆受けする経済学の本が書けるはずですよ。何を待ってるんです?その間にもお金が無駄になっているんですよ。大金を稼げるだけでなく、世の中にとってもいいことなんですよ、世の中が実際にはどうやって動いているんだとか、Harfordが言ったみたいに「なぜ貧しい国は貧しいのか」を人々に示すことで、ものすごく大きなプラスの外部性が生じるんですから。さあ、書いて、書いて!)

彼は経済学部の学生なんかじゃなくて、プロの編集者に違いありません。おかげで、マンキュー先生のレスポンスは、色々言いながら、Freakonomicsを意識したりと結構色気たっぷりっになってますから、マンキュー先生の本がBarns & Norblesに平積みされる日も近いんじゃないですかね(笑)。

ツボその3

PS If you do write it, try and organise it to be dropped on France, for free, and in large quantities. You would be doing Europe, and in particular my own country (whom France is repeatedly trying to bring into line with the nightmare 'European Social Model' through the EU, regarding us as a neoliberal trojan horse), a favour.

多分、もの凄く笑うべきところなんだと本能が教えているんですが、背景が今ひとつ分からないので、誰か知っている方がいらっしゃったら教えてください。

あと、ネタの部分もあるんですが、まあ、いろんな部分で社会的なリテラシーをどうつくっていくのかというのは、日本でも人ごとではなにんで、それぞれの分野の人間が考えていくべきなんでしょうね。

 

Upham教授の"Law & Development"を振り返る (1)

春学期のロースクールの授業も明日で終わりです。
ついこの間ロースクールが始まったような気がしているのに、光陰矢の如し・・・学成り難しとはまさにこのことなんですが、今日はFrank Upham教授のLaw & Developmentの授業の最終回でした。

春学期にとって授業の中でヒットをあげろと言われれば、Behavioral Law&Economicsと並んで、この授業をあげます。
今まで興味を持っていたけど漠然としたイメージしか持っていなかった分野について、何となくこれから勉強していく手がかりを得たということと、これまで自分が学んできた企業法の位置付けの上でも非常に示唆深い授業でした。

この授業の試験は、Take Homeと呼ばれる持ち帰り試験で、授業で読んだうちから3本以内の論文をピックアップして(あるいはWhite man's burdenかThe end of the povertyの何れか)、それに対する批判的な分析を3000単語以内で行うというものです。

他の科目の試験準備と並行しながら準備しなくてはいけないのですが、まずは3本の論文をピックアップしなくてはいけません。(White man's burdenかThe end of the povertyという手もあるんですが、これから丸々1冊読んで、批判の筋道がうまくつかないリスクを考えると避けておいた方が賢明というところで)

その準備作業ということで、ごく簡単にこの授業のアウトラインを振り返ってみることに(以下はノートと記憶を頼りにしているので、不正確なところもあるかも知れません。もし間違い等あったらご指摘頂けると幸いです。

ところで、ブログというのが価値があると思うのは、一人でうじうじと考えているよりも、こうして(本当に読んでくれている人がいるかどうかは別として^^;) 読者を意識して考えをまとめている方が、自分が考えていることが見えてくるところですね。

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阪急・阪神の統合の行方?

阪急、阪神株取得を確認 村上氏側と交渉へ (asahi.com)

阪急ホールディングス(旧阪急電鉄)は24日、臨時取締役会を開き、村上世彰氏率いる投資ファンド(村上ファンド)が持つ阪神電気鉄道株(発行済み 株式の約46%)を取得する方針を確認した。株式公開買い付け(TOB)を想定しており、阪神との経営統合を打ち出したことになる。阪神電鉄も25日に臨 時取締役会を開き、賛同を確認する予定。実現すれば大手私鉄同士では戦後初の再編となる。ただ、村上ファンド側は売却するかどうかについてコメントしてい ない。
 阪急は臨時取締役会の内容を明らかにしていないが、阪神株の買い取り価格や投資総額の上限を議論した模様だ。今後も必要に応じて随時、取締役会を開くと 見られる。村上ファンド側と価格面で折り合えば、TOBを実施して取得する。TOBは、対象企業の発行済み株式の3分の1超を取得する場合に義務づけられ ている。

球団名はどうなるんだとか、そういう話もあるんですが、そもそも独占禁止法的にも興味深い事例です。

私は関西の土地勘がないので、よく分からないんですが、関西出身の友人によると結構競合している路線が多いという話も聞きますので、市場の画定とか競争減殺の危険とか正当化事由といった辺りで、公正取引委員会の企業結合規制に対するスタンスを見る上で一つの試金石となるのかも知れません。

また、仮に村上ファンドと買付価格について合意が成立した場合に、公開買付けによる買付を行う場合に買付価格もさることながら、最低買付数・上限買付数をどうするかといった辺りも注目ではないかと思いますが、とりあえずメモだけということで。

 

見せ金・・・というか見せ罪?

イーホームズ藤田社長、週内に立件・架空増資の疑い (NIKKEI NET)

姉歯秀次・元一級建築士(48)による構造計算書の偽造を見逃した民間確認検査機関「イーホームズ」(東京・新宿)が架空増資をしていた疑いが強まったと して、警視庁などの合同捜査本部は23日、公正証書原本不実記載容疑で、週内に強制捜査に乗り出し、藤田東吾社長(44)を立件する方針を固めた。

何というのか、この「見せ金」騒動を初めて聞いたときから違和感があったわけで、その違和感の源というのは、ライブドアの強制捜査のときと同じ・・・というか、これが「構造計算書の偽造によって欠陥建物が建てられても、現行の建築基準法では50万円以下の罰金にしかならない。法に不備があり、立件するための法的手立てが限られた中での、捜査陣の苦肉の策でもある」(Yomiuri Online)とすれば、法定刑の軽い「本件」に重い刑罰を適用するために「別件」を使おうという話ですから、適正手続きや罪刑法定主義を定めた憲法とか刑事訴訟法1条は空文化しているという話です。

もう一つは、言われてみればそういう判例の取扱いなんですが、「見せ金」で公正証書原本不実記載(・行使)罪というのも、ちょっと怖い話です。
仮装払込の形態には「見せ金」と「預合い」という二つの形式があり、商法(会社法)上は刑事罰が規定されているのは後者だけで、前者には特別の規定はありません。
ところが、公正証書原本不実記載罪というのは、要は「民事上無効なのに、それを知りながら資本金が増加するという登記申請をしたことはけしからん」ということです。「見せ金」自体は、法律構成としては業務上横領に該当する可能性もあるので、それに比べると法定刑は公正証書原本不実記載罪の方が軽いので、被告人には「優しい」取扱いなんですが、一般的に「民事上無効な登記申請は公正証書原本不実記載罪」に該当すると言われると結構怖い話です。
例えば、弁護士から払込は有効だという意見をもらって増資をしたが、あとで民事的に争われて負けた場合なんかに、違法性の錯誤で法の不治は恕せずと言われてしまうと、法解釈の限界に挑戦する取引には刑事罰リスクが生まれることになります。

もし、その刑事罰リスクが顕在化するかどうかは、捜査機関の腹一つということになると・・・息苦しい話ですね。

一応、ライブドア事件のときの関連エントリーを以下に掲げておきます。

 

開発におけるPrivate Normsの可能性と限界 (2)

そもそもPrivate Normsとは?

まず、Private Normsということを議論する上では、定義と議論の射程を明らかにしておく必要があるでしょう。

消去法的に定義すると、まず、国際慣習法も含めて国家によって制定され履行が確保される「法」は除きます。(もっとも、制定あるいは履行の何れかに関して国家が関与することは考えられます)

次に、ここでいうNorms(規範)は、その規範の名宛人となっているプレイヤーの行動を「規制」する効果を持つものであり、いわゆる"Obligational Norms"を対象にします。また、規範の名宛人としては、途上国に直接投資を行う多国籍企業(Transnational Corporation(TCN))、あるいは、途上国へのファイナンスを行う国際的金融機関(Transnational Financial Institutions(TFI))を念頭に置くこととします。

最後に、この規範が義務的(Obligational)であるメカニズムとして、内部化された義務感(internalized duty)は検討の対象外とします。
このペーパーで分析したいのは、ある一定の政策目的の達成との関係においてPrivate Normsの意義を考えることです。もちろん、「環境に配慮すべき」というスローガンを長期にわたって訴え続けることによって、環境に対する意識が内部化されるといった過程も考えられますが、こうした心理的な義務感の内部化の過程は極めて複雑で予測やコントロールも困難です。
従って、可能性として、民衆レベルでの反対運動やNGO、マスメディアの働きかけが、ある種の義務感を内部化する可能性は否定はしませんが、このペーパーでの分析対象からは意図的に外します。

従って、このペーパーで検討されるPrivate Normsとは、「法」以外のものであって、何らかの外部的なサンクションの畏れによって、TCNあるいはTFIによる途上国への投資活動行動に一定の規律効果を有するものということになります。

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上限金利規制に対する議論の中間整理

(4/24 一部修正・リンク先追加) 

別に消費者金融業界にクライアントがいるわけでもなく、利息制限法や貸金業法を専門にして生きているわけでもない私が、何の因果でここまでムキになって上限金利規制に反論せにゃあかんのかという話はあるわけですが、それでも反論したいというのが人間の摩訶不思議で、これを選好の個別性の問題と呼ぶか非合理性と呼ぶかはともかくとして、とりあえず、ここまでのところでの関連エントリーを以下にまとめてみました。

ところで、一つ確認しておきたいんですが、私は、上限金利規制強化が、政策目的として掲げれている多重債務者問題の解決自体に反対しているわけではありません。
多重債務者の債務整理や自己破産申立てにかかわったこともあれば、信販会社の申し立てた財産差押えの執行で執行官について一日に複数の多重債務者のお宅を訪問したこともありますし、その意味では(現にばりばりと債務整理をこなしている方々とは比ぶべくもありませんが)多重債務者の実態についても人よりは見聞きしているものもあります。(ただ、その印象からは、多重債務者が自己抑制の利かない非合理な人々という印象は実は強くありません。多くの場合、自分又は連帯保証の主債務者の倒産・失業という予測の難しいイベントがトリガーとなり、消費者金融からの借入も生活費や住宅ローンの支払原資で、それ故に同情すべき余地の多い事案でした。この辺りの感覚は、下で挙げている「消費者金融顧客の自己破産ーその特徴と原因ー」の実証結果と一致しますが、それについてはまた後日ということで)
私が一連のエントリーで問題としているのは、上限金利規制はまず理論面から考えても多重債務者問題の解決に役立たないという意味で政策として無益であるのみならず、低所得者層によるクレジットへのアクセスを閉ざしライフラインを危殆化させるのみならず、ヤミ金融への依存度を高めてしまうという点で、却って保護の対象であるはずの低所得者層にとって望ましくない結果を惹起するおそれが高いという点です。

人間は世の中を敵と味方の二つで見たがり、敵の味方をするものは敵と考えたがる・・・と、経済学者のDavid Friedmanも最近こぼしていたわけですが、「貸金業者にとって不利な上限金利規制に反対すること→貸金業者の肩を持つこと→多重債務者の敵」という構図で見られている方がいらっしゃったら、少し立ち止まっていただけると幸いです。

また、私が拝見した他のブロガーの方の記事の中で、専ら経済学的な観点から(従って、実務的な観点や純粋に法的な観点からのものは除外しています)上限金利規制を行うことについての意義を考える上で参考になるエントリーを。

次はネットで見つけた有用な論文が掲載されているサイトと参考になると思われる論文です。

消費者金融サービス研究所:早稲田大学プロジェクト研究所ワーキングペーパー

消費者金融サービス懸賞論文サイト

同サイトには学部生の受賞論文も載っていますが、ここに挙げたのは大学院生以上の論文の中でこれに関連すると思われる論文のみです。

というわけで、この問題について引き続きご興味を持たれる方は、こうした論文などもご覧になってみるといいんではないかと・・・で、皆さんが、こうした論文をご覧になっている間に私はゼミのペーパーと試験準備にいそしむということで。

では、皆様ごきげんよう。

開発におけるPrivate Normsの可能性と限界 (1)

上限金利厳格化問題については、消費者金融において見られるBehavioral Biasとその法的規制へのインプリケーションと、上限金利規制よりも弊害の少ない政策対応手段の可能性についても書きたいんですが、そんなことをやっていると卒業が危うくなるんで、とりあえず学生の本分に戻ってペーパーの執筆とテスト準備に復帰します。

で、ペーパーなんですが、また、こうやってブログに書きながら、構成をまとめてみることにします。

今回ペーパーを書かなくてはいけないのは、Kevin Davis教授のFinancing Developmentというゼミです。発展途上国の開発金融の現状と課題について資料を読み、議論をして、実務家の前でグループ・プレゼンテーションをした上で議論するというゼミでした。教授の問題意識や議論の組み立てにたまに?がつくことがあったりはしましたが、全体的に見れば、今まで知らなかった開発金融について色々と勉強することができたので、非常によかったと思います。

ただ、何せ土地勘のない分野なのでペーパーのアイディアには一苦労。Microfinance関係で何か書こうかなとも思ったんですが、それこそMicrofinanceに上限金利規制は必要かとか回収手法に規制を設けるべきかみたいな議論をしても、途上国におけるライフラインとしてのMicrofinanceの重要性にまで踏み込まないと説得力がないんでボツ。

結局、これまでの知識と連続性を保ちながら扱えるテーマということで着目したのが、Equator Principlesです。

Equator Principlesというのは、途上国へのプロジェクト・ファイナンスによる融資におけるIFC(International Financial Corporation)の定める環境に関するセーフガードの遵守等を国際的な主要金融機関の協調によって達成しようとする枠組みです。

途上国に対する開発国からの投資の場面では環境や労働に関する問題がいろいろとあるわけですが、これを公的な枠組みで規制することについては、そもそも国家的なコンセンサスが難しいことや、たとえ一定の合意ができたとしてもそれをエンフォースすることが難しいことなどから、なかなか進展しません。そこで、最近は民間主体によるイニシアティブが重視されている・・・ゼミで紹介されたときには、こうした説明と共に一つの疑問が提示されました。

それは、こうした民間主体のイニシアティブによる国際的な規範の実効性はどう確保されるのか?という点です。

これが国際的にも有数の主要金融機関同士の合意であることから、このEquator Principleが大規模なプロジェクト・ファイナンスにあたっての取引費用を削減する効果を持っている限りにおいては、参加金融機関は相互に監視のインセンティブを持っており、また、違反した金融機関に対してはその後のシンジケートへの参加を拒否するなどの制裁手段も有していることから、一種のカルテルと同様の実効性を持ち得るのではないか-ゼミの場では、そう思いついて発言をしたのですが、それが結構印象に残っていました。

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消費者金融≠企業金融

消費者金融について経済学的な議論をしようとすると、意外なほど基本的なところで、その「経済学的な」意義に対する理解に差があるのを感じるのですが・・・その中の一つが、個人貸付を企業貸付のアナロジーでとらえて、「20%以上の期待利益を持つ投資機会など個人にはほとんどないのだから、それ以上の金利による貸付は合理的な行動の結果ではない」といった議論です。

前段の「投資機会」の存在については全く争いませんが、そこから導かれる後段については経済学的にいえばナンセンスな議論(のはず)です。(もし間違っていたら教えてください)

分かる人には、おそらく、「消費者行動における貸付は異時点間の消費選択の問題であって、その金融仲介サービスにいくらの対価を支払うかは予算制約線の中での通常の効用最大化の問題に過ぎない。従って、時点選択の効用を高く評価する消費者が、それに高い価格を払ってもいいと考えることは合理的な行動である」・・・あるいは、どうしても「投資」のアナロジーでとらえたいのであれば、「消費者貸付に対するリターンの算定には金銭的な効用のみならず非金銭的な効用を加味しなければならない」というような説明で分かっていただけると思うのですが・・・
(なお、個人でも例えば事業資金としての借入はもちろん、学費なども学歴が将来の期待収益を高めるという点では投資の側面があることは否定しません。ただ、こうした「投資」の側面が強い資金需要については、それに応じた審査と返済スケジュールが用いられるので、消費者金融の上限金利のところでの議論とは直接関連しません。また、企業金融でも、投資ではなく流動性制約を回避するための金融、例えばコミットメント・ラインの手数料などは、時間選好の観点から説明されるので、全く企業金融理論と断絶しているわけでもありません。あくまで、典型的な場合ということで)

誰か、これを分かりやすく説明してくれないかなぁ・・・などと天からの助けを期待しつつ、とりあえず、頭の体操として異時点間の消費選択の問題と、それへの対価のあり方は投資における金利の決定とは全く違う原理で行われるということを示す例をあげてみます。同じような事例を思いついたら、コメントに書き込んでみていただけると幸いです。

Aさんは、2000年式のインプレッサに乗っています。さすがスバルで、6年目に入ってもエンジンも足回りも好調で普通に使っている分には全く不便はありません。ただ、最近、気になる新車も出ています。特に、1年半前に発表されたXという車は、かなり気になっています。
今の実勢価格は250万円ですが、1年待てば200万円になります。
単純化のために貯金(あるいは無リスク資産)の金利は0%とします。(また、念のために減耗は考えないものとします)
Aさんは、今新車を買うべきでしょうか、それとも1年待って買うべきでしょうか?

(答えは追記に)

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貸金業者が売っているものは何なのか?

neon98さんに反論してみる・・・の巻で直球を投げ込んでみたところ、neon98さんから「市場」が成立することのメリットとデメリットというピッチャー返しを頂きました。

neonさんは「化学反応はたぶん生まれないと思いますが、お許しください」とご謙遜されますが、neonさんの次の文章を読んだときに、私はある意味「なるほどこれかぁ」と思ったわけです。

私が根本的に違うなと感じる、敢えて言うならこの点を無視して議論するのはナンセンスだと思うのは、

「装飾品市場を考えると価格が高いグッチやエルメスはリッチな人が買うが、消費者金融市場を考えると価格が高い高金利商品は貧しい人が買う」

という点です。金銭に個性はありませんから金融商品として設定できる個性は限定されています。無担保かつ審査を厳格にせずに迅速に貸し出しをする市場においては、貸し手の調達金利を無視すれば、ほぼ借り手の信用力によって商品の価格(=金利)が決まります(マクロ的要因はこの議論では無視してよいでしょう。)。つまりはいい商品を高く売るのではなく、同じ商品を貧しい人に高く売るわけです。

neonさんが、消費者金融を、「いい商品を高く売るのではなく、同じ商品を貧しい人に高く売」っていると考えているのであれば、上限金利規制は当然の話になります。しかし、ロジックで考えれば、「同じ商品」を「貧しい人にだけ高く売りつけることができる」状況は、①貧しい人に、より安い価格で売りつけようとする競合する売り手がおらず(あるいは価格協定が成立している)、かつ、②「安い価格」で買うことのできる「金持ち」が貧しい人に利鞘を乗せて売却する裁定取引の機会がないことが最低限必要です。

しかし、高所得者層に売る商品と低所得者層に売る商品が「同じ商品」=「金銭」であれば、誰でも「金銭」を持っている人であれば消費者金融に参入できるはずで、少なくとも①の前提は成り立たないはずです。ここに、経済学からみたときの、neonさんの誤解が潜んでいます。いえ、neonさんに限らず、ファイナンスにも造詣の深いTeajunさんの次の記述ですらneonさんと同じ種類の陥穽にはまってしまっているように思われます。

利子率は要求収益率であって、リスクに見合う分だけとるものだというのは、ファイナンス理論を知っている皆が知る原則だと思います。
どう考えても、僕には、消費者金融が負っているリスク(債務者のデフォルト、訴訟、その他)が、29.2%に見合うとは思えないんですよね。
全然違う投資形態ではありますが、「3件中1件大成功すればよし」とされるPEで30%、「10件中2件成功すればたいしたもの」、とされるベンチャー投資では40%くらいが、平均的な要求収益率です。
さらに社債の格付などでも、29.2%なんてのは、めったにみない数字です。
これらと消費者金融との比較が難しいのは分かりますが、こういった投資を脇で見ながら皮膚感覚的に、やっぱり「29.2%は高い」と感じている僕がいます。

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neon98さんに反論してみる・・・の巻

「借り換え」行動の合理性?をアップしてゼミに出かけていたら、入れ違いでneonさんから「上限利息規制は必要?」というTBをいただきました。で、最初は前のエントリーの追記として書き始めたんですが、長くなってきたので、独立したエントリーにしてみました。(・・・っていうか、1日に3つもエントリーをアップしている間にゼミのペーパーを書けという話もある(汗))

本来は貸金業懇談会で、こういう議論がなされて欲しかったという願いも込めて、今回はbewaadさん風にneonさんのエントリーに対して正面から反論を試みてみようと思います。 

年率29.25%は「高い」のか?

まず、neonさんは、次のように述べて既に従来の29.25%の上限でも十分に高かったのではないかという疑問を挺されています。

か つては銀行による個人に対する無担保融資というマーケットが欠如しており、個人に対する無担保融資といえば消費者金融会社からの高利融資だったようです が、現在は銀行系列会社による消費者金融市場への参入もあり、また大手消費者金融会社自身も融資金利を引き下げてきています。例えば銀行系のモビットなどでは実質年利15-18%などのローンがあるようですし、大手消費者金融の武富士でも実質年利27.375%としながらも信用力にあわせて実質年利10%からの融資商品があります。こういう状況の中でまず思うのは、現在の日本の金利水準を考えると年利29.2%って相当高い金利水準だという点です。

まず理屈の問題からいうと、モビットや武富士が10%-20%の領域を主戦場としていることは、その領域の顧客が中心であるという推定が働くものの、そこを 中心とした分散の大きさを見ない限り、29.25%を超える部分の顧客層については何らデータを与えてはくれません。むしろ、磯崎さんが紹介されていた堂下助教授の「上限金利引下げの影響に関する考察」(pdf)では、現在の29.25%の水準の下でもヤミ金融の利用者を80万人、市場規模が1.4兆円と見積もられています。この推定はヤミ金融ということの性質上極めて荒っぽい推定ですが、29.25%を超える金利への需要がそれだけ存在することを示しています。

また、本文で示したように「借り換え」のメカニズムが、情報の非対称性から生じる逆選択の問題を緩和しているとすれば、武富士やモビットが10%台で貸付ができるのは、適切なリスク層へのたターゲッティングができているからという可能性もあります。

何れにせよ金利水準-さらにいえば消費者金融機関の提供するスプレッド(貸出金利と調達金利の差)はそれぞれの市場の需要と供給で決まります。これまた磯崎さんが紹介されていた「上限金利規制が消費者金融市場と日本経済に与える影響」では、金利が25-30%帯において相当の超過需要が生じていることがデータで示されています。

仮に25-30%台の金利帯が「相当高い」金利帯で、貸し手側にとって「おいしい」金利帯であれば、むしろ供給超過が起きるはずです。この点からも、29.25%が「高い金利水準」であるという主張はサポートされないように思われます。

なお、neonさんはアメリカのクレジット・カードの金利と比較されますが、クレジット・カードの利用者はある程度のクレジット・ヒストリーを有する層なので、その意味でアメリカの借り手層の中では必ずしも高リスク層ではありません。(ちなみに日本でも例えばJCBカードのカード・ローンは15-18%ですから、これを比較すればアメリカと比べて高いというほどのものではないように思われます)。むしろ、アメリカでは消費者金融の2層化が進んでおり、借入手数料も考慮に入れるとPayday LoanはAPR470%、還付税金を引き当てにしたRefund Anticipation Loan(RAL)で70-700%になるとされています(Hellwig, 80 Nortredam L.Rev. 1567 参照(なお、この論文自体は、借り換えの問題に着目して、上限金利規制が必要という主張の論文であって、その意味では上限金利規制賛成論ですが、その水準は1か月ものの国債金利+50%です)。

というわけで、29.25%が「相当に高い」という主張はサポートされない・・・むしろ、データ的には「上限としては低すぎる」とすらいえるのではないかと私には思われます。

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「借り換え」行動の合理性?

過剰取立のローエコ的アプローチの方も完結していないくせに何ですが、neon98さんのコメントとgo2cさんの「ローエコ、経済物理学とウシジマ君、萬田銀次郎」を拝見していて、ちょっと気になったことがあるんで、忘れないように問題提起だけ。

まず、neon98さんのコメントで触れられている「借り換え」に関するところを。

職業柄多くの債務整理事例にあたってきましたが、取立ての手口というのは概ね借り換えのすすめです(やり方はかなりやばそうなものまで色々ありますが)。

私の乏しい経験の中でも確かにこれは思い当たる節があって、いわゆる「債務整理」という名目で、デフォルト状態に陥っている債務者に対して遅延利息よりは低いが元の貸出金利よりは高い、とか、元の貸出金利よりは高いが返済期間が長期のため月々の支払額そのものは少ない借入に切り替えさせるという手法が現に存在します。

結果として、最初は10%台の金利で借りていたのが、最後は30%弱の金利の借入になっていくという現象が少なからず見られます。

ということで、neon98さんとgo2cさんは、上限金利規制に次のような意味合いを見出されています。

ちなみに私自身は債務者に早くあきらめさせるために一定の上限金利(固定か、どの程度の利率かはともかくとして)を法で強制すること自体は合理的と考えています。(neon98さん)
上限金利の引き下げは、「自転車操業」の債務者の破綻を早めることになるかもしれませんが、それは社会として周りが見えなくなってるであろう債務者に「この金利が返せないとしたらもう無理だよ」と引導を渡すと言う意味で有意義だと思います。(go2cさん)

・・・さて、この「自転車操業モデル」に対する私の最初の疑問は、これでは単なる「リスクの押し付け合い」であり、借り手が近視眼的とかどうとかいう前に、リスクを押し付けられる側の貸金業者の方が先に破綻してしまうんじゃないかということです。

この「リスクの押し付け合い」が意味をなすのは、「前の貸し手」よりも「後の貸し手」の方が、相対的にリスクの評価や負担能力に優れている場合です。ただ、リスクの負担能力というのは、基本的にはポートフォリオによるリスク管理が主流になるのでしょうから、直観的には大手の方が有利にも思えます。とすると、むしろ借り換えの信用を提供する業者は、高リスク債務者のリスク評価能力において大手にはないノウハウを持っているということではないかという推測が成り立ちます。

元々、融資時点では債務者の信用能力に関しては大きな情報の非対称性が生じます。前から不思議だったのは、にもかかわらず、大手の消費者金融の与信審査は極めて簡易という点でした。普通に考えれば、これでは逆選択が生じ、リスクの高い借り手が集まりビジネスモデルが成り立たないはずです。

しかし、「借り換え」というプロセスを通じて、リスクの高い消費者が順次高リスク債務者のリスク評価に優れる中小の貸金業者に流れるとすると、この「逆選択」の問題が一部解消されるんではないでしょうか?

この場合、大手業者が最終的にとらなければならないリスクは、中小業者ですらとれない高リスク債務者か、あるいは、事後的に財務状況が悪化してしまった誠実な不履行者のデフォルトリスクに限られる点で、リスク管理は遙かに容易になりますし、提供する金利水準も押さえることが可能です。

仮に、この「借り換え」が禁じられたとすると・・・大手業者は、本来金利に見合わない高リスクな債務者が申込みをしてくるリスクを引き受けなくてはいけません。これを排除するためには審査をより厳格化せざるを得ませんが、それでも完全にリスクを排除することはできません。これはダイレクトに大手業者のポートフォリオリスクを高めることになるので、それを埋め合わせるためには金利を高く設定せざるを得ません・・・その高い金利でも借りたいと考えるのは、これまた高リスク債務者ですから、ポートフォリオはますます悪化していきます。
さすがに、このプロセスが無限に続くとは思いませんので、どこかで均衡するとは思うのですが、結果としては、例えば、これまで大手から10%で借りることのできた消費者も15%でしか借入ができなくなるといった具合に、リスクの高まりに応じた金利の上昇が生じる可能性があります。

こうした点も考えると、上限金利を設定することによって、この借り換えプロセスを禁ずることは、単に供給サイドの提供できる上限を切るだけでなく、実質的な供給コストの高まりによって供給曲線自体を上方にシフトさせる効果を持ち、ますますアウトプットを減少させてしまう可能性があるように思われます。

もちろん、個々の債務者の非合理性を利用した「借り換え」行為もあり得るとは思いますが、そうしたプロセスがどのようにして生じるのか、そして、それを抑制するのに上限金利規制を利用するのが適切かは、かなりつっこんだ議論が必要なのではないでしょうか?

・・・と、とりあえず思いつきだけ残しておきます。何せ思いつきですので、忌憚のないご意見・ご批判を歓迎いたします。

なぜ過剰取立は起きるのか?(1)

さて、なぜ過剰取立は起きるのか?(イントロ)に対しては、非常に素晴らしいコメントを頂きありがとうございました。

実際、いつものごとく私が考えていたネタのほとんどは言い当てられてしまったわけですが、私が当初考えていたのは、次の4つのシナリオでした。

  1. 対Strategic Defult(又は情報の非対称性)
  2. 集合行為問題(又は囚人のジレンマ)
  3. シグナリング
  4. Behavioral Bias(Fairness)

というわけで、それぞれのシナリオについて順々に紹介してみます。

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「世の中」とローエコ

(4/19 かっちさんのコメントをうけて全面的に加筆修正)

昨日の「なぜ過剰取立は起きるのか?(イントロ)」に対しては、期待どおり、素晴らしいコメントを頂いていますので、もうしばらくオープンにしておいて、磯崎さんからTBしていただいた「なぜ過剰取立は起きるのか?(47thさんの記事より)」について、いい機会なので、「世の中」(現実世界)とローエコ的思考法との隙間について普段から思っていることに少し触れてみます。

(「ウシジマくん」に出てくるような)そうした、「説明義務だモニタリングだと工夫したところで、とてもマトモな挙動をしてくれなさそうな人たち」を、法がどこまでどのように規制したり保護し たりしなきゃいけないのか、というのが、「経済学」的な考察から導かれるものなのかどうか、(上限金利の引き下げで合法的には成り立たない顧客層への貸付 が闇金業者に流れたり、そういった闇業者と同じ土俵で回収しなければならない「一部上場企業」がどういう状況に陥っているか、返済困難に陥ってる人とか多 重債務者が、実際にどんな人たちなのかを見ることもなしに語れるのかどうか)、このマンガを読んで悩んでしまった次第です。

私も学部生時代にナニワ金融道で手形法を勉強したクチですが、「ウシジマくん」というのは存じ上げず、磯崎さんが「お付き合いのある「人間」からはほど遠い方々」というのが、どのぐらいのものなのか・・・想像ばかりがふくらんでしまいます。

確かに、「世の中」には、ちょっと普通の感覚からは外れた行動原理や様式をとる人々というのが少なからず存在します。また、そもそも世の中の大多数の「普通の人」自体が、経済学的な考察が前提とする「合理的な人間像」からは大きく外れています。

こうした現実の「世の中」に対して、「合理的な人間」を仮定した経済学的なアプローチはどれだけ有効なのか?
そもそも、周りを見回しても厳密な意味で「合理的な人間」は一人もいないんであって、経済学は現実に基づかないモデルに立脚した虚構ではないのか?

こうした疑問はローエコ・・・というよりも、そもそも経済学には宿命のようについて回るものです。
本来は経済学の徒ではない者が、これについて語るのが適切なのかは分かりませんし、思い違いもありますが、しばしばローエコ的なアプローチをとる法律家として、私は次のように答えることにしています。

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なぜ過剰取立は起きるのか?(イントロ)

テストも目前に迫って忙しいときに限って、余計な思いつきは生まれるので困ったものなのですが(苦笑)、貸金業制度等に関する懇談会では、上限金利規制と並んで取立規制の強化についても触れられています。

確かにアイフルの件などでも、過剰な取立方法の問題というのは出ていますし、私自身、修習生時代には指導担当の先生と一緒に債務整理などにも関わったので、苛酷な取立手法は必ずしも例外的な事例ではないし、問題だとは思います。

ただ、「問題だから規制を強化すればいい」というのは、余りに短絡的に過ぎる上に、往々にして期待したような効果は得られないものです。病気にたとえてみれば、本当の原因を理解せずに単にその症状を抑えるための薬を与えていても、根本的な問題が解決しなければ、何れはまた症状が現れ、それを押さえるために、より強い薬を使わなければならなくなり・・・そして、薬が強くなればなるほど副作用も大きくなるからです。

・・・と、前置きが長くなりましたが、そもそも何で消費者金融業者は苛酷な取立を行うんでしょう?

「よりたくさん回収したいからに決まっているだろう」

と言われそうですが、ちょっと立ち止まって考えてみると、ことはそれほど単純ではないんじゃないでしょうか?

というのも、消費者金融というのは通常は無担保あるいは担保が限定された貸付で、返済原資の中心をなすのは、債務者個人が将来にわたって稼ぎ出すキャッシュフローだからです。
その意味では、これは企業に対する無担保貸付にもよく似ています。そのアナロジーで考えてみると、すぐに分かるのですが、取立を厳しくすることは、色々な形で債務者の稼ぎ出す将来のキャッシュフローに悪影響を与えます。

典型的なのは、職場に対する取立電話や、朝駆け夜討ちの電話・訪問ですが、こうしたプレッシャーによって債務者がナーバスになって仕事に集中できなければ生産性は落ち、それが稼ぎ出すキャッシュフロー(給与)に悪影響を与えたり、もし勤め先を失うことになれば、キャッシュフローはとまってしまいます。

非常に単純化されたモデルで、債権者が一人で、債務者の稼ぎ出したキャッシュフローの一定割合が確実に債権者への返済に回されるのであれば、過剰な取立てで債務者の生産性を削ぐのではなく、むしろ債務者には仕事に専念してもらうようにすることが望ましいはずです。

・・・にもかかわらず、実際には過剰取立が後を絶たないのは、その単純なモデルの前提が現実において当てはまらない場合があるからだと考えられます。ということで、この前提が当てはまらないことによる過剰取立の原因を考えて、それに対応するための制度的枠組みを少し思いつくままに書いてみようかななどと思います。

ローエコ的な発想を養う、一種の頭の体操ということで宜しければお付き合いください。

利息制限法と借り手保護の微妙な関係(3)

(4/19 追記あり)

アイフルに対する業務停止命令は、それ自体興味深いニュースでしたが、今日開催された金融庁の貸金業制度等に関する懇談会で、上限金利20%以下への引下げの方向性が固まったと報道されています。以下はNIKKEI NETの記事からの抜粋です。

金融庁の貸金業に関する懇談会は18日、消費者金融など貸金業者による貸し出しの上限金利を現行の年29.2%から年20%以下に引き下げることでおおむ ね一致した。ただ、貸金業者や一部委員からは「消費者側の意見を一方的に取り入れている」との異論もある。懇談会は21日に中間整理をまとめる予定で、上 限金利の水準などを巡る攻防が大詰めを迎えている。

まだ最終決定ではないようですが、成立すれば消費者金融のビジネスモデルや高リスク資金ニーズへの供給ルートが根本的な変革を迫られることになります。

既に1月の最高裁決定以降、アイフルをはじめとした消費者金融各社の価値は相当なペースで失われています。


 少なくとも株式市場は消費者金融が数千億規模の価値を生み出してきたと評価していることになります。
この価値が単に高金利により借り手から消費者金融への「富の移転」であれば、社会全体としての損失は限定的であり、この株価の下落は「高い上限金利の下で暴利を貪ってきた消費者金融への鉄槌」ということでいいのかも知れません。

しかし、競争的な市場では、消費者から事業者への富の移転には限度があることも知られています。

もし現実に存在している消費者金融市場が、ある程度競争的な市場だとすれば、消費者金融業者の時価総額の下落の一部(それがどの程度のボリュームになるのかは、それ自体定量的な測定が必要ですが)は、社会的な損失となり、bewaadさんNight in Tunisiaさんのとりあげられているようなルートを通って、資金需要があるけれどリスクが高いところには資金が行き渡らないことや、場合によっては、非合法な金融手段(ヤミ金)に頼らざるを得ないという事態も起こり得ます。

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訴追と防御のバランス:会社による弁護費用支払いをめぐって

実は先週から両親がNew Yorkに遊びに来ている上に、来週からはロースクールの春学期試験が始まり、その準備と並行してゼミのペーパーも書かなくてはいけないという、なかなかしびれる状況にあるため更新が滞っています。

ただ、旬の話は書き留めておかないと忘れてしまうので、New York Timesからのこんな記事を。

Judges Press Companies That Cut Off Legal Fees (New York Times)

The judge in the tax-shelter trial of former tax professionals at KPMG last week ordered a hearing to determine whether prosecutors had improperly put pressure on the accounting firm to stop paying the defendants' legal bills....
This shift from a long tradition of paying such costs, one that is codified in many companies' bylaws and in some states' laws, has come since the Justice Department set guidelines in 2003 amid a sweeping crackdown on corporate fraud.
The guidelines, contained in the so-called Thompson memorandum... lay out factors that prosecutors can weigh when deciding whether to seek an indictment of a company — a virtual death knell for many companies, as it was for the accounting firm Arthur Andersen in 2002. Among the guidelines is to stop advancing lawyers' fees to employees caught up in investigations.
Other principles spelled out in the memorandum have drawn fire from defense lawyers in recent years, in particular one that encourages companies to waive their attorney-client privilege...The United States Sentencing Commission recently announced that it was dropping language in its own guidelines that encouraged waiving the privilege if white-collar defendants wanted leniency in sentencing.

要するに、司法省が、犯罪の嫌疑に関して会社自身を訴追するかどうかを決する際に、会社が役員や従業員のための弁護費用を支払っていると不利に取り扱われる=訴追される可能性が高まるために、嫌疑がかけられた場合に、会社が役員・従業員のための弁護費用の支払いを止めてしまうことがあるという話です。

そもそも犯罪の嫌疑がかけられている役員・従業員のための弁護費用を会社が支払うという発想に対して日本では嫌悪感が強いのかも知れませんが、その点については次のように書かれています。

...The cutting off of legal fees "is the hardest one to justify," said Stephen J. Bronis, a Miami lawyer who is the chairman of the white-collar crime section of the American Bar Association. The suggestion "flies in the face" of existing laws and the constitutional right to representation and a fair trial, he said.
...Defense lawyers, including Mr. Bronis, said that to avoid indictment, companies may feel that they have no choice but to show cooperation with investigators by cutting off legal fees, among other things.
...Less money for legal fees have can a notable impact, particularly in complex cases that turn on an arcane tax code. It means sifting through fewer papers in search of evidence, doing less case research, filing fewer motions, hiring fewer expert witnesses, doing fewer background checks and not hiring trial consultants.
It can also mean not being able to hire a top-notch lawyer to appeal a conviction. A truly indigent defendant receives a court-appointed lawyer, but that lawyer may not necessarily be the most skilled at handling complex cases.

当たり前の話ですが、企業レベルで犯罪の嫌疑がかけられた場合には、分析しなくてはならない資料は膨大な量であり、また、弁護士なら誰でもいいという訳ではなく、そうした事件のためのスキルが必要です。

これがあって初めて武器対等という話になるわけですが、そのための弁護費用は膨大な額に上ります。
会社の業務との関連で嫌疑をかけられた場合には、会社が弁護費用を補填することができるというのが、アメリカの会社法上の一般的な整理なのですが、これに対して「会社法上やってもいいかも知れないが、そんなことをすれば会社自体を起訴するぞ(それがなければ、会社は不起訴にしてやってもいい)」と言われれば、役員・従業員、特に従業員が実質的な防御をすることは極めて難しくなるわけです。

他方で、本当に違法行為に関与していた場合には、そうした役員・従業員は自業自得というところもあるのが、制度設計としては悩みどころです。ただ、そのメリット・デメリットを考慮した上での一つのバランスが会社法上の整理であって、これを無意味にしてしまうようなガイドラインを司法省が定めることについては、問題が残ることも確かです。

もっとも、それ以上に私の印象に残ったのは「悪いことをした(と疑われている)奴には情けをかける必要はない」という発想ではなく、訴追側と防御側のバランスで物事を考える姿勢の部分ということで、ご紹介まで。

印刷しやすくしてみました

試験も迫る中、MTを判例データベースとして使えないかという思いつきを試す中で、サイドバーを消して印刷しやすいような形態にする方法を知ったので、早速試してみました。

Firefoxではうまくできないようですが、IEではサイドバーなしの本文だけがプリントアウトできるようになっています。

左側に少し余白が入っているのは、判例DBとして使ったときにメモとかを書き入れるスペースをつくっているということで。ちなみに、作成予定の判例DBの方は私的な試験・執筆対策なので公開する予定はないのであしからず・・・っていうか、こんなことしている間に地道に復習した方が早いという噂もありますが・・・

とりあえず、これからゼミが始まりますので、この辺りで。

あと、日本から客人が来ていたりするので、コメントへの対応が少し遅れるかも知れません。ご了承ください。

法と社会と開発と「契約の再生」

既に各所でとりあげられている内田貴東京大学教授(民法)の「法科大学院は何をもたらすのか または 法的知識の分布モデルについて」、遅ればせながら雑感を。

思い出話から入ると、私は、身の程知らずなことに一時期東大の大学院の研究者養成コースなんぞにいたんですが、大学院生時代に内田先生の契約法のゼミで勉強させて頂いたりしました。

正確なゼミのタイトルは忘れたのですが、伊藤元重先生の「挑戦する流通」や「日本の物価はなぜ高いのか―価格と流通の経済学」を読んだりしながら、価格破壊の裏側を支えるプライベート・ブランドや物流システム、あるいはコンビニエンス・ストアをはじめとしたフランチャイズ・システムの経済実態を調べながら、そこで成立している規範の内容と成立過程、効力を分析するという、今にして考えても、かなり野心的な素晴らしいゼミでした。

当時は、ぐーぐる様もいなかったので、コンビニのビジネス・モデル一つ調べるのにも大変苦労して、本郷の公衆電話から主要チェーンの広報に電話をしてインタビューを試みたりしたことが懐かしく思い出されます(笑)。

なんで法学部の民法ゼミで、そんなことを?、と思うかも知れませんが、その背景にあったのが、内田先生の名著「契約の再生」でした。アメリカの学者Gilmoreの「契約の死」(The Death of Contract)を受けて書かれたこの本は、アメリカにおいて「意思」に基づく古典的な「契約観」が死に絶えていく過程と、その一方で新たな契約理論-とりわけ社会関係に基礎を置いた「関係的契約論」が生まれる過程を描き、この関係的契約理論が日本民法における継続的契約関係の処理や「信義則」の活用といった現象を能く説明し得るという示唆を与えるものでした。

「法」が社会を律するのではなく、「法」の前に「社会関係」が存在し、その「社会関係」が具体的な「法の解釈・適用」を規定するというアプローチの延長として、現在進行形で生まれている新しい社会的実態である流通革命やフランチャイズ・システムを分析し、そこで育まれている規範を探し出すというのは、「契約の再生」からいえば、ごく自然な流れなのですが、どちらかというと「法」それ自体の形成過程を裁判例や学説から見ていく伝統的な法学アプローチからすると随分異例でした。

・・・と、こんな昔話をしたのは、単なる思い出というだけではなく、内田先生のよって立つこういう「法」と「社会」のかかわり方が、冒頭に紹介した記事で書かれている「法的知識の分布モデル」の話につながってくるような気がするからです。

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「自主規制」強化と競争法 (1)

昨日に引き続いて業界団体(事業者団体)の活動と競争法の関係するお話です。

上場企業監査、登録制に 会計士協会が自主規制強化 (asahi.com)

日本公認会計士協会(藤沼亜起会長)は6日、上場企業を監査する監査法人や公認会計士の個人事務所に、07年度から登録制を導入すると発表した。一 定の水準に満たない事務所は登録リストから除名し、上場企業の監査を続けることが事実上難しくなる。・・・
 ・・・監査法人の評価などを担当する同協会の品質管理委員会に新組織を設け、上場企業の監査を手がける全事務所に登録を求める。登録事務所には、品質管理体制について文書で提出させ、要求水準に達しているかをチェックする。
 申告した水準の業務を実行できなかった事務所には協会が改善を勧告するが、不十分な場合は除名を含めた処分を出す。
 監査法人や会計士は法律上、上場企業の監査を手がけることに特別な制限はない。しかし、協会の登録から除名されると評価が低下し、投資家の信頼を重視する上場企業の監査からは、事実上排除されるとみられる。

さて、「上場企業の監査水準の向上」は、少なくともそれ自体は社会的にも望ましくみえる目的ですし、現に与謝野金融相も「自分たちの力と判断で運営し、不祥事を少なくしていこうという努力は高く評価したい」「(登録制の)運営を暖かく見守っていかなければならない」と評価しているようです(NIKKEI NETの記事より)

こういう善意に満ちた創意工夫をしようとしているときに水を差すようなことを言うので弁護士は嫌われるんですが、動機としての善意は結果としての善を何ら保証するものではありませんし、ある行動の持つ負の側面を見つめることが社会的にみてより望ましい結果をもたらし得ると信じて、この取組において生じ得る競争法上の問題に触れてみたいと思います。

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牛乳減産「指導」と競争法

全酪農家に生乳減産指導へ 生産過剰で北海道農協中央会 (asahi.com)

牛乳消費の低迷などで過剰になった生乳約900トンが北海道で廃棄処分された問題で、生産計画を立てる北海道農業協同組合中央会などが今年度、道内酪農家 の全7800戸に生産量を一律で減らすよう指導することを決めた。指導は13年ぶり。指導に応じなければ、買い取り価格に一定の「罰金」を盛り込むことが 検討されており、各農家にとって事実上の減産の「縛り」となる。12日に各農協に伝える。

一見、どこにでもありそうな話なんですが、競争法的には興味深い論点を含んでいるので、とりあげてみましょう。

独占禁止法8条
事業者団体は、次の各号の一に該当する行為をしてはならない。
 一定の取引分野における競争を実質的に制限すること。

「事業者団体」の正確な定義は避けますが、大まかにいうと事業者が自主的に形成している団体のことで、農協なんかの業界団体はその一つの典型です。

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「前提」の大切さ

私のような企業法務をやる弁護士にとって重要な仕事の一つに、法律意見書や法的論点の分析をしたメモランダムの作成というのがあります。

「法律意見書」と「メモランダム」の線引きというのもなかなかに味わい深いものなのですが、今日の論点は両者において共通する点-「前提」の重要さということについて、一つ考えさせられるニュースを。

「風車が回らず発電しない」、つくば市が早大を提訴 (asahi.com)

茨城県つくば市が小中学校に設置した小型風車がうまく回らず、計画通りに発電できていない問題で、同市は7日、風車設置の基本計画作成やシステム設計をし た早稲田大と風車を製造した大阪市のベンチャー企業を相手取り、風車23基の設置費用2億9860万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。 

何故地元の筑波大学に頼まなかったんだろうとか、該当する小学校の理科の先生が児童に「何でうちの学校の風車は回らないの?」という質問をされて答えに詰まってしまっているんではないかという野次馬的な関心もさることながら、私にとって気になったのは、次の部分です。

訴状などによると、市は04年度、発電量の調査やシステム設計を早大に業務委託。これを基に市は回転部分の直径が約5メートルの風車23基を設置した。し かし、早大が算出した予測発電量は直径15メートルの風車が前提で、市が設置した風車では予定を著しく下回る発電しかできないとしている・・・
これまでの協議の中で市は・・・「予測発電量が直径15メートルの風車で算出されたことは知らなかった」と主張。早大側は「(予測の際の風車と設置された風車が)違うことを市は知っていたはずだ」と反論していた。

早大が、どういう形で成果物を提出することになっていたのかは分かりませんが、この書きぶりを見ると、「発電量の調査やシステム設計」にとって中核となるべき「風車の大きさ」について書面等で明確にはされていなかったんじゃないでしょうか?

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遅ればせながら、ソフトバンク・ヴォーダフォンについて (3)

前回からちょっと間があいてしまいました。

スキームを忘れてしまったという方のために、スキーム図を再掲します。

前回は①の100%子会社の設立と②買収資金の貸付けのところまで話しましたが、買収資金の貸付けについては共同主幹事7社が発表されています(4/4付プレスリリース)。

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フィードバックとトライ・アンド・エラー

個人情報保護法1年、識者から「法改正必要」の指摘も (Yomiuri.net)

個人情報保護法が全面施行されて1日で丸1年。
 法制定にかかわった国会議員や政府の検討部会などの委員を務めた識者らに、読売新聞がアンケート調査したところ、回答者の多くが、相次ぐ過剰反応や公益情報の非開示を懸念し、運用見直しだけでなく法改正の必要性を感じていた。・・・

回答者のうち、「保護法の運用は適正」としたのはゼロ。混乱や不適切な運用が、「一部」または「かなりある」が30人、「そもそも法に欠陥がある」が5人だった。
 必要な対策(複数回答)については、「法の趣旨や必要な情報提供への理解を求める啓発」「明確な解釈指針」が各16人、「実態調査」「省庁の指針見直し」が各14人だった。
 33人は何らかの法改正が必要と指摘。「行政機関個人情報保護法に、情報の有効利用、公益情報提供についての規定を盛り込む」「公益情報を共有可能にするため、個人情報の保護の範囲などを見直す」は、いずれもその半数を超えた。
 過剰反応や不適切な運用の原因では、「個人情報を悪用した犯罪など治安悪化を背景に、住所や氏名も明かしたくないという意識が広がっている」が 24人と最多。国や自治体のPRや研修不足で、「法の趣旨が理解されていない」が22人、「法や条例の適用範囲や解釈に混乱がある」が18人に上った。

昨日の記事とも関連しますが、「「運用は適正」としたのはゼロ」という結果は、法案作成段階での政策立案能力や立案過程という面から考えると何とも寂しいところです。

ただ、法令というのは、先に実験室で実験してみてからというわけにはいかないのも確かなところです。
やる前から「ああでもない、こうでもない」とこねくり回し過ぎたり、(実際には達成し得ない)最適解を追及しようとすると、結局現状維持のままということにもなりかねない・・・ということを、昨日の記事にTBしていただいたgo2cさんの記事を読みながら考えていたところだったので、個人的にタイムリーな話でした。

こうして実際の運用に関してフィードバックを得て、それによって法令が修正されていくのであれば、多少思い切った方向で舵を切ってみるというのもいいんだと思います。

もっとも、誰もが「おかしい」とか「悪法」だと思っていても、一度既成事実化してしまった現状を変えるための労力が余りに大きく、結局、「悪法」が「悪法」のまま放置される状態になる可能性もあるわけで、その辺りは気をつけて見ていきたいところです。(なお、これは一般論の話で、個人保護法が「悪法」だと言っているわけではありません。為念)

事前の政策立案については慎重さを欠いて大胆に行動しておきながら、それを改める段階ではあれこれと理由をつけて尻込みするという組み合わせが一番まずいんで。

「違法」駐車のコストとベネフィット

(追記あり)

駐禁、車離れたら即摘発 6月から民間委託 (asahi.com)

道路を「仕事場」とする業界の悩みは深い。
 ヤマト運輸は、車を使わない集配システムに切り替え始めている。首都圏を中心に「サテライトセンター」を設け、半径400メートル圏内を台車やリヤカー付き自転車で配達する。
 コストと排ガスを抑えるための試みが違法駐車対策にもなりそうだ。
 違反すれば、反則金の支払いに加え、手続きに時間をとられて配送計画が崩れる。違反を重ねれば、今後は車両の使用制限を受ける恐れもある。
 同社は昨年までに、24時間営業のコイン駐車場と法人契約を結んだ。
 「高層マンションでエレベーターを待ってるだけでも、5分を超えたりしますから」
 その場合、取り締まられる可能性が高い。同社は今後、取り扱い契約を結んでいるコンビニや酒屋などに駐車場の利用を依頼するという。

・・・ということで、何だかエイプリル・フールのネタかと思ってしまう話です。

そもそも、駐車禁止も含めて道路に関するさまざまな法規制は、「道路」という資源を最適に利用するためのツールのはずです。そして、「道路」の有効利用の仕方にはいろいろなやり方が考えられますが、家庭レベルでの物流、つまり宅配便や郵便をスムーズにするということも一つの目的のはずです。

駐車禁止の取り締まりを厳格化・厳罰化すれば、確かに駐車違反はなくなり、「道路の外観」はよくなるかも知れません。

でも、駐車禁止の目的は、「道路の外観」をよくすることではなく、「道路の有効利用」です。

渋滞など考えられないような平日の昼間の住宅地に、宅配の車一台も駐車できないというのは、有り体に言って資源の無駄遣いでしかありません。
もっといえば、そのためにコイン駐車場を利用しなければならないとすれば、それは運送業者に対して実質的に課税するのと同じことです。運送業者に課された税金のために生じるサービス価格の上昇とアウトプットの減少は、利用者の便益を損なうと共に、その課税はどこに行くかといえば、国庫に入るのではなく住宅地のコイン駐車場にいく・・・

という感じで、盲目的に駐車禁止の摘発を厳格化・厳罰化することは深刻な社会的な損失を生む可能性があります。政策立案者に本来求められるのは、そうした社会的な損失と得られる便益(この場合は駐車禁止の厳格化がどれだけ渋滞の解消や事故の減少に資するのか)を十分に比較すると共に、損失を最小化するための補完的な政策を立案することのはずです。

この新聞記事だけで断定的な判断を下すことはできませんが、こうした政策立案における基本的なコスト・ベネフィット判断や、コストを最小化するための検討がきちんとなされたのかは少し疑わしいところ。

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法律・経済・時事ネタに関する「思いつき」を書き留めたものです。
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